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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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行動の行方

 書類に視線を落としても、文字がいつもより遠かった。佐伯はページをめくり、そのまま動きを止める。読む必要はある。

 だが、今すぐでなくてもいい。そう判断したわけではないのに、手が進まなかった。


 机の上には、さっきまで姫川が居た空間の名残が、何も残っていない。ソファも、毛布も、元の位置に戻っている。

 残っているのは、言葉だけだった。


 『——仕事の判断が、全部、佐伯さんを通ってる。』


 思い出そうとしなくても、正確な調子で浮かんでくる。声の高さも、途中で言葉を選んだ間も。

 佐伯は、音を立てずペンを指で転がした。


 自分は、何もしていない。それは事実だ。誘導も、要求も、依存を促すような事も。仕事の範囲を越えた指示は、一度たりとも出していない。


 それでも「衝動で踏み込むのは、一番、苦手だ」自分で口にした言葉が、今になって別の形で返ってくる。

 苦手だから、避けている。避けてきたから、安全だと思っていたが、衝動は踏み込む事だけを指すわけじゃない。

 止めない事。線を引かない事。判断を保留したまま、相手がそこに居るのを許す事。それもまた、衝動だ。


 佐伯は視線を上げ、部屋を見回した。

 ここに来る理由がなかった、と言った姫川の顔を思い出す。理由がないのに来た。それを否定しなかった。

 『止める理由が、仕事じゃない。』そう答えた時、自分が何を守ろうとしたのか。まだ、言葉にはならない。


 佐伯は椅子に深く腰をかけ直した。姿勢を整えただけで、それ以上の動きはしない。

 衝動で動く人間には、なりたくない。それはずっと変わらない。


 だが、衝動を「持っていない人間」だと思っていたわけではなかったのか。誰かが、自分の判断の軸に入り込む。それを危険だと認識しながら、排除しなかった。

 その選択は、理性だろうか。それとも、抑制された衝動だろうか。


 佐伯は、答えを出さない。出せば次に引く線の位置が、決まってしまう。今はまだその必要はない。ペンを置き、両手を机の上に重ねる。


 ——戻れない、という事実だけが、静かに、確定している。


 佐伯はそれを否定も肯定もせず、唯、そこに置いたまま、時間が進むのを待っていた。



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