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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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戻れない位置

 姫川の視界は曇った鏡越しの湯気に包まれていた。熱い湯が体を満たすたび、考えはぼんやりと漂い、しかし核心だけは濃くそこにあった。

 湯の中で溶けそうになる自分を必死で抱き留めながら、姫川は無意識に息を整える。


「もう、前の位置には戻れない……」


 そう感じる感覚は、頭で理解しているのとは違った。理屈ではなく、肌や血管の奥に沁み込む確信。肩の奥で、胸の奥で、何かがカチリと音を立てたように、確実に変わった。

 戻ろうとしても、もう道は存在しない。あの瞬間から、全てが一歩先に進むしかない事を、体が知っていた。


 湯船の中で膝を抱え、姫川は目を閉じる。外界の音が遠くなる。水音、シャワーの雫、時折壁を掠める風の音。それでも心は騒々しく、思考が勝手に先走る。


 佐伯の事、仕事の事、そして、自分自身の決断。湯気の中で、佐伯の顔がぼんやり浮かぶ。言葉にならない苛立ち、微かな期待、互いに届かぬ心の距離。すべてが一度きりで、もう戻れない位置に居る事を、姫川は痛感していた。




 ■


 夜の街角で佐伯はコンビニの前に設置された灰皿の前に立ち、無言で何本も煙草に火を点けた。吸うたびに肺の奥に重さが沈む。思考が焦げ付くように絡まり、煙と一緒に吐き出されていく。とはいえ、気持ちは整理されず、苛立ちは増すばかりだった。


「クソ…ッ」


 思わず灰皿を蹴るが、わざとらしい大きな音ではなく、唯、体の内側に溜まった感情の受け皿としての行為に過ぎない。

 灰は地面に散り、煙は空へと舞った。決して無意味ではない。自分が今いる位置を、そして決断を、身体で確認するような行為だった。


 佐伯の頭の中で論理は正確に働く。「あの時点で、もう戻れない」と、判断として言い切る。感覚ではなく、冷徹な計算のように、状況を俯瞰して確認する。

 過去に戻る余地はなく、同じやり方では何も解決しない。だからこそ、次の行動に移るしかないのだと、自分に言い聞かせる。

 感情が渦巻く胸の奥で、理性がかろうじて舵を握っていた。


 居酒屋に入ると、照明の光に目が少し眩む。カウンターの端に腰を下ろし、食事類を注文もせずに唯目の前のビールジョッキを見つめる。

 店内のざわめきが遠く、思考だけが鮮明になる。隣席の笑い声、グラスが触れ合う音、誰かが扉を開ける音。すべてが背景音のように聞こえる中で、佐伯は自分自身と向き合った。


 ──戻れないんだな……。心の中で再確認する。

 今度は理屈ではなく、決定として状況を評価し、次の行動を考え、必要な距離感を測る。

 その冷静さと、湧き上がる苛立ちとの間で、佐伯の夜は静かに深まっていく。




 ■


 姫川は風呂から上がり、タオルを巻きつけながら窓の外を見る。夜は静かで、遠くに通りの灯がチラチラ光る。視線の先に未来は見えない。唯、今いる位置で立ち止まる事の意味だけが確かにある。


 戻れない事を感覚で理解した今、姫川は思考の整理を始める。誰かに助けてもらうのではなく、自分自身で選択し、責任を取る為に。

 その時、携帯の通知音が小さく鳴る。無視するか、確認するか。姫川は迷いながらも、画面に手を伸ばす。指先に微かな緊張が走る。




 ■


 一方、佐伯は居酒屋のカウンターで一口ビールを飲み、煙草の残り香を思い出す。心は悶々としているが、計算は正確だ。

 もう、元の位置には戻れない――理性が確かめる事実。動揺する感情と冷静な判断の間で、彼は次の行動を模索する。灰皿を蹴ったあの瞬間の衝動は、もう戻れない事を身体で確認した証でもある。


 あの衝動と同じくらい、佐伯の思考は次の一歩を探していた。


 姫川と佐伯、二人の夜はそれぞれの場所で進む。感覚として、判断として――同じ言葉が違う形で胸に落ちる。 二人は、確実に、前とは違う位置に居る。けれども戻る事はできない。

 そして、静かな夜は二人を包む。悶々と考え続ける佐伯。姫川はタオルを巻きながら窓の外を見つめ、心を整理する。それぞれの意識の中で、同じ真実が繰り返される。





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