重ならない確認
まだ眠気の残る部屋に、淡い朝の色が差し込む。はっきりとした光ではない。輪郭を持たない色だけが、机の角や床の端を、静かに染めていく。
佐伯は、いつもより少し遅れて目を覚ました。眠りが深かったわけではない。 何度か意識は浮かび上がっていたし、時間の感覚も曖昧なまま残っている。
唯、起き上がる決定が、いつもより一拍遅れただけだ。ベッドを出て、洗面所に向かい、顔を洗う。冷たい水に触れても、頭は完全には冴えない。
それを気にする程でもない、と佐伯は思った。
今日は急ぐ必要がない。机の前に座る。半紙は用意してある。昨日、自分で引いた線がまだ頭の中に残っている。
——線を引いた。
その事実は、思った以上に重かった。後悔ではない。
だが、なかった事にもできない。誰の仕事でもない場所。そこに、自分の意思で線を置いた。
それは仕事の為の線であると同時に、これ以上曖昧にしない、という意思表示でもあった。 佐伯は、筆を取らずに、暫く机の向こう側を見ていた。
姫川が立つ位置。昨日と同じ距離。何も変わっていない筈の空間が、 今日は少しだけ違って見える。
——来るだろうか。
そう考えた瞬間、 自分でも意外な程、はっきりとした言葉が浮かんだ。
待っている、という程の感情ではない。
だが、来ない可能性を想像すると、胸の奥に、僅かな引っかかりが残る。
佐伯はコーヒーに口をつけ、苦味を確かめる。 目が覚めきらないわけではない。唯、急ぐ理由が見当たらなかった。
玄関の方で、一度だけ控えめなノックの音がした。念を入れすぎない、しかし遠慮が分かる叩き方。 佐伯はすぐには返事をしなかった。
時計を見る。 まだ朝と呼べる時間帯だ。
——来るとは言っていなかった。
だが、来ないとも聞いていない。
もう一度、ノックの音がする。 先程より、ほんの少しだけ強い。
「……開いてる」
低く返すと、ドアが静かに開いた。 姫川が顔を出し、部屋の中を一瞬だけ見回す。
「おはようございます」 声は落ち着いている。
だが、どこか測っているようでもあった。
「……早いな」
「通り道だったので」
本当かどうかは判らない。 佐伯はそれ以上聞かなかった。姫川は中へ入り、ドアを閉める。 鍵を掛ける音はしない。
そのまま、少しだけ距離を取った位置で立ち止まる。以前なら、自然に机の横まで来ていた。今日は来ない。
佐伯はその事を意識した自分を、すぐに切り捨てた。意味を持たせる必要はない。
「昨日の修正、少し考えました」姫川はそう言って、鞄からラフを取り出す。
机に置く前に、一瞬だけ視線が佐伯の手元に落ちた。筆はまだ持たれていない。
「ここ、余白を残したままにした方がいい気がして」姫川はラフを差し出す。
佐伯は立ち上がらず、座ったままそれを受け取った。視線が紙の上を移動する。線。配置。空いている部分。
——削っていない。
それが、すぐに分かった。「……理由は?」
「説明すると、嘘になる気がしたので」 姫川の言い方は、いつもより率直だった。
佐伯はラフから目を離さないまま、短く息を吐く。
「仕事で?」
「仕事です」 即答だった。
だが、その声には、ほんの僅かな緊張が含まれている。佐伯はラフを机に置き、漸く姫川を見る。そして目が合う。
「境界を、残したいって事か」
姫川は一瞬だけ目を伏せた。肯定とも否定とも取れない間。「……消しきれないものがある、というか」
「消さなくていい」 思ったより早く、言葉が出た。
佐伯自身が、それに気付いて眉をひそめる。
姫川は顔を上げ、佐伯を見る。「それは、佐伯さんの判断ですか」
「……そうだな」少し考えてから続ける。「線を引いたのは、消す為じゃない」
それだけ言って、筆を取る。 半紙を一枚、引き寄せる。
姫川は、それ以上近づかない。
視線は確実に手元を追っている。墨を含ませる。間を置く。昨日より長い。だが、迷ってはいない。線を引く。強くも弱くもない、均一な線。
姫川はその線を見て、胸の奥が静かに鳴るのを感じた。
昨日の線と似ているが同じではない。
「……違いますね」無意識に、そう口にしていた。
佐伯は筆を止めない。
「同じにする理由がない。でも、揃ってはいます」
佐伯の手が、僅かに止まる。「揃えるつもりはない」
「揃ってしまった、という感じです」 姫川の言葉に、責める響きはない。 唯、確認だった。
佐伯は線を引き終え、筆を置く。 紙の上の線を見つめながら、暫く黙る。
「……誰の仕事でもない場所、か」
編集者の言葉を、そのまま口にする。
姫川の肩が微かに揺れた。「俺は、あれを、悪いとは思ってません」
「俺もだ」 即答だった。「唯──」 佐伯は続ける。 「そこに何を置くかは、決めないといけない」
姫川はその言葉を噛みしめるように聞いた。「決めると、戻れなくなります」
「戻る必要があるか?」
問いは柔らかい。 だが、逃げ場はない。
姫川は、少しだけ笑った。 「……やっぱり、線を引く人ですね」
「線がないと、分からなくなる」
「俺は、分からないままで居たい時もあります」
「それも、分かる」 佐伯はそう言って、半紙を姫川の方へ少しだけずらした。
触れる程近くはない。だが、見れば届く位置。
「じゃあ、今はここまでだ」
姫川はその距離を見て静かに頷く。「はい」
仕事の返事だった。
だが、逃げではない。 姫川はラフを鞄に戻し、出口の方へ向かうも 途中で一度だけ振り返る。「……また、来てもいいですか」
佐伯は、即座には答えなかった。
だが、拒否もしない。「連絡してからな」
姫川は、少しだけ安堵したように笑う。「分かってます」
ドアが閉まる。佐伯は机に戻り、紙の上の線を見る。境界は確かに引かれている。
それは遮断ではない。──重ならない確認。それが今の位置だ。
佐伯は次の半紙を取った。今度は間を置かない。 線は、静かに続いていく。




