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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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衝動の交差

 朝の光は、まだ柔らかく、窓の外の高層ビルを淡く照らす程度だった。

 佐伯は自席に座り、書類を広げる。手は動いているが、意識は資料の上に留まらず、別の場所を漂っていた。


「先日の事……」


 小さく呟いた。先日の事——それは姫川が無理に仕事場に来て、朝まで居た日の事だ。あの夜の衝動が、軸がずれた瞬間だった。あれを受け止めて、自分の中で線を引こうとした事。

 けれど、その軸はまだ、完全には元に戻っていなかった。


 机の上のペン先が微かに震え、文字は普段よりも緩慢に流れる。思考は会議の資料を追うふりをして、常に姫川の存在に触れる。

 電話が鳴り、短く応答する声。メールの確認も事務的なやり取りでしかない。

 外部は相変わらず無感情で確実に進む。

 しかし、佐伯の内側では、昨日の出来事の余韻がまだ渦巻く。


 昼前、会議室に入り席に着くなり、資料を並べる。


「案件Bは進行状況に問題ありません。担当者C、補足は?」


 誰も感情を語らない。声は平坦で短いものだった。

 佐伯の指先は資料の端に軽く触れているが、意識は別の線に向かっていた。

 姫川もまた、同じ会議に座る。資料を整え、短い言葉で上司に答える。事務的で、冷静で、誰もその内側の揺れには触れられない。


 しかし互いの目は、ほんの一瞬、交わる——気付かぬ程短い確実な交差。その瞬間、佐伯の心が軽く跳ねる。

 軸の中で、姫川の存在が再び動き出す。


 ──このまま静かに終わらせるべきか…。


 頭ではそう思っていても、身体の奥で、衝動が微かに震えていた。


 昼過ぎ、廊下でたまたま同じ方向に二人の歩みが重なる。

 肩が触れる寸前、二人は互いを見やる。言葉はなく、唯目が合い、視線だけで互いの衝動を感じ取る。


 佐伯は心の中で呟く。

 ──…これを、終わらせるつもりだったのに。


 それでも姫川の存在があまりにも確かで、静かに線を引くつもりの自分を揺るがす。

 会議が終わり資料を片付ける動作も、手順は普段通り。

 だが、二人の内側は静かに、確実に動いている。

 資料を整理しながら、佐伯は気付く。


 ──次に会ったら…。


 頭で考えるより先に、身体が反応している。衝動は理屈では抑えられない。


 夕方、オフィスの光が傾く。

 窓の外の影が長く伸びる中、二人は同じタイミングでデスクを離れる。

 廊下で偶然並んだ瞬間、肩が触れ、視線が合う。

 言葉はないものの、互いの中の軸が初めて、明確に交差した事を知る。その交差は静かだが強烈だ。


 事務的な外部の世界は何も変わらない。誰も気付かない。

 しかし二人の内側では、次の線が形を取り始めていた。


 帰宅前、佐伯は机の前で立ち止まり、窓の外を見つめる。

 夜の街灯が静かに光る。心の奥の衝動が、次にどこで線を引くのかを、静かに、確かに待っている。姫川もまた、自席で書類を整理しながら、心のどこかで同じ事を感じている。


 言葉はなく、行動も静かだが、衝動は確実に、互いを呼び寄せていた。


 二人の軸は交差しても、まだ交わらない。

 言葉にされずとも、衝動は互いを知覚し、次の瞬間に向けて静かに膨らむ。

 夜のオフィスで、外部は無感情に終わりを迎える。

 内部は揺れ、軸はまだ動き続ける。初めて交差した衝動の感覚は、恐ろしくも確かに存在した。

 その余韻が、次に何が起きるかを静かに予告している。





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