手ぶらで行く夕方
姫川は、一人で佐伯の仕事場に向かっていた。
夕方の街灯が点々と並ぶ歩道を、革手袋の隙間から覗く指先の冷たさを感じながら、唯前へ進む。
──行かないと、でも怖い。
胸の奥がざわつく。息を整えようとしても、鼓動の速さは止まらなかった。いくら深呼吸をしても、このざわつきは消えない。誰かと話すわけでもなく、唯この距離を歩き切らなければならない。
玄関に差し掛かると、買ってきた酒瓶を置いた場所が頭をよぎる。手に取ろうとしたけれど、姫川はぐっと堪えた。
指先が微かに震える。冷たい金属の瓶に触れた瞬間、胸の奥が一層ざわつく。思わず手を離すと、空の手が返ってきたような感覚に、ほんの少しだけ安堵する。
自分を支える為の媒介だった筈の酒は、今の自分にはいらなかった。それを持って行く事で、少しでも「自分を連れて来てもらえる」ような言い訳を作ってしまうのが怖かった。
──なんで、こんなに怖いんだろう。でも、来てしまった。
だから玄関に置いたまま、手ぶらで中に入る。ドアを開けた瞬間、佐伯の仕事場の空気が流れ込む。 紙の匂い、机の木の匂い、そしてどこか乾いた墨の香り。
それだけで、胸がぎゅっと締め付けられる。
「……来たのか」
佐伯の声に、姫川は頷くしかなかった。視線を落としても言葉は中々出てこない。暫く沈黙が続き、時間の流れさえも、部屋の空気に吸い込まれていくようだ。
姫川は唯息を整え、心の中で自分を落ち着けようとする。 机の上で紙がカサリと音を立てる。佐伯が書類を手に取り向きを変え、また元に戻す。
そのたびに微かなリズムが部屋に響き、姫川の鼓動と重なる。
──この音も、もう聞き慣れてしまった。でも、今日は違う。こんな時間が、少しだけありがたい。来てよかったのか、判らない。 でも、行かなければ、もっと重くなっていた。
互いに椅子に腰を下ろす。二人で座っても余裕のある小さなソファ。それが唯一、この空間における居場所のようにも思えた。 会話は少しずつ始まった。 佐伯は柔らかく問いかけるが、姫川は言葉を選ぶ。
言いたい事と、言えない事の間で揺れる。解決はしないと解っている。寧ろ、会った事で確定してしまうかもしれない。
それでも、姫川はここに居る。自分で選んだ行動だからこそ、後悔も言い訳もない。耐えられなくて、衝動に突き動かされて、唯行ってしまった。
佐伯は自分の仕事に手を戻す。手元の書類は、クライアントからの注文書や仕様書、デザインラフや修正指示の紙、プロジェクト進行表やスケジュール表。姫川の所属事務所からのものもあれば、関係ない別案件のものもある。
整理する手は淡々としているが、決して無愛想ではない。その静かな手の動きに、姫川は少しずつ安心を覚える。
時間の感覚は次第に薄れる。 話す声、沈黙、外の夜風が吹き込む窓。 肩を少しずらし、ソファに体を預ける。目を閉じると、意識がふわりと揺れる。
──気付けば、唯息をしているだけで精一杯だった。……でも、少しだけ、楽になった気もする。 ああ、疲れているんだ。
そう自覚する前に、眠気が全てを覆った。
■
気付けば朝の光が差し込んでいた。 目を開けると、部屋は静かに明るい。 ソファに半分座り、半分は寄りかかるようにして眠っていた自分に気付く。 一晩、ここに居たのか。手ぶらで来て、唯ここで寝ていたのか。胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
佐伯は、椅子に腰かけたまま、書類を眺めていた。 手元の書類に目を通すたびに、眉をひそめ、指先で軽く紙を弾く。
時折、煙草に火を点け、立ち上る青い煙を吸い込みながら、深く考え込む。 視線は書類にあるけれど、考えは外の世界にも飛んでいるようだった。
姫川は、その静かな時間の中で、唯同じ空間に居る自分を確認するしかなかった。




