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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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微かな波紋

 事務所の空気は、いつもと変わらず静かに動いていた。

 キーボードを打つ音、電話のベル、椅子の軋む音——全てが規則正しいリズムで重なる。

 されど、佐伯の意識は資料の文字に完全には向いていなかった。机の上の報告書を整理しつつも、手元のペン先が僅かに落ち着かない。

 それは微細で、外部から見れば何の変化もないように思える程度だった。

 翻って姫川は、その微かな手の揺れを無意識に捉えた。


「……少し、落ち着かないですか」

 短く、控えめな声だった。


 言葉そのものはごく自然な問いかけに聞こえるのだが、佐伯には胸の奥まで、届く響きがあった。

 二人の距離は、デスクの間で普段通りに保たれている。それでも、互いに意識の端を相手に寄せるだけで、微妙な揺らぎが生まれる。

 佐伯がカップを置く手、資料をめくる指先、背中の角度——。

 些細な動きに、姫川は反応していた。


 午前中の会議が始まる。

 机を囲む同僚たちは、誰も表情を変えず、淡々と発言する。とはいえ、佐伯と姫川の間には、静かな“波紋”が広がる。

 上司が問いかけ、報告が返る。

 佐伯は一度資料に目を落とすが、意識は姫川の肩越しにちらりと映る書類にまで向かう。

 姫川もまた、資料に目を落とすふりをして、佐伯の動きを無意識に追う。

 その視線の交差は極めて短い。誰にも気付かれない。

 しかれど二人には、微細な確認のように伝わる。


 昼休みになり廊下に出ると、偶然、二人は同じ方向に歩く事になる。肩が触れそうになり、二人の胸が僅かに跳ねる。

 視線は一瞬交わりはしても言葉はない。とはいえ、外部の誰が見ても、僅かに距離の近さが気になる——そんな空気が漂う。


「……午後は案件Cの進捗確認、ですね」


 姫川の声は落ち着いているが、少しだけ速さが変わる。佐伯はその微妙な変化に反応し、手元のペンを握る指先が微かに硬くなる。

 小さなずれが、二人の間で静かに響き合う。


 佐伯は資料を整理しつつ、必要以上に机の上で手を動かす。手順を確認する振りをして、自然に姫川の視界に入る位置に体を傾ける。

 姫川もまた、呼吸のリズムを整えながら、書類をめくる角度を微かに変える。

 互いの仕草は、無意識に相手に呼応していた。小さな会話も、些細なやり取りの中で“色”を帯びる。


 電話の応答、書類の受け渡し、軽い確認——。

 言葉は事務的でも、間合いや声の強弱に、互いの存在が映り込む。同僚にはほとんど分からない変化にすぎないが、二人にははっきりと伝わる。


 窓から傾く光が長く差し込み、影が机の上で交差する。

 佐伯が資料をまとめ、立ち上がる。その際、椅子の後ろで微かに足音が重なり、姫川と目が合う。


「……帰りましょうか」

 短い言葉ながら、その控えめな呼びかけに、互いの心拍が微かに反応する。


 書類を片付ける動作、パソコンのシャットダウン、椅子を押し込む音——。

 すべてが普段通りなのに、視線や動作のタイミングに、僅少ながら“ずれ”が生まれている。

 それは二人だけの合図のようでもあり、外部から見れば何でもない日常の一瞬に過ぎない。


 廊下でエレベーターに向かう際も、微妙な距離感が残る。肩がすれ違う瞬間、目が一瞬合いはしても言葉は交わされない。

 なれど互いの意識が、行動や仕草に確実に表れていた。


 帰宅前の佐伯は、デスクの前で立ち止まり、ふと窓の外を見上げる。高層ビルの影と、街灯の明かり。その静かな光の中で、自分の胸の奥がまだざわつくのを感じる。

 微量に漏れた衝動の波紋は、外部には殆ど伝わらない。それでもなお、確かに存在し、互いの行動に影響を与えていた。


 姫川も同じ時間に自席を片付けながら、心の奥で同じ波紋を感じている。

 誰も気付かないが、二人の世界だけが少しずつ揺れ、ほのかに線が結ばれていた。


 外部の事務的な秩序は変わらずとも、佐伯と姫川の間には、淡い距離と視線、仕草によって、確かに二人の関係が形を取り始める瞬間が生まれてい。——微弱に漏れた衝動は、まだ誰にも気付かれない。

 とはいえ、二人にとっては磐石な現実となり、これからの交差を静かに予告していた。





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