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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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衝動の所在

 夜になっても、姫川は仕事机の前に座ったまま動けずにいた。

 画面は開いている。資料も、ラフも、揃っている。指を動かせば、作業は進む筈だった。

 だが、進める理由だけが、どこかに落ちてしまったようだった。

 椅子に深く腰掛け直し、息を吐く。昼間よりは落ち着いている筈なのに、胸の奥に微妙な圧が残っている。


 ——今日は、もう終わった筈だ。


 編集者との打ち合わせも終わった。仕事は決まった。次も動く。何も問題はない。

 それなのに、姫川は机の端に置いたスマートフォンに、何度目かの視線を送った。

 画面は暗いまま。通知もない。当然だ。連絡を取る理由がない。そう分かっているのに、頭の中では、無意味な計算だけが繰り返される。


 ——今なら、居るだろうか。もう、帰っているだろうか。今、何をしているんだろう。


 考える必要はない。考えても、何も変わらない。姫川は立ち上がり、窓を開けた。

 夜の空気が流れ込む。少し冷えていて、肺の奥まで届く感じがした。深く吸って、ゆっくり吐く。呼吸は、ちゃんとできている。なのに、落ち着かない。


 ——会いたい。


 不意に、その言葉が浮かんだ。はっきりとした言語だった。曖昧ではない。誤魔化しもない。

 姫川はその言葉を心の中で反復し、すぐに、眉をひそめた。


 ——違う。


 否定は早かった。反射に近い。会う必要はない。仕事は終わっているし、次の予定も決まっている。

 それなのに、「今すぐ会いたい」という感覚だけが、理由を伴わないまま、残っている。

 何を話したいのか解らない。謝りたいわけでもない。確認したい事があるわけでもない。決断を迫るつもりもない。

 唯このまま一人で居るのが、耐えられない。姫川はキッチンに立ち、グラスに水を注いだ。飲み干しても、喉の奥の乾きは消えない。


 ——吐き出したい。

 言葉がある。確かにある。


 でも、それが何なのか、形にならない。好意なのか。執着なのか。仕事への混乱なのか。どれもしっくりこない。

 佐伯の顔を思い浮かべる。無言の時間。線を引く手。短い言葉。思い出すたび、胸の奥で何かが微かに動く。


 ——あの人の前なら。


 その考えが浮かんだ瞬間、姫川は、はっとした。

 前なら、何だ。何を、許すつもりだ。

 言葉にしようとすると、すぐに崩れる。姫川は、スマートフォンを手に取った。連絡先を開き名前を見つける。指は止まったままだ。

 送る内容がなければ、用件もない。そして仕事でもない。それでも、「今すぐ会いたい」という衝動だけが、現実味を帯びてくる。


 ——危ない。

 そう思う自覚はある。


 これは、越えてはいけない線だ。

 少なくとも、今は。姫川はスマートフォンを伏せ、深く息を吐き、そのままソファに腰を下ろした。


 天井を見上げれば、

 ——世界の中心が、ずれている。

 そう感じた。


 つい昨日まで、仕事が中心で、判断が中心で、理屈が軸だったのに今は違う。

 何かを考える前に、誰かが浮かぶ。その事実が重い。


 ──佐伯さんは、何もしていない。


 それが余計に厄介だった。押されたわけでもなく、誘われたわけでもなく、言葉を与えられたわけでもない。

 それなのに自分の側だけが、勝手に動いている。姫川は目を閉じた。

 この感覚を、どう扱えばいいのか判らない。切り捨てるには、もう遅い。名前をつけるには、早すぎる。


 ——会えば、何かが壊れるかもしれない。


 その予感は、確かだった。それでも、それでも、今すぐ会いたい。

 衝動は、静かだった。暴れもしない。叫びもしない。唯、逃げ場を塞ぐように、そこにある。

 姫川は、ゆっくりと立ち上がり、再び机の前に戻った。画面とラフを見るて、仕事に戻ろうとする。

 だが、視線は定まらない。


 ——今日は、無理だ。


 それを認めるまでに、少し時間がかかった。姫川はパソコンを閉じた。部屋の灯りを落とし、ソファに身を沈める。

 何も決めない。何もしない。唯、この衝動をやり過ごす。明日になれば、少しは形が変わるかもしれない。


 そう信じるしかなかった。

 だが、一つだけはっきりしている事がある。

 姫川の世界は、もう──元の位置には戻らない。

 中心は静かにずれている。まだ名前のないまま。

 確かに、そこに。





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