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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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静かに動く心

 あの夜から数日が経った。

 佐伯は目を覚ますと、胸の奥に僅かな重みを感じた。

 先日の事――居酒屋から姫川の部屋までの道、コンビニで買った酒、ソファで話していた時間――そして、あの一瞬の接触が、まざまざと思い返される。


 唇が触れた──。

 短く、意味のない瞬間だった筈なのに、胸の奥がざわつく。


「……あれは、キス、だったのか」思わず声に出しそうになったが、口は動かない。


 理解が追いつかず、唯、不思議な感覚だけが残る。

 それでも、姫川との関係は何も変わっていない。

 相手は特別に何かを言うわけでもなく、普段通りに接してくる。

 だから余計に、佐伯の中で意識が揺れる。




 ■


 数日後、仕事で再び姫川と顔を合わせる事になった。

 書籍の表紙デザインの打ち合わせだ。

 会議室に入ると、姫川はすでに席に着き、手元の資料を確認していた。

 視線が合った瞬間、佐伯は自然と目を逸らす。


 ――やはり、あの夜の事が頭をよぎる。


 胸の奥がざわざわと反応する。何気ない仕草に、心が少し揺れる。


「おはようございます、佐伯さん」

 姫川の声はいつも通り穏やかだが、どこか弾んでいるようにも聞こえる。


 佐伯は軽く頷く。言葉は自然に出るが、心は無意識に相手を追っていた。


 打ち合わせが進むにつれて、佐伯はふと自覚する。

 視線や仕草に反応している自分に気付く瞬間が何度もある。

 胸の奥で小さく動く感覚――あれは、心が相手に反応している証拠だ。

 けれど、まだ言葉にはならない。

 自分から踏み込むわけでもなく、姫川から特別な動きがあるわけでもない。


 唯、自然な距離感で接するその存在が、いつもより鮮明に感じられるだけだ。

 佐伯は無意識に、手元の資料に目を落とすふりをして、胸のざわつきをやり過ごす。


 だが、心の奥では確かに気付いていた。

 ――自分は、あの男の存在に心が動かされている。


 まだはっきり「好き」と言える段階ではない。だが、あの夜の感覚と、今日の反応がそれを示していた。

 打ち合わせが終わり、会議室を出ると、外の光がまぶしい。

 佐伯は小さく息をつく。

 何も起きてはいない。

 だが、静かに、確かに、何かが動き始めているのを感じる。


 ――あの男に、心を少しずつ奪われているのだろうか。


 胸に残る小さなざわめきと共に、佐伯は歩き出す。

 日常は変わらない。

 しかし、確実に、何かが少しずつ変わっていく予感だけはあった。




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