動いてしまったもの
午前中の事務所は、まだ静かだった。
電話も少なく、コピー機の音も控えめで、空気がゆったりしている。
姫川はデスクに座り、パソコンを立ち上げると、無意識のうちに背筋を伸ばした。
特別な日ではない。昨日の続きの作業があるだけだ。画面にラフを開く。修正前と修正後を並べ、全体を引きで確認する。
線の位置、余白、文字組み。目が自然に動く。
——早い。
自分でそう思った瞬間、姫川は一度だけ画面から視線を外した。
判断が思ったよりも速い。以前ならもう少し時間をかけていた。ここを削るべきか、残すべきか。代替案を二、三出してから決めていた。
今日は違う。迷う前に、手が動いている。
「……まぁ、いいか」
小さく呟いてから、姫川はその言葉を気にしなかった。
“まぁいい”という判断は、妥協ではない。感覚として、間違っていない事が判る。
余白を残す。線を足さない。強調もしない。理由を考えない。説明しようともしない。それで成立してしまっている。
──成立している。
その事実が、どこか落ち着かない。
だが、手を止める理由にもならなかった。マウスを動かしながら、姫川は一度だけ深呼吸をする。呼吸は、昨日より整っている。修正が一段落すると、全体を再確認する。
画面の中のデザインは、以前よりも静かだった。情報量は減っていない。寧ろ読みやすい。
「……前より、いいな」
声に出してから、姫川は少しだけ眉を寄せた。
“前より”という比較を、無意識にしている。
前とは、いつの前だろう。昨日か。それとも、もっと前か。
考えようとして、やめた。考えなくても、仕事は進んでいる。
昼前、同僚が通りがかりに声をかけてきた。
「この案件、もう修正終わったんですか?」
「一応、ですが…」
姫川は画面を閉じずに答える。
隠す理由はない。
同僚は画面をちらりと見やり、軽く頷いた。
「早いですね。いい感じじゃないですか」
褒め言葉だ。
いつもなら、少し照れるか、謙遜する。今日はそうしなかった。
「ありがとうございます」
それだけ言って、再び画面に視線を戻す。
会話はそれで終わった。
——説明しなかった。
それに違和感はない。
■
午後に入っても、作業は滞らなかった。
寧ろ不要な確認作業が減っている。
削らない。足さない。触らない。
触らない、という選択が、こんなに多かっただろうか。姫川は過去の自分の作業データを一瞬だけ思い出す。
以前のデザインは、もっと動いていた。動かす事で完成に近付けていた。
今は違う。完成に近付ける為に動かさない。
——いつから?
答えは探さない。探せば言葉にしてしまうから。
夕方近く、修正案をまとめて保存する。ファイル名に、日付を入れる指が迷わない。保存を押した瞬間、姫川は椅子にもたれた。
肩の力が抜ける。疲れているわけではない。寧ろ軽い。それが一番妙だった。仕事は確実に進んだ。質も落ちていない。
寧ろ評価される可能性は高い。なのに、「元に戻そう」という発想が、一度も浮かばなかった。
——戻す?
何を。
自分は、どこかから逸れたのか。それとも、唯進んだだけなのか。
答えは出ない。出なくていい、と自然に思える。帰り支度をしながら、姫川はデスクの引き出しを開けかけてやめた。
何かを確認しようとしたわけではない。唯癖のような動きだった。引き出しを閉める。今日は開けなくていい。
事務所を出ると、外は少し冷えていた。夕方の空気が、肺に入ってくる。歩きながら、姫川は今日一日の作業を思い返す。
大きな出来事はない。誰かと衝突したわけでもない。それなのに、仕事の感触だけが確実に変わっている。
——動いてしまった。
そう思った瞬間、姫川は小さく息を吐いた。
止めなかった。止めようともしなかった。それが今の事実だ。
家に着く頃には、違和感は輪郭を失っていた。代わりに、静かな確信のようなものが残っている。
明日も、同じように作業をするだろう。同じように判断し、同じように戻さない。
それを、怖いとは思わなかった。
——仕事は、もう動いている。
姫川は鍵を開け、部屋に入る。
灯りをつける前に、一瞬だけ立ち止まった。
何かを失った感覚はない。唯以前と同じ場所には、もう立っていない。
それだけだった。




