境界の言語化
会議室の外の廊下で、編集者は書類を手に立ち止まった。
中から聞こえてくる声は静かだが、間違いなくいつもの打ち合わせではないトーンを帯びている。
「……なるほど、ここまで進めていたのか」
編集者は小さく息をついた。声には出さなかったが、心の中では既に決定的な感覚があった。
会議室のドア越しに、佐伯の声と姫川の声が重なった。互いに間合いを測りながら、しかし微妙に噛み合わない。
言葉に含まれるニュアンス、間の取り方、筆の進め方。すべてが、普通のやり取りではありえない空気を漂わせていた。
編集者は机の角に手を置き、そっと耳を澄ます。
第三者として、ここで何かを判断する事は許されている。
しかし、それは同時に責任でもあった。線を引くのは自分ではないが、ここで見てしまったものは、否応なく「線」を示す事実となる。
「お互いの領域が、もう殆ど重なっている……」
編集者の心に、無意識の言葉が浮かぶ。
誰の仕事でもない場所──そんな言い方が最も近い感覚だった。
会議室の中で、佐伯は僅かに眉を寄せ、姫川は微かに肩を揺らす。
その瞬間、外から見る編集者には、二人の間に透明な境界線が存在しないように見えた。線は引かれず、しかし、その不在が既に決定的な意味を持っていた。
「これは……危うい」
編集者の胸に、言葉では言い表せない予感が走った。誰も悪くない。いや、誰も悪くない筈なのに、この距離感、関係性の形は、すでに調整不可能な領域に入っていた。
ドアの向こうで、佐伯の手がペンを置く音がした。
姫川の呼吸が変わる。
編集者は思わず目を細める。その瞬間、誰かが何かを決めたわけではない。
だが、第三者の目には、この二人の関係が変質している事がはっきり見えた。
「……ああ、もう戻れないかもしれない」
編集者は小声でそう呟き、書類を握り直した。
会議室の中の二人に、それを伝える必要はない。伝わらなくても、事実は事実として、確実に存在している。
廊下の静けさの中で、編集者は一度深く息を吸った。外から見た「境界のない空間」は、当人達にはまだ見えていない。
しかし、第三者として立っている自分には、すべてが鮮明だった。
二人が互いに線を引かず、互いに影響を与え続ける限り、ここは誰の仕事でもない場所になってしまう。
編集者はその場を離れ、静かにドアを閉めた。後で二人に伝えるべき言葉はある。
だが今は、唯この光景を頭の中で整理するしかなかった。
誰も悪くない。
だが、確実に、何かが変わったのだ。




