離れた場所で
姫川は資料の修正を終え、パソコンの前で大きく息を吐いた。画面には今日の作業の履歴と、同僚からの短いメッセージが並ぶ。
「資料できた?」「今日の修正案送ったよ」——簡単なやり取りだけれど、その存在が、仕事が回っているという安心感を与えてくれる。
一息ついた瞬間、ふと佐伯の事が頭をかすめた。昨日の夜の彼の様子を直接見たわけではない。唯、居酒屋で一人で悶々としているだろう事、思わず感情が溢れて灰皿に手をかけたかもしれない事……頭の中で、彼の輪郭がぼんやり浮かぶ。
現実では何も知らないのに、何故か心のどこかで、彼の行動や感情を追体験するような気持ちになる。
姫川は画面を見つめながらも、考えは別の方向に流れていく。自分の決断、やるべき仕事、これからの進め方。
昨日の「戻れない位置」という感覚は、まだ体の奥に残っていた。もう、前の自分には戻れない――感覚として、確かにそう感じる。
外の風景は冬の夕暮れ。窓の向こうには街灯がちらちらと光り、通りの雑踏の音が遠くまで届く。姫川は背筋を伸ばし、深呼吸を繰り返した。物理的には一人だけれど、誰かと心を通わせる感覚は、遠く離れていても消えない。
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その頃、佐伯は自分の案件に向き合っていた。店の看板の文字をどう組み合わせるか、色の配分や視認性の計算。数字と線に囲まれた机の前で、頭の中は整理されつつも、どこか苛立ちが残る。
考えがぐるぐると回るたび、心の奥では昨日の夜の自分を振り返る。灰皿を蹴ったあの瞬間、居酒屋での沈黙、悶々とした胸の奥の感覚――すべてが、戻れない事を理性で確認する為の材料だった。
佐伯はスマートフォンを取り出す。画面には同僚からの連絡が届いている。
「資料送った」の短いメッセージ。返信を打ちながらも、無意識に姫川の事を思い浮かべる。姫川は今、資料の修正をしているだろうか。画面の向こうで、きっと真剣にパソコンに向かっている筈だ――そう想像するだけで、少しだけ気持ちが落ち着く。
二人は物理的には別々の場所に居るものの、どこかで交差する心理の線がある事を、互いにまだ知らずに感じ取っている。
姫川が作業の合間に深呼吸をするたび、佐伯の心もまた、小さな間隔で呼吸を整えるかのように揺れる。
メールやSNSのやり取りは、単なる業務連絡に過ぎない。けれどその存在が、心理的な繋がりの証のように思える。短い言葉の背後に、互いの存在を意識する気配が潜んでいる。
それは確認し合うでも、求め合うでもない。唯、遠くに居ても互いを意識する静かな交感。
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姫川はパソコンを閉じ、椅子に深く腰掛ける。画面から解放されても、思考は止まらない。昨日の夜、佐伯がどうしてあんな行動を取ったのか、そしてそれが自分にどう影響したのか。理屈では整理できる部分もあるが、感覚として残るものは、言葉にできない。
戻れない位置に立った事を、体全体で感じる感覚は、まだ消えずにある。
佐伯も、机の前で少し体を伸ばす。窓の外には夜の街灯が揺れる。手元の資料を眺めながら、佐伯は再び自分に言い聞かせる。「戻れないんだ」と。
理性としての判断、冷静な計算、そして胸の奥の苛立ち。三つの感覚が交錯して、次の行動を促す。
夕食を軽く済ませ、姫川はリビングの窓際でコーヒーを淹れる。カップを両手で包みながら、視線は遠くの街灯へ。静かな夜に、互いの存在を意識する。直接会っているわけではない。電話もメールもない。唯、心の片隅でお互いを思い浮かべるだけ。
佐伯は自宅の近くの小道を歩きながら、スマホの画面をちらりと確認する。同僚からの短い連絡は届くが、心はそれ以上のものを求めない。唯、姫川の事をぼんやりと想像する。どこで、何をしているのか。物理的な距離は離れていても、心理的な距離はまだ近い気がする。
夜が深まるにつれ、姫川は資料の整理を終え、ベッドに腰を下ろす。今日の作業の疲れがじわりと体に広がるが、心は落ち着いている。遠くの誰かを想像するだけで、安心感が生まれるのだと気付く。
佐伯も部屋に戻り、窓の外の夜景を見上げる。あの灰皿の前の夜を思い出しながら、佐伯は次にどう動くかを考える。まだ答えは出ない。
しかれど遠く離れた姫川の事を考えるだけで、次のタイミングが自然と頭に浮かぶ。
二人の夜は、それぞれの場所で静かに過ぎていく。物理的な距離は離れていても、心理の糸は確かに結ばれている。短いやり取り、思い浮かべるだけの存在、心の中で重なる時間――すべてが、次に再び関わるタイミングの予感を残していた。
姫川は目を閉じ、深呼吸を繰り返す。佐伯も同じ夜空の下で同じように呼吸を整えている。二人は今、別々の現場に居るが、互いを意識し続ける。
その感覚が、これからの時間を静かに、しかし確実に結びつけていく。
物理的な距離と心理的な距離、行動と想像、感覚と理性――すべての要素が交錯し、二人は昨夜の「戻れない位置」から、次の段階へと少しずつ歩みを進めている。
夜は深まり、街の灯がひとつ、またひとつと消えていく。姫川も佐伯も、それぞれの場所で明日へ向けて心を整える。遠く離れた場所での静かな時間が、やがて二人を再び交わらせる瞬間を予感させていた。




