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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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案件後の空白

 表紙デザインの案件が終わった後、姫川の生活はどこか静かなものに変わった。毎日の作業に追われる事もなくなり、時間は緩やかに流れる。

 だが、その静けさの中には、以前にはなかった微妙な違和感が潜んでいた。


 佐伯とのやり取りが自然に減っていったのだ。案件中は頻繁に交わされていたメールや短い電話、立ち会いの為の訪問も、もう必要がなくなった。必要がないのだから、連絡は必然的に途切れる。

 姫川は、ふとした瞬間にその事を意識した。


「……やっぱり、静かすぎるな」


 ぼそりと、そう呟くと、空白の時間の存在感が増す。けれど、特別な寂しさや不安ではない。唯、習慣的にあったやり取りが消えた事で、存在の隣にあった“何か”がなくなったような感覚があった。

 案件を通じて形成された、微妙な均衡の痕跡だけが残ってしまっていた。


 姫川は考える。誰も悪くはない。佐伯もまた、自分から距離を置いたわけではない。拒絶でもなければ、友情でもない。唯、案件が終わっただけだ。その事実は、理屈では理解できる。頭では解っているのに、心の奥では静かに空洞が広がる。


 毎日のルーティンの中で、姫川は以前よりも自分の時間の感覚を強く意識するようになった。食事、読書、仕事場での作業、夜の静かな時間。どれも孤独ではないのだが、ふとメールを開く指先が止まる事があった。


「この人に今、報告すべき事はない」と思うと、指先に力が入らず、スマートフォンは唯手元に置かれるだけになる。


 佐伯は変わらずに日常を生きている筈だ。とはいえ、その変わらなさが、姫川には少し遠く感じられた。案件中は互いに時間や行動を調整し、細かなやり取りを重ねていた。

 されど今、必要がなくなった途端に、互いの距離は自然に空いた。空白は、唯存在するだけで、言葉にされない圧力を帯びていた。


 案件という接点がなくなると、関係は薄れていく。それは必然であり、避けられない事だった。

 だれども、空白の中に漂うものは、単なる不在ではなく、何かを残していた。案件を通じて互いに築かれた、言葉にされない信頼や理解、互いの立場を尊重する感覚。それが消え去る事はない。


 それでも、姫川はふと寂しさを覚えた。

 佐伯に何かを伝えたいわけではない。唯、日常の中で小さな存在を確認したいだけなのだ。

 しかし、必要がない以上、それを口にする理由も手段もない。沈黙は自然に成立している。


 姫川はノートパソコンを開き、軽く作業をする。過去に作ったデザインの資料を整理しながら、案件が終わった後の余白を埋めるように手を動かす。

 けれども、画面の向こうには佐伯の目はない。画面の向こうには、もう案件の延長線上の緊張も、確認も、討議も存在しない。存在するのは、姫川自身の手元と、静かな空間だけだ。


 思い返すと、案件中のやり取りも決して頻繁ではなかった。必要最低限の確認と報告、そして少しばかりの雑談。それだけでも心のリズムは互いに調整され、ある種の連帯感を生んでいた。

 案件後、そのリズムが途絶えると、姫川は自分の心の内側に、ぽっかりと穴が空いたように感じた。


「連絡が途切れるという事は、こういう事か……」


 それは悲しみでもなければ怒りでもない。単なる事実の認識だ。誰も拒絶していない。誰も失っていない。それでも、間合いの感覚は変化していた。案件を通じて築かれた均衡が、静かに溶け出したのだ。


 姫川は深く息を吸い、窓の外を見た。外は穏やかな冬の光が差し込み、風は静かに吹いている。心の中の空白も、この静かな風景の一部のように感じられた。

 必要以上に埋める必要はない。自然と受け入れるべき空間なのだ、と、姫川は自分に言い聞かせる。


 その日、姫川は佐伯に連絡を取る事はなかった。必要もないし、理由もないが、どこかで意識の片隅に佐伯の存在は残っている。

 案件後の空白。それは、沈黙のまま、確かに二人の間にある。

 そして姫川は、少し不思議な感覚に包まれる。誰も悪くない、誰も拒絶しない。それでも、隙間は存在する。互いに手を伸ばさなくても、関係は静かに形を保っている。それは、案件が終わった者だけに許される、静かな余韻のようなものだった。





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