表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
23/59

重ならない確認

 まだ眠気の残る部屋に、淡い朝の色が差し込む。はっきりとした光ではない。輪郭を持たない色だけが、机の角や床の端を、静かに染めていく。

 佐伯は、いつもより少し遅れて目を覚ました。眠りが深かったわけではない。 何度か意識は浮かび上がっていたし、時間の感覚も曖昧なまま残っている。

 唯、起き上がる決定が、いつもより一拍遅れただけだ。ベッドを出て、洗面所に向かい、顔を洗う。冷たい水に触れても、頭は完全には冴えない。

 それを気にする程でもない、と佐伯は思った。


 今日は急ぐ必要がない。机の前に座る。半紙は用意してある。昨日、自分で引いた線がまだ頭の中に残っている。


 ——線を引いた。


 その事実は、思った以上に重かった。後悔ではない。

 だが、なかった事にもできない。誰の仕事でもない場所。そこに、自分の意思で線を置いた。

 それは仕事の為の線であると同時に、これ以上曖昧にしない、という意思表示でもあった。 佐伯は、筆を取らずに、暫く机の向こう側を見ていた。

  姫川が立つ位置。昨日と同じ距離。何も変わっていない筈の空間が、 今日は少しだけ違って見える。


 ——来るだろうか。

 そう考えた瞬間、 自分でも意外な程、はっきりとした言葉が浮かんだ。


 待っている、という程の感情ではない。

 だが、来ない可能性を想像すると、胸の奥に、僅かな引っかかりが残る。


 佐伯はコーヒーに口をつけ、苦味を確かめる。 目が覚めきらないわけではない。唯、急ぐ理由が見当たらなかった。

 玄関の方で、一度だけ控えめなノックの音がした。念を入れすぎない、しかし遠慮が分かる叩き方。 佐伯はすぐには返事をしなかった。

 時計を見る。 まだ朝と呼べる時間帯だ。


 ——来るとは言っていなかった。

 だが、来ないとも聞いていない。


 もう一度、ノックの音がする。 先程より、ほんの少しだけ強い。


「……開いてる」


 低く返すと、ドアが静かに開いた。 姫川が顔を出し、部屋の中を一瞬だけ見回す。


「おはようございます」 声は落ち着いている。


 だが、どこか測っているようでもあった。


「……早いな」


「通り道だったので」


 本当かどうかは判らない。 佐伯はそれ以上聞かなかった。姫川は中へ入り、ドアを閉める。 鍵を掛ける音はしない。

 そのまま、少しだけ距離を取った位置で立ち止まる。以前なら、自然に机の横まで来ていた。今日は来ない。

 佐伯はその事を意識した自分を、すぐに切り捨てた。意味を持たせる必要はない。


「昨日の修正、少し考えました」姫川はそう言って、鞄からラフを取り出す。


 机に置く前に、一瞬だけ視線が佐伯の手元に落ちた。筆はまだ持たれていない。


「ここ、余白を残したままにした方がいい気がして」姫川はラフを差し出す。


 佐伯は立ち上がらず、座ったままそれを受け取った。視線が紙の上を移動する。線。配置。空いている部分。


 ——削っていない。

 それが、すぐに分かった。「……理由は?」


「説明すると、嘘になる気がしたので」 姫川の言い方は、いつもより率直だった。


 佐伯はラフから目を離さないまま、短く息を吐く。


「仕事で?」


「仕事です」 即答だった。


 だが、その声には、ほんの僅かな緊張が含まれている。佐伯はラフを机に置き、漸く姫川を見る。そして目が合う。


「境界を、残したいって事か」


 姫川は一瞬だけ目を伏せた。肯定とも否定とも取れない間。「……消しきれないものがある、というか」


「消さなくていい」 思ったより早く、言葉が出た。


 佐伯自身が、それに気付いて眉をひそめる。


 姫川は顔を上げ、佐伯を見る。「それは、佐伯さんの判断ですか」


「……そうだな」少し考えてから続ける。「線を引いたのは、消す為じゃない」


 それだけ言って、筆を取る。 半紙を一枚、引き寄せる。

 姫川は、それ以上近づかない。

 視線は確実に手元を追っている。墨を含ませる。間を置く。昨日より長い。だが、迷ってはいない。線を引く。強くも弱くもない、均一な線。

 姫川はその線を見て、胸の奥が静かに鳴るのを感じた。

 昨日の線と似ているが同じではない。


「……違いますね」無意識に、そう口にしていた。


 佐伯は筆を止めない。


「同じにする理由がない。でも、揃ってはいます」


 佐伯の手が、僅かに止まる。「揃えるつもりはない」


「揃ってしまった、という感じです」 姫川の言葉に、責める響きはない。 唯、確認だった。

 佐伯は線を引き終え、筆を置く。 紙の上の線を見つめながら、暫く黙る。


「……誰の仕事でもない場所、か」


 編集者の言葉を、そのまま口にする。

 姫川の肩が微かに揺れた。「俺は、あれを、悪いとは思ってません」


「俺もだ」 即答だった。「唯──」 佐伯は続ける。 「そこに何を置くかは、決めないといけない」


 姫川はその言葉を噛みしめるように聞いた。「決めると、戻れなくなります」


「戻る必要があるか?」


 問いは柔らかい。 だが、逃げ場はない。


 姫川は、少しだけ笑った。 「……やっぱり、線を引く人ですね」


「線がないと、分からなくなる」


「俺は、分からないままで居たい時もあります」


「それも、分かる」 佐伯はそう言って、半紙を姫川の方へ少しだけずらした。


 触れる程近くはない。だが、見れば届く位置。


「じゃあ、今はここまでだ」


 姫川はその距離を見て静かに頷く。「はい」


 仕事の返事だった。

 だが、逃げではない。 姫川はラフを鞄に戻し、出口の方へ向かうも 途中で一度だけ振り返る。「……また、来てもいいですか」


 佐伯は、即座には答えなかった。

 だが、拒否もしない。「連絡してからな」


  姫川は、少しだけ安堵したように笑う。「分かってます」

 ドアが閉まる。佐伯は机に戻り、紙の上の線を見る。境界は確かに引かれている。

 それは遮断ではない。──重ならない確認。それが今の位置だ。

 佐伯は次の半紙を取った。今度は間を置かない。 線は、静かに続いていく。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ