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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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誰の仕事でもない場所

 打ち合わせは、予定より少し早く始まった。編集者が来るのが、珍しく定刻より前だったからだ。

 佐伯は、机の上を一度だけ見回してから、半紙の位置を数センチ整えた。

 意味はない。唯、そうした方がいい気がした。

 姫川は、その動きを横目で見て、自分が何も触らなかった事に気付く。


 ——前なら、手が出ていた。


 余計な事をしないようにしている。それは意識している。戻そうとしているのだ、と姫川は思う。

 編集者は、軽く会釈をしてから、二人の前に座った。


「じゃあ、早速見せてもらえますか」

 仕事の声だ。


 いつも通り。余計な雑談はない。

 佐伯は無言で半紙を差し出す。姫川は、その横にラフを置いた。

 編集者は、線とデザインを行き来しながら、暫く黙って見ている。その沈黙が、以前より長く感じられた。


 黙って見られるのは慣れている。評価が出るまでの時間に、意味はない。唯、今回は、視線が動くたびに、僅かな間が挟まる。

 線。余白。レイアウト。また線。


 ——何を見ている。

 そう思ったが、口には出さない。出す必要もない。


「……いいですね」


 編集者は、漸く顔を上げた。

 その一言に、佐伯は内心で息を抜く。


 ——問題はない。

 そう判断した、次の瞬間。


「前より、線とデザインの“間”が、ひとつ続きになった感じがします」


 佐伯は、その言葉を、正確に理解できなかった。

 ──続き?間?


「前は、ここが佐伯さん、ここからが姫川さん、って、自然に分かれてたんですけど」

 編集者は、指先で空中に線を引く。


「今は、どこからどこまでが誰の仕事か、ちょっと分かりにくいですね」


 佐伯は、頷かなかった。否定もしない。


 ——分かりにくい?


 それは、悪い事なのか。良い事なのか。

 判断が、即座に出てこない。


 その言葉が出た瞬間、胸の奥が、軋んだ。


 ──言われた。

 ついに。


 編集者は、責めていない。寧ろ、評価している。


「勿論、悪い意味じゃないです」


「完成度は高いですし、全体の呼吸が揃ってきた感じはあります」


 呼吸が揃う。


 ——やめてほしい。

 姫川は、そう思いながら、何も言わなかった。


 続けると、余計に確定してしまう。


「ただ……」

 編集者は、言葉を選ぶように、一拍置いた。「ここ、誰の仕事でもない場所になってますよね」


 ──きた。


 姫川は、自分の足の裏に、重さを感じた。

 誰の仕事でもない。それは、境界が消えた、という意味だ。


 ——戻れない。


 もう、以前の役割分担には。


「でも、それが、今回の企画には合ってる気もします」編集者は、そう言って、軽く笑った。


「なので、この方向で、もう少し詰めましょうか」


 仕事としては、正解だ。問題はない。寧ろ成功に近い。それが分かるからこそ、姫川は何も言えなかった。


 打ち合わせは、滞りなく終わった。修正点も、明確だ。やるべき事は、分かっている。なのに、佐伯の頭の中では、さっきの言葉が、何度も引っかかる。


 誰の仕事でもない場所。

 ——そんな場所は、ない。


 仕事は、誰かがしている。していないなら、そこは空白だ。

 だが、あの編集者は、空白とは言わなかった。


 ——分かりにくい。

 境界が。


 佐伯は、無意識に、机の端を見た。姫川が立つ位置。以前と同じ距離なのに、そこが、少し近く感じられる。


 ——腕を広げれば、届く。

 そんな事を考えた自分に、佐伯はすぐ視線を戻した。


 意味がない。


「……じゃあ、また連絡します」


 編集者が帰り、部屋には二人だけが残った。

 沈黙。以前なら気にならなかった。

 今は、長い。


 佐伯が何も言わないのは、いつもの事だ。それなのに、今日は何か言うべき気がしてしまう。


 ——調整しなきゃ。

 戻さなきゃ。何を?どこに?


 言葉にしようとすると、全部仕事の言葉になってしまう。


「……少し、修正しますね」

 それしか言えなかった。


 佐伯は短く頷く。「……ああ」


 同じ返事。同じ声。それが、少しだけ遠い。

 姫川はラフを抱えて、一歩下がった。


 ——この一歩が、前より大きい。


 そう感じてしまう自分に、苦笑する。

 ——気のせいだ。


 だが、編集者の言葉が、頭から離れない。誰の仕事でもない場所。それは二人の間に、もう役割で測れない距離ができてしまった、ということだ。




 ■


 姫川が出ていく背中を見ながら、佐伯は筆を取ろうとして、やめた。


 ——今は、違う。

 理由は分からない。


 唯、線を引く前の間が、必要だと感じた。

 誰の仕事でもない場所。そこに自分は、何を置こうとしているのか。

 考える程、分からなくなる。それでも解らないままにしておく事を、以前より苦に感じている。


 ——それが、一番の変化だ。


 夜になっても、部屋は静かだった。佐伯は電気を消す前に、机の上をもう一度見た。

 線。余白。

 誰のものでもない場所。


 ——そこは、もう空白じゃない。


 そう思ってしまった事を、佐伯は否定しなかった。



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