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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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言葉を置いていく

 朝の光は、思ったよりも静かだった。 差し込む角度が、昨夜とは違う。 夜の間に何かが起きたような気もするのに、 部屋そのものは、何も覚えていない顔をしている。


 姫川は、ゆっくりと体を起こした。 ソファの端に残る体温の名残。 毛布は意外にもかかっていた。 佐伯は机の前で椅子に座ったまま、書類に目を落としている。 朝だというのに、仕事の姿勢は夜と変わらない。


「……おはようございます」

 声は、思ったよりも落ち着いて出た。


 佐伯は、すぐには顔を上げなかった。「起きたか」 それだけを確認するような声だった。


 姫川は、ソファから立ち上がり、 一歩だけ前に出る。机までは近付かない。昨日、自分で選んだ距離をそのまま保つ。


「……すみません、勝手に」


「寝る場所は、そこしかないからな」


 言い訳を最初から潰される。


 姫川は少しだけ笑った。「……帰るつもりだったんです」


「だろうな」


 佐伯は漸く書類から視線を外し、 姫川を見た。 問い詰める目ではない。判断を急がない、いつもの目だ。沈黙が落ちるが、昨日までの沈黙とは違う。

 逃げる為の間ではない。


 姫川は、息を吸った。「……来る理由、なかったんです」


 佐伯は何も言わず、続きを待っている。


「仕事も終わってて、用事もなくて、話したい事も……はっきりしてなくて」言葉にするたび、 自分がどれだけ無防備な状態でここに居るかが解る。「それでも、来てしまいました」


 佐伯の指が、机の上で一度だけ止まった。それ以上の反応はない。


「衝動、か」


 問いではなく、確認だった。


「……多分、ですけど」姫川は、視線を落とす。「気付いたら仕事の判断が、全部、佐伯さんを通ってる事に気付いて」言ってしまった、と思った。 だが、止まらなかった。「別の案件でも関係ない仕事でも“この人ならどうするだろう”って、考える前に、手が動いてて」


 佐伯はすぐには答えなかった。その沈黙は、拒絶ではない。


「……侵入された、って言うと、責任を押し付けてるみたいで嫌なんですけど」姫川は少しだけ言葉を探す。「でも、俺の軸が、もう前の位置にないのは確かで」


 佐伯はゆっくりと息を吐いた。「俺は、何もしてない」


 姫川は、すぐに頷いた。「解ってます。だから、余計に困ってて」


 視線が一瞬だけ重なる。


「……会えば、何かが壊れるかもしれないって思ったのに」 言葉が、そこで少し震えた。「それでも、一人で居るよりは、ここにいた方が、耐えられました」


 部屋の中が更に静かになる。 佐伯は机の角に手を置いた。


「姫川」


 名前を呼ばれるも、仕事の呼び方ではない。


「俺は、線を引く人間だ」


  解りきった事実だが、今は別の重さを持っている。


「衝動で踏み込むのは一番、苦手だ」


 姫川は目を逸らさない。「……それでも、今、ここに居る事は、止めないんですね」


 佐伯は少し考えてから答えた。「止める理由が、仕事じゃない」


 姫川は胸の奥が、静かに鳴るのを感じた。


「……俺、何かを決めたいわけじゃないです」


「分かってる」


「名前も、答えも、今は、要らないです」


 佐伯は、短く頷いた。「俺もだ」


 その一致が二人の間に、はっきりと残る。姫川は、一歩だけ後ろに下がった。 逃げる為ではない。距離を、確認する為だ。


「……じゃあ、今日はこれで帰ります」


 佐伯は引き止めない。「気ぃ付けろ」


 姫川は玄関へ向かい、 靴を履く前に一度だけ振り返る。


「……昨日、ここに来て後悔はしてません」


 佐伯は、視線を上げた。「そうか」


 ドアが閉まり部屋に一人残った佐伯は、机に戻り書類を閉じた。

 衝動。侵入された軸。言葉にされてしまった事実。線を引く前の間が、今までよりはっきりと存在している。


 ——もう、知らなかった頃には戻れない。


 それでも、 引く線はまだ一本ではない。

 佐伯は、ゆっくりとペンを取った。 次に引く線の位置を、慎重に考え始めていた。



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