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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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混合

 佐伯は机の前に座り書類を広げる。目は文字に向いているが、思考は別の場所に漂っていた。姫川の事。昨日の事。衝動、距離、軸の移動——。


「……あのまま帰してしまったのか」


 自分の声に少し驚く。小さな疑問が口をついて出たが、すぐに沈黙が戻る。書類の上のペン先を動かす手も、普段より緩慢だ。文字を追う速度は、いつもの半分以下。

 佐伯は自覚していた。何かが、自分の中で変わった事を。




 ■


 その一方で、外部ではいつも通りの朝が始まっていた。電話が鳴り、メールが届く。課の配置や案件の進行、担当者の確認——。

 誰も感情を語らない。事務的な声、事務的な文章。それでも、配置は着実に決まっていく。誰がどの会議に出るか、誰がどの書類を確認するか、細かく決まる。


 それは佐伯にとって安心でもあり、苛立ちでもあった。外部は確実に進むが、内側はまだ動かない。

 姫川の電話が鳴り、内容は簡単な連絡だけで事務的で短いものだった。


「了解です。ありがとうございます」


 その声も、普段の業務と変わらない。

 だが、佐伯の耳には、昨日の姫川の衝動と軸の変化が、まだ残響のように響いていた。

 佐伯はペンを置き、視線を窓の外に向ける。遠くの高層ビル、通り過ぎる車、人々の足音——。

 すべてが秩序で立っているように見えるが、内側の混乱はどこにも隠せない。

 会議が始まる。資料を並べ、上司が発言する。


「案件Aは進行状況に問題なし。担当者B、何か補足は?」


 誰も感情を見せない。


「特に問題ありません。進捗予定通りです」


 声は至って平坦だ。佐伯は資料の端に軽く指を置く。心は会議室にあるが、思考の一部は姫川に向かっていた。

 昼過ぎ、廊下を歩く足音。打ち合わせの声。誰も、彼等の内側には触れない。

 しかし、配置は確実に、微妙に二人の関係を揺らす。

 同じ課の別の人間が姫川のデスクに寄り、短く指示を出す。佐伯の目は、書類に落ちたまま、その動きを確認する。


「ここでこの案件を、彼が扱うと……」


 心の中で計算する。外部の動きが、二人の間の距離に影響を与えそうだと。


 午後になり、少し静かな時間が訪れる。佐伯は書類を閉じ、ペンを持ち直す。机に置いた指先は微かに震えている。


 ──衝動を制御する…


 そう自分に言い聞かせる、も、頭の中の軸は、姫川の存在によって少しずつ変わっていた。

 外部は冷たく、事務的で、無感情だ。

 しかし、それが逆に自分達の内側の変化を鮮明に浮き上がらせる。


 姫川もまた、同じ時間に机の前で資料をまとめる。上司からの質問、電話の確認、同僚とのやり取り——。

 すべては短く、簡潔に、感情を削いだ形で行われる。でも、彼の意識の隅には、佐伯の影がちらつく。昨日の言葉、軸の移動、距離の調整——。

 心の奥で、それが何かを揺さぶる。二人の行動は、外から見れば何も変わらない。会話は事務的、手順は正確、誰も感情を語らない。


 しかし、配置、目の動き、微かな手の動き——小さなずれが、二人の間に新たな線を描き出す。


 夕方。佐伯は書類をまとめ、デスクに戻す。


「……このまま、静かに、終わらせるべきか」


 そう思いながらも、心の中の軸は姫川に触れられたまま離れない。姫川の存在が、自分の線を再定義しようとしているのを、感じていた。


 姫川もまた、今日の業務を終え、デスクを片付ける。振り返れば、机越しに見える佐伯の姿。目が合う瞬間、互いの衝動は言葉にされずとも、確認される。

 外部は何も語らないが、二人の内側は確実に変わっていた。


 会議室で最後の打ち合わせ。

 資料を配り、手順を確認し、席を立つ。佐伯と姫川は、同じタイミングで自席を離れる。廊下で一瞬、肩が触れそうになり目が合うも言葉はない。だけど互いの中で線が引かれ、軸が微かに揺れる感覚は、確かに存在した。


 夜、事務所が静まり返る。

 佐伯はデスクの上に最後の書類を置き、ペンを軽く握る。外部はもう何も動かない。

 それでも二人の内側は、まだ動き続ける。静かに、でも確実に、次に向けた線が形を取り始めていた。


 ——混合。


 外部は冷たく、無感情だ。内部は静かで、揺れを抱える。二つの世界が交差するその瞬間、佐伯も姫川も、まだ言葉にできない感覚を胸に抱えている。


 それは恐ろしくも、確かに存在する。

 部屋の明かりが落とされる。

 二人の軸は交差し、しかし、まだ交わらない。衝動は、次にどこで線を引くかを、静かに待っている。





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