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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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侵入される軸

 姫川は事務所に入ると、まず深く息を吸った。空気はいつもと同じで、窓から差し込む光も変わらない。


 だが、胸の奥には、昨晩の佐伯とのやり取りが、まるで影のように残っていた。机の上には、今日から手をつける別案件の資料が並んでいる。これまで何度も取り組んできたタイプの案件だ。

 クライアントは別、テーマも異なる。佐伯の存在は、この世界には入り込む余地がない筈だった。なのに、姫川の手は資料の上で無意識に止まった。

 紙をめくる指先が、知らず知らずのうちに、佐伯の事を想像していた。


「もし佐伯さんがこれを見たら、どう思うだろう」声に出したわけではない。


 だが、思考の端で、無自覚にその問いが形になっていた。

 最初は微かな感覚だった。線を引く時の角度や余白の取り方。ほんの僅かに、普段の自分では選ばない判断をしている。机の上に並べたラフを見比べ、姫川は胸の奥で違和感を覚えた。


 ——これは、俺の判断じゃない。


 しかし、どこが違うのか、まだ言葉にはできない。唯、手の動きが自然に佐伯を参照している事だけが、確かな事実として存在していた。


 ペンを置き、深く息を吐く。画面に映る自分のデザインと向き合う。線は整っている。余白も美しい。

 だが、決定の軸がこれまでと違う。無意識に佐伯の存在を軸にしてしまっている。


「……違う」


 つい口にしてしまった。声に出す事で、違和感が形を持つ。目の前のラフは、間違いなく自分が描いたものだ。

 しかし、判断の理由は自分ではない。誰でもない。そこに佐伯の視線を置いてしまった瞬間から、元には戻れない。


 姫川は手元を見つめたまま、暫く動けなかった。机の端に置いたノートを開く事も、メモを取る事もできない。理屈では説明できない感覚。これまでなら、思考を整理すれば、判断のズレは修正できていたのに、今は心の奥で、既に軸が変わってしまっている。


 資料を一枚、コピー用紙に写す。ペンを持つ手が微かに震えた。線は正確で余白も計算通りなのに、その線を引く理由が自分の為ではない事が痛い程解る。


 ——佐伯さんを意識している、という事実。


 気付くと胸の奥が締め付けられるようだった。言葉にならない感情が、静かに膨らむ。好意かもしれない。いや、好意とは違うかもしれない。唯、佐伯を中心に世界が回っている事を、否応なく感じている。


「……なんで、こんな事に」


 独り言が漏れる。画面のラフと資料、そして佐伯を思い浮かべる自分の手の動き。どれも切り離せない。頭で考えれば、別案件は別案件だ。佐伯とは無関係。だけど手は無意識に佐伯を起点に動いていた。


 その瞬間、姫川は理解した。

 ——戻れない。


 不可逆の判断。それは紙の上だけの事ではなかった。自分の仕事の軸、思考の軸、感覚の軸。すべてに入り込んでいる。

 佐伯の存在は、もう外せない。


 ペンを置き、椅子にもたれかかる。目を閉じれば、佐伯の顔が浮かぶわけではない。唯、胸の奥にある感覚が、佐伯の存在を軸にして動いている。

 手を止めても、考えないようにしても、世界の中心は知らぬ間に侵入されていた。


 時計を見れば、まだ午前中。事務所には他の人もいる。だけど、姫川の中では、もう仕事も日常も以前とは違うテンポで流れていた。息を整えようとしても、心拍が少し早く、手の震えも収まらない。

 コピー用紙にもう一度線を引く。今度は無理に計算せず、手の感覚だけで引く。見た目は整っている。

 だが、その線も、佐伯を意識した判断の産物だ。


 ——もう、元には戻れない。

 姫川は深く息を吐き、椅子に背中を預ける。


 仕事はまだ終わっていない。ラフも資料も、手をつけなければならないというのに、もう軸は変わってしまった。佐伯を抜きにして考える事はできない。


 それは、恐怖でもあるが故に否定する気にはならなかった。不可逆の判断は、仕事の世界を揺さぶり、自分自身を揺さぶると同時に、静かな確信のようなものも芽生えていた。


 ──俺の世界に、佐伯さんが侵入した。


 その事実を、姫川は受け入れるしかなかった。手を伸ばし、ラフをまとめる。線は正確に引かれ、余白も計算されるが、判断の理由はもう自分だけのものではない。

 ペンを置いたまま、暫く机の上のラフを見つめる。目に映る紙の上の線も、余白も、これまでと同じ形をしているが、その意味は以前とは全く違う。


 胸の奥に、言葉にならない想いが波打つ。好意かもしれない。違うかもしれない。唯、佐伯を起点に動く手は、もう元の手には戻れない。

 姫川は、深く息を吸った。今日の作業はまだ終わらないし、不可逆の軸はもう固定された。紙の上の線も、資料のレイアウトも、すべてその上で回っている。


 ——戻れない。でも、前にも進める。


 姫川は、ラフに向き直り、ペンを再び持つ。軸は侵入されたままでも、それは新しい仕事の始まりでもあった。佐伯の存在は、もはや無視できない。だからこそ、自分はデザインを続ける。


 机の上で、ペン先が紙の上を滑る。線は正確で、余白も整うも、その判断の中心には確かに佐伯がいた。


 そして姫川は静かに、心の奥でつぶやく。

 ——これが、俺の世界の中心になるのかもしれない。


 外の光は変わらず差し込み、窓の外の街は今日も動いている。

 だが、姫川の中では、すでに世界の軸が変わっていた。不可逆の軸、侵入された中心。それを認識した瞬間、胸の奥で静かな震えが走る。


 ペンを置き、資料を一瞥する。手の中で温度を持つのは、仕事と佐伯の存在の交差点。これから先、すべてはこの軸で回っていく事を、姫川は否定せず、唯受け入れるしかなかった。

 そして、窓の外の光を受けながら、姫川は小さく息を吐く。今日という日、そして不可逆の判断を胸に抱え、手は再びペンを握った。



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