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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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線を引く

 朝の光が作業机の上に斜めに落ちていた。佐伯は先ず筆を持つ前に、カップに注いだコーヒーを一口すする。

 熱さが喉を通る感覚を確認しながら、佐伯は視線を紙の上に落とす。そこには、まだ誰の手も触れていない、真っ白な空白が広がっていた。


 ──ここに、線を引くのか。


 佐伯は思わず息を吐いた。指先が微かに震える。線を引くという行為は、唯の形を描く事ではない。それは、空間の意味を確定させる事。誰も手を加えられない「境界」を作ることでもある。


 机の上に置かれた線引き用の定規を手に取り、佐伯は一度だけ目を閉じた。心の中で、無数の可能性を通過させる。

 どの位置に、どの長さで、どの強さで線を置くのか。それは紙の上だけの問題ではない。目の前の白紙が、佐伯の思考の奥深くにある迷宮を映し出しているのだ。


 再び目を開け、佐伯はゆっくりと筆先を紙に下ろす。最初の一点を置いた瞬間、思考の中で僅かな波紋が広がる。


 ——引いてしまった。


 しかし後戻りはできない。線を引くというのは、その瞬間に責任を背負う事でもある。

 誰かの為ではなく、自分自身の為に。佐伯は手元の線を見つめ、無意識のうちに息を整える。

 その線の上に、次の線を重ねる。ゆっくりと、慎重に。距離を計りながら、強さを調整しながら、少しずつ全体像を形作っていく。

 紙の上では、まだ全体が見えない。

 だが佐伯の頭の中では、既に完成図が薄っすらと浮かんでいた。


 ——これは、自分の線だ。


 思考を巡らせるうちに、佐伯はふと視線を窓の外に向けた。空にはまだ朝の淡い光が広がり、風が木の枝を揺らしている。

 外の世界は変わらないのに、自分の手元だけが確実に動いた。その感覚が、僅かに奇妙で、しかし、心地よい。


「誰の仕事でもない場所に、線を置く」——その行為を、彼は静かに、確かに成し遂げたのだ。


 佐伯は線の長さを確認し、そして息をつく。紙の上の線は、唯の線ではなく、自分の意志を象徴している。

 どんな評価も、どんな批判も、今は関係ない。ここにあるのは、自分が決めた境界線だけだ。

 ふと、佐伯は筆を置き、目を閉じる。思考が少しずつ静まっていく。線を引く前の不安や迷いは、既に過去のものになっていた。残るのは、確かに自分の意思で引かれた線だけ。


 佐伯は机の上のコーヒーを一口すする。紙の上の線を眺めながら、心の中で小さく笑う。外から見れば、唯の直線かもしれない。

 しかし彼にとって、それは自分自身の存在を確認する為の行為であり、同時に世界と向き合う為の方法だった。


 ——ここから、何が始まるのか。


 佐伯は筆を手に取り、次の線を描こうとする。その線は前の線と対話しながら、紙の上に新たな意味を生むだろう。

 だが、佐伯は焦らない。線を引くという行為は、時間の中でゆっくりと、自分の思考と呼吸に合わせて進めるものなのだ。


 外の光が少しずつ変わる。影が机の上を滑り、紙の上の線と交錯する。佐伯はその微妙な変化を楽しみながら、再び筆を動かす。

 一本目の線の存在が、次の線を引く勇気を与えてくれる。


 ——線を引くとは、決断であり、確認であり、同時に始まりでもある。


 佐伯は静かに息をつき、紙の上に新たな線を置いた。それは唯の線ではない。誰のものでもない場所に、自分の意志で置いた、確かな境界線だった。



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