墨の匂い、紙の白
佐伯の仕事場は、午後になると決まって静けさを深める。
通りに面した窓から差し込む光は、柔らかくも容赦なく、室内のすべてを白日の下にさらす。積み上げられた半紙、使い込まれた硯、乾ききらない墨の黒。そこに、長年染みついた煙草の匂いが重なっている。
半紙の前に座り、筆を取る。
いつもなら、思考より先に身体が動く。一画目に迷いはない。
だが、この日は筆先が紙に触れる直前で、ほんの僅かに止まった。
「……らしくないな」小さく呟き、筆を置く。
煙草に火をつけ、深く吸い込むと、紫煙がゆっくりと立ち上った。墨の匂いと混ざり合い、空間に重く残る。
集中できない理由は分かっている。分かっているからこそ、認めたくなかった。
不意に、スマートフォンが震えた。画面を見ると、姫川からのメッセージだった。
『表紙の件で、少し見てほしい案があって。時間、大丈夫ですか?』
短い文面。仕事の用件。
それだけの筈なのに、胸が僅かに反応する。
『今なら』そう打ち込み、送信した。
数十分後、インターホンが鳴る。
ドアを開けた瞬間、墨と煙草の匂いに姫川は少し目を瞬かせ、無意識に肩に掛けていたバッグを持ち直した。
紫煙がゆっくりと流れる中、姫川は無意識に一歩距離を取った。
煙草自体は平気だが、この部屋の匂いだけは違った。
それは、まるで佐伯の生活そのものが香りとして漂っているかのようだった。
「……相変わらず、いい匂いですね」
「褒めてるのか、それ」佐伯はぶっきらぼうに返すが、拒む気配はない。
姫川は軽く笑い、仕事の顔に切り替えるように室内へ入った。
机の上に資料を広げようとして、姫川の視線がふと佐伯の左手首に落ちた。シャツの袖口から覗く黒い線に、ほんの一瞬だけ視線が留まる。
だが、何も言わず、すぐに資料へと目を戻す。
「この文字、使わせてもらえたらと思って」
差し出されたデザイン案には、佐伯の書が大胆に配置されていた。余白の使い方、線の強弱。確かに、悪くない。
「……分かってるな」
思わずそう口にすると、姫川は少しだけ得意げに笑った。
「書が主役になるように、邪魔しないようにしました」
その言葉に佐伯は一瞬、視線を逸らす。
仕事の評価なのに、胸の奥が静かに熱を持つ。
沈黙が落ちる。だが、居心地は悪くない。
「この前の事」不意に姫川が口を開いた。
佐伯の肩が、僅かに強張る。
「あの夜、です」
続く言葉を待つ間、時間が妙に引き延ばされたように感じる。
「……嫌だったら、ちゃんと距離取ります」軽い口調だが、目は真剣だった。
佐伯は暫く黙り込み、それから小さく息を吐いた。
「嫌なら、ここに呼ばない」 それだけを言う佐伯の声には、普段の冷静さとは違う、ほんの僅かな緊張と優しさが混ざっていた。
姫川は一瞬驚いたように目を見開き、すぐに、柔らかく笑った。「じゃあ、少しだけ、安心しました」
それ以上、踏み込まない。追及もしない。
二人は再び資料に視線を落とし、仕事の話に戻った。けれど、空気は確かに変わっていた。
言葉にしなくても伝わる何かが、そこにある。
佐伯は新しい半紙を取り、筆を構えた。 姫川が背後で黙って様子を見ている気配を感じながら、墨を含ませ、今度は迷わず紙に落とす。
線は、確かに呼吸していた。
――まだ名前はない。
だが、この関係が、静かに形を持ち始めている事だけは、はっきりと感じていた。




