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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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戻れない作業

 事務所を出て暫く歩いてから、姫川は自分の呼吸が浅くなっている事に気付いた。

 息が苦しいわけではない。歩く速度も、いつもと変わらない。それなのに、吸って吐く、その間隔だけが、僅かに合っていない。


 ——さっきのせいだ。


 そう思ってから、姫川は自分の中で何が「さっき」なのかを、あえて整理しなかった。

 佐伯の仕事場。線。間。

 言葉にすれば、いくらでも分解できる。

 だが、分解した瞬間に、全体の感触が変わってしまう気がして、考えるのをやめる。歩道の端を、同じような色のタイルが続いている。


 見慣れた道だ。この道を歩くのは今日が初めてではない。それでも、足裏に伝わる感覚が、少しだけ現実味を欠いている。


 ——ちゃんと戻ってきた筈なのに。

 姫川は、小さく息を吐いた。


 事務所に戻ると、デスク周りはいつも通りだった。

 積み上げた資料。付箋の貼られたモニター。作業途中のラフ。

 どれも、今朝出ていった時と同じ配置だ。椅子に座り、パソコンを立ち上げる。画面が明るくなるまでの数秒が、妙に長く感じられた。


 ——仕事をしよう。

 そう思って、ラフを並べる。


 修正点は、頭の中で整理できている。

 削る部分。残す部分。余白の扱い。

 判断自体は、もう終わっている筈だった。

 だが、マウスに手を置いたまま、姫川は動けずにいた。カーソルが、画面の端で点滅している。待っているようにも、催促しているようにも見える。


 ——境界。


 不意に、その言葉が浮かぶ。使わないと決めた筈の言葉だった。

 しかしながら、佐伯の線を見た後では、避けきれなかった。


「……違う」声に出して、すぐに後悔する。


 否定する程、意識しているようで嫌だった。

 姫川は、画面から目を離し、デスクの上を見渡す。

 紙。ペン。ノート。あの時閉じたままのノートが、引き出しの中に入っている。

 出そうと思えば、すぐに出せる。言葉を書こうと思えば書ける。


 ——書ける、けど。


 姫川は椅子にもたれ、天井を見上げた。佐伯の線は、分かりやすかった。

 そこまで、と誰にでも示せる。引いた本人にも、見る側にも、言い訳の余地がない。

 それに比べて、自分の中の境界は形を持たない。触れたと思った瞬間にずれてしまう。言葉にすれば固定されるが、固定された瞬間に何かを失う。


 ——何を?

 答えは出ない。


 出なくていい、とも思う。

 姫川は、再び画面に向き直る。ラフの一部を拡大し、余白を見る。


 ——削らなかった。

 その判断をした時の感覚が、今になって戻ってくる。


 理屈ではない。説明もできない。唯削れなかった。それは佐伯の線を意識したからなのか。それとも、自分が変わったからなのか。どちらにしても、以前の判断基準とは、違う場所から出てきた答えだった。

 姫川は、キーボードに指を置き、少しだけ修正を加える。大きくは変えない。触りすぎない。


 ——これ以上は、今じゃない。


 その判断に、確信はないが、間違っているとも思えなかった。




 ■


 昼前、同僚が声をかけてきた。


「この前の案件、どうなりました?」


「……進んでます」

 嘘ではない。


 だが、全部は言っていない。同僚は、それ以上深く聞かずに頷いた。

 仕事の会話だ。それで十分だ。一人になると、姫川は再び呼吸の浅さを意識した。

 朝よりは、少し落ち着いているにはいるが、完全ではない。


 ──佐伯さんは、今頃どうしているだろう。


 考える必要はない。そう思いながら、思ってしまう。

 線を引いた人。引いてしまった人。自分は、引いていない。

 だが、受け取ってしまった。その事実が、静かに重い。


 夕方、作業を切り上げる時間になっても、姫川の中の違和感は消えなかった。寧ろ輪郭を持たないまま居座っている。

 帰り支度をしながら、引き出しの中のノートに、ふと視線が落ちる。

 出すか。出さないか。姫川は一瞬だけ迷ってから、引き出しを閉めた。


 ——まだ、書かない。


 言語化しない、という選択も一つの決断だ。

 事務所を出ると、空気が少し冷えていた。昼間とは違う匂い。街が別の顔を見せ始めている。

 歩きながら、姫川は、今日のやり取りを思い返す。


 佐伯の声。間。半紙の位置。


「じゃあ、今はここまでだ」

 その言葉が、何度も頭の中で反復される。


 ——ここまで。


 終わりではない。

 だが、続きでもない。境界とは、そういうものなのかもしれない。

 家に着いても、すぐには電気をつけなかった。玄関に立ったまま、暫く動かない。


 ——戻れない。


 その言葉が浮かび、すぐに打ち消す。

 戻れない場所があるなら、進めない場所もある。今は、その間に立っているだけだ。

 電気をつけ、靴を脱ぐ。いつもの生活が、静かに再開する。姫川は、バッグを置き、深く息を吸った。呼吸は漸く歩調と合い始めていた。


 ——今日は、これでいい。


 何も決めていない。

 だが、何かが確かに変わった事だけは解る。

 境界は、まだ言葉にならない。それでも、感じられる。

 姫川は、その感覚を否定せず、唯、明日に持ち越す事にした。



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