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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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白紙の境界

 姫川は朝の光が差し込む自室で、まだ閉じたままのノートを前に座っていた。ページは白く、指で触れると微かにひんやりとした感触が手に伝わる。

 ここに何を書くべきか——それを決めるのは、自分自身だと分かっている。

 しかし同時に、言葉にする事で壊れてしまいそうな微妙な感覚も感じていた。


 姫川はペンを手に取り、空白のページに視線を落とす。呼吸を整え、指先で軽くペン先を紙に触れた。

 だがすぐに手を止める。何も書けないわけではない。今ここで言葉にすれば、その線や境界の意味が確定してしまう——それが怖かった。


 ——線を引く、とは違う。


 佐伯の線は確かに目に見える形で存在した。白紙の上に、誰が見ても「ここまで」とわかる線が引かれていた。けれども、自分の中の境界は、まだ曖昧で、柔らかく、触れたら変形してしまいそうだ。

 姫川はその感覚を、言語化しようとするといつも手が止まる。言葉は重すぎるのだ。


 窓の外を見やると、微かな風が枝を揺らしている。外の世界は変わらず動いているのに、姫川の内側は静止している。静止しているのに、目に見えない境界線だけがじわじわと存在感を増していた。

 姫川は息を整え、再びペンを握る。


 ──書きたい。でも書けない。


 その間に思考が何度も行き来する。佐伯は、もう線を引いた。自分はまだ、境界を言語化できていない。

 それなのに、心の中では確かに「ここまで」と感じる部分がある。言葉にすればその感覚が固定される。固定されると、柔らかさが失われ、見えないものの意味が薄れる気がするのだ。


 ノートの白いページに視線を落としながら、姫川は手を止め、呼吸を深く吸い込む。紙の上に線を引く行為は、佐伯のものを見て理解できる。

 しかし自分の線は、まだ線にできない。形にならない、形にする事を躊躇う、境界の感覚が残っているのだ。


 ——言葉にしてしまったら、戻れない。


 その思考が頭をぐるぐると回る。姫川はペンを握ったまま、微かに眉を寄せる。ノートのページに何かを書き込もうとするたび、思考は引き戻される。線を描く勇気も、言語化する勇気もまだ足りない。


 だが、佐伯の線が頭に浮かぶ。確かに引かれた線の存在感は、姫川の心に影響を与えている。それを自覚する事で、姫川の中の境界は少しずつ明瞭になってきた。

 言語化できなくても、線を描けなくても、その感覚は確かに存在する——唯触れないだけなのだ。


 姫川は息を整え、窓の外の光を見つめる。光の角度が少し変わり、部屋の中に影が長く伸びる。影は目に見える形で空間を分けるが、それは線ではない。

 その感覚が、姫川の心の中に引かれた境界線と呼応しているように思えた。


 ——書く必要はない。今は唯、感じていればいい。

 そう自分に言い聞かせ、姫川はペンを置く。


 線を引く勇気はまだない。

 しかし、境界を意識する感覚は、確かに存在している。言語化できずとも、確かにそこにあるものを認める事。それが今の自分にできる最善の行為だった。


 姫川はノートのページにそっと手を置き、呼吸を整える。佐伯の線は、もう誰のものでもない。自分の線はまだ形にならない。それでも、二人の間には微かな呼応が生まれつつあった。


 姫川はその感覚を胸に、静かに目を閉じる。

 ——言葉にしなくても、境界は感じられる。


 窓の外の光が少しずつ変化し、影が部屋の奥に伸びていく。姫川は深く息を吸い込み、再びペンを手に取る事なく、ノートを閉じる。

 線にしなくても、境界を意識するだけで、姫川の中の世界は確かに変わったのだ。



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