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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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外側への揺れ

 デスクの上に置かれた資料を前に、佐伯はペンを握り直した。書類に目を落としているようで、視線はそれを追わず、少し離れた空間を彷徨う。昨日の夜から続く、心の軸の揺れ――姫川の存在が、静かに、自分の内部の秩序を崩していた。

 電話が鳴り佐伯は短く応答し、相手の声を確認する。声はいつも通り平坦で、感情の色はない。

 だが、自分の胸の奥では、微かな衝動が絶えず波を打っていた。


 手が資料の端に触れる指先も、いつもより僅かに力が入る。そのとき、廊下を歩く姫川の足音が聞こえた。歩幅やリズムは普段と変わらないが、佐伯の耳には、呼吸の僅かな揺れまで届くような感覚があった。


 資料の整理を装いながら、佐伯は視線を上げる。姫川もまた、同じタイミングで書類を手に取り、デスクの前で立ち止まる。互いの視線はすれ違うかのようで、すれ違わない。

 短い瞬間、まるで時が止まったように二人は見つめ合う。

 傍から見れば、唯の同僚の動きに過ぎない。

 しかし、内側の軸は確実に共鳴し、微細な揺れが二人の周囲に漏れ出す。


 午前の会議が始まる。資料を前に、上司が淡々と進行状況を確認する。


「案件C、進行状況は?」


 担当者が答える声も短く、平坦だ。会議室の空気は冷たく、整然としている。

 佐伯は資料に目を落とすが、手元の動きに微かな震えが混じる。ペンを置く瞬間、思わず小さく息をつく。

 その音はごく短く、殆ど誰にも聞こえない。

 だが、姫川の目がふと佐伯に向く。短い間、互いの存在を確認するように、二人の衝動が目の端に触れ合う。


 会議が終わり、廊下に出るなり佐伯は手元の書類を抱え、少し早足で歩く。

 姫川も同じ方向へ向かっていた。歩幅を合わせるつもりはなかったが、距離は自然と近くなる。

 ほんの一瞬、肩が微かに触れそうになり視線が合う。

 言葉はないにしても、微かな呼吸の変化と心拍のずれが、互いに届く。


 佐伯は心の中で呟く。

 ──…これを、抑え込むつもりだったのに。


 抑え込むどころか、身体は無意識に姫川の存在を求めていた。


 午後の業務が始まる。書類の整理、上司への報告、電話の応答――外部は相変わらず無感情で正確だ。

 そんな中、二人の行動には微細な変化が現れる。佐伯は書類を渡す手が僅かに遅れ、声のトーンもほんの少し低くなる。

 姫川は電話の受け答えを一呼吸置いて行い、書類を机に置くタイミングも微かに揃える。


 外部の人間は気付かないにしても、二人の内側では、互いの衝動が行動を通して漏れ出していた。


 昼下がりの休憩室で、佐伯はコーヒーを淹れながら、姫川が入ってくるのを気にかける。姫川もまた、軽く視線を上げ、目が合う。

 会話は自然で短かった。微細な沈黙や仕草の間に、互いの存在感が混じり込む。


 佐伯がカップを置く手が僅かに震えると、姫川はそれを無意識に感じ取る。


「……俺も、少し、落ち着かないです」


 姫川の声はごく短く、控えめだが、佐伯にはその言葉が胸の奥まで届いた。

 外部には普通の会話に見える。だが内側の波は、確実に外に小さなさざ波を立てていた。


 午後の会議室。資料を並べ、担当者の発言を確認する。

 佐伯はメモを取るふりをしつつ、視線は資料の端から姫川に向く。

 姫川もまた、資料を整理しながら、何度も顔を上げる。そのたびに、目が合う。声には出さずとも、互いの軸が交差しているのを感じる瞬間だった。


 一度、佐伯がペンを置き、指先を机に触れた時、姫川も僅かに肩を動かす。外部には何の変化もないように見えるが、微かな接触が二人の内面を外に伝えていた。


 夕方、佐伯はデスクに書類を片付け、椅子に深く腰かける。姫川もまた、自席で最後の書類を整理する。

 互いの目が自然に合う。沈黙の中で、胸の中の衝動が小さな波紋を広げる。声に出さずとも、呼吸の僅かな変化、手の動きの遅れが互いを認識させる。

 その瞬間、二人の軸が初めて、外部の世界に微かに影響を与える。


 外の光は柔らかく傾き、ビルの影が長く伸びる。会議室や廊下の人々は変わらず無感情で動き、電話やメールもいつも通りだ。

 だが一方で、佐伯と姫川の間では、微細な揺れが確かに生まれている。書類の置き方、ペンの握り方、歩くリズム、視線の交錯。小さな変化が、二人の内側の衝動を、外部にそっと漏らす。


 時間も経ちオフィスが静まり返り、佐伯は最後の書類を整理し、窓の外の街を見つめる。

 心の奥では、まだ衝動が微かに震え、次の動きを待っていた。

 姫川もまた、帰宅の準備をしながら、机越しに佐伯の姿を確認する。


 言葉はない。行動も殆ど変わらない。

 それでも、二人の衝動は確実に外に小さな痕跡を残していた。

 外部は冷たく、無感情──。

 内部は静かに揺れ、微細な変化を通して互いを確かめる──。

 初めて、内側の衝動が外に漏れた瞬間。それはまだ小さく、殆ど誰も気付かない。

 然れども、確実に次の線を描き始めていた。




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