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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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唇の余韻

 偶然の再会は居酒屋だった。

 佐伯は扉を押し開けると、僅かに薄暗い光と、酒の匂いに包まれた。

 あたりを見渡すと、カウンターの隅で誰かが手元のメニューを眺めている。


 あの時の、若い男だ──。

 姫川虎太郎。名前を知っているわけではない。唯、顔が記憶の片隅に残っていた。


 気付けば二人は同じカウンターに座り、自然と会話が始まる。

 書道展での短い言葉のやり取りは、もう少し砕けた調子になっていた。


「ここ、よく来るんですか?」


「いや、たまに。今日は偶然だ」


 佐伯は少し肩をすくめ、姫川も肩を揺らして笑った。

 互いに照れくさい感覚はなく、けれど何か――目に見えない距離感が、自然に二人を近付ける。


 酒が入ると会話はさらに軽やかになる。

 互いの仕事の話、書道やデザインのこだわり、時折笑い声が小さな空間に響いた。


 気付けば二人は、居酒屋を出て、近くのコンビニで酒をいくつか買い込んでいた。

 姫川の自宅までの道すがら、歩幅を合わせる。街灯の下、偶然肩が触れる事もあったが、特に言葉はなかった。

 到着すると、二人はリビングのソファに腰を下ろし、追加の酒を口にする。


 話は途切れず、時折互いの目が合う。

 そして、自然に沈黙が生まれた瞬間、視線が重なった。短く、意味のない沈黙。

 だが、空気が一瞬だけ、密度を増した。


 姫川は、何かに導かれるように顔を近付けた。

 佐伯も無意識のまま、距離を詰める。

 唇が触れた瞬間、世界が僅かに揺れた。


 だが、それ以上は何も起きなかった。

 キスは一瞬で終わり、姫川は少し肩をすくめ、照れたように視線を逸らす。

 佐伯は、何が起きたのかを理解しきれず、僅かに眉を寄せる。


 時間が止まったような感覚――そのまま、沈黙が流れる。

 言葉も身体も、何も進まない。

 それでも、互いの存在が確かに近くにある事だけは、肌で感じられた。


 やがて佐伯は、ふと視線を外す。

 ――あれが、キスだったのか。


 理解が遅れるのも、いつもの事だ。

 しかし不快ではない。寧ろ、どこか温かい気持ちが胸に残る。

 姫川も、目を合わせずに小さく笑った。

 何も言わない。謝らない。

 それが自然で、二人にとってちょうどいい距離感なのだと、どちらも無意識に理解していた。


 その夜、何も進展はなかった。

 だが、互いに残ったのは、確かな余韻と、僅かな期待――静かな波紋のような感情だった。




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