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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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微かな漏れ

 薄明かりがリビングの窓を通して部屋に差し込む。カーテンの隙間から見える街灯の灯りが、静かに揺れていた。

 佐伯は手に持った書類を少し整理して、ソファに腰を下ろす。今日は案件の確認ではなく、表紙デザインの最終調整を手伝う為に来たのだった。


 姫川の自宅――初めて訪れた時とは違い、生活感のある空間は、二人の距離感に微妙な緊張を混ぜる。


「ここ、色味はどう思いますか」 姫川の声は低く、控えめだが、些少に震えを帯びている。


 佐伯は資料に目を落としながらも、手元が僅少に震えている事を自覚する。その揺れを、姫川は無意識のうちに拾う。 佐伯はペンを置き、カップをテーブルに戻す。


「……ちょっと緊張しちゃいますね」 姫川の声は小さかった。


 短く、控えめだが、佐伯の胸に深く届いた。 二人は資料を並べながら、視線を交わす。 言葉は殆どないが、目と目が合った瞬間、内側の衝動が微細に外に漏れ出すのを、互いに感じていた。


「この線……少し細すぎますかね」 姫川が指差すデザインの端。言葉に出したのはデザインの指摘だが、その声にはごく僅かな迷いが混じっていた。


 佐伯はすぐに応じず、目を姫川に向ける。ほんの一瞬、手が止まる。 「……いや、問題ない」


 その短い返答に、姫川の手がほんの一瞬止まり、二人の意識が交差する。

 テーブルの上には色見本やラフスケッチが散らばる。どれも仕事上のアイテムだが、微細な手の動きや視線のやり取りで、二人の内側の熱は少しずつ外部に漏れていた。

 佐伯は一枚のラフを手に取り、姫川の近くに寄せて見せる。距離は僅か数十センチ。姫川の目が一瞬、大きく開く。手を伸ばして資料を触れるも指先が触れ合う事はない。それでも、些少に熱が通う感覚が二人の間に残る。


「……ここ、もう少し影を濃くした方がいいですか」 姫川は言いながら、資料を佐伯に渡す。


 手の角度、体の傾き、顔の向き──すべてが無意識に彼に向いている。


 佐伯はそれを受け取り、小さく頷く。「そうだな、少し濃くした方がいいな」 声は淡々としているが、胸の奥の衝動は確かに反応している。


 作業を続ける中で、二人の呼吸や体の動きが、少しずつ同期していく。紙をめくる音、ペン先が走る音、カップがテーブルに置かれる音——すべてが静かに、そして確実に互いの存在を意識させる。


 佐伯は目を資料から逸らし、姫川を見つめる。

「少し、近くに座ってもいいか」 その問の声は低かった。


 姫川も視線を上げ、少しばかり肩を後ろに引く。 「……いいですよ」


 互いの距離は微妙だが、心の中の衝動は確実に近づいていた。資料を並べ直すと、佐伯が立ち上がる。

 姫川も少しばかり体を前に傾け、目を資料に向けるが、視線の端で佐伯の動きを追う。


「……今日は、結構集中しましたね」 その一言は単なる作業の感想だが、胸の奥で二人の衝動が共鳴する。

 作業を終え、資料をまとめる。 佐伯が立ち上がり、資料を片手にテーブルを離れると、姫川も立ち上がる。

 二人の動作は一見、整然としている。

 しかし、肩がほんの少し触れるかどうかの距離、視線の一瞬の交差、手の位置—— すべてが、互いの意識が行動に少しずつ現れた証だった。 佐伯は最後に資料を机の端に置き、軽く息をつく。


「……ありがとうございます。すごく助かりました」 姫川は小さく頷き、机を片付けながら、心の奥で静かに震える感覚を確かめる。


「……いや」 言葉は短く控えめだが、互いの意識の交差を十分に伝えていた。


 外部の世界は相変わらず淡々として動いているが、二人の内側は確実に変化していた。

 佐伯が帰る為に玄関に向かう。 姫川は少し視線を逸らしながらも、二人の距離の余韻を感じる。


「……また、お願いします」 短い言葉に、微小な笑みが混ざる。


 佐伯は振り返らずに答える。「あぁ……また」


 その声は控えめだが、胸の中の衝動を裏切る事はできない。

 玄関の扉が閉まると、部屋には微かな静けさが戻る。 しかれど、二人の心はまだ交差したまま、静かに次の線を描き始めていた。

 外部は無感情に流れ続けるが、内側の小さな揺れは、確かに現実に影響している—— 微量に漏れた感覚は、二人だけが知る、繊細な証拠だった。



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