戻らない位置
戻ってきた街は、以前と何も変わっていないように見えた。
駅前の看板も、通りの並びも、歩く人の数も。それなのに、改札を抜けた瞬間、姫川は足を止めた。
──こんな匂いだっただろうか。
理由は分からない。
空気が違うわけじゃない。
唯、吸い込んだ時に、少しだけ胸の奥で引っかかる。
地方の仕事は忙しかった。締切に追われ、判断を迫られ、迷う余裕は殆どなかった。
だから戻ってきた今、漸く「考える余白」が生まれてしまったのだと、姫川は思う。
——余計な事を考え始める。
それが、違和感の正体かもしれない。
事務所に寄る前に、佐伯の仕事場へ向かう。連絡はしていない。
戻ったら顔を出す、とだけ決めていた。
ドアの前に立つと、何故か一度、深呼吸をしている自分に気付く。
──前は、こんな事しなかった。
ノックをすると、少し間があってから、低い声が返る。
「……開いてる」
扉を開けると、煙草と墨の匂いが、変わらずそこにあった。机の配置も、半紙の積み方も、筆の置き場所も、何一つ、変わっていない。
それなのに、姫川は、入った瞬間から、落ち着かなかった。
「戻りました」そう言う声が、思ったよりも硬い。
佐伯は半紙に向かったまま、視線だけを少し上げる。
「……ああ」
それだけ。
以前なら、その短さに何も思わなかった。佐伯は、そういう人だと分かっていたから。
でも今は、そのたった一言が、何処か遠くに感じられる。
——距離ができた?
違う。距離は、前からあった。
じゃあ、何が。
姫川は、答えを探すのをやめ、自然に机の横へ回った。
半紙に落ちている線を見る。どれも、佐伯の線だ。迷いがなく、力が均一で、余計な説明を拒む黒。
——変わっていない。
そう思った、次の瞬間。
——……あれ?
胸の奥で、何かが引っかかった。
以前なら、この線を見ただけで、安心していた。「あ、大丈夫だ」「ちゃんと戻ってきてる」そう、無意識に確認していた。
でも今は、安心しきれない。悪いわけじゃない。矛盾、綺麗だ。唯、線と自分の間に、ほんの薄い膜がある。
「……忙しかったか」
佐伯の声が、静かに落ちる。
「ええ、まあ」答えながら、姫川は、自分の声を測っている。
——前より、間が空く。
会話のテンポが、噛み合っていないわけじゃない。でも、以前よりも、一拍、遅れる。
佐伯は筆を置き、煙草に火を点ける。その動作を見た瞬間、姫川は、何故か目を逸らした。
——見ていられない?
理由が分からない。
以前は、その仕草に、安定を感じていた筈だ。
「……何か、変わりました?」言いかけて、言葉を飲み込む。
変わったのは、相手じゃない。
——自分だ。
地方での仕事中、ラフを組みながら、何度も余白を削った。説明を足すより、黙らせた方がいいと思った。その判断基準が、どこから来たのか。考えないようにしていた。
今、佐伯の線を前にして、その基準が、はっきりと形を持ってしまう。
——戻れない。
前と同じ場所には。
佐伯は、何も言わない。唯、煙を吐き、また半紙に向き直る。
その背中を見ながら、姫川は思う。
——この人は、置いていかれたままだ。
時間に、ではない。自分に、だ。
地方に行っていた間、自分だけが、別の場所を通ってしまった。それは成長でも、進歩でもない。唯、「見てしまった」というだけ。
何を、とは言えない。でも、もう見なかった頃の目には戻れない。
「……また、仕事、お願いします」
姫川は、そう言った。
それは仕事の言葉で、逃げでもあった。
佐伯は、小さく頷く。「……ああ」
同じ返事。同じ声。なのに、姫川の胸の奥は、少しだけ、ざわついた。
——このままで、いいのか。
問いは浮かぶ。答えは出ない。佐伯の線は、変わらない。変わらないからこそ、自分が変わった事が、はっきりと解る。佐伯の仕事場を出ると、夕方の風が、少し冷たかった。
姫川は歩きながら、何度も振り返りそうになる。
——戻ってきた筈なのに。
位置が、合わない。それでも、完全に離れたわけじゃない。唯、同じ場所に立っているつもりで、立てなくなっただけだ。
「……面倒だな」小さく呟いて、姫川は歩き続ける。
戻らない位置。だが、もう一度、そこへ近づこうとしている自分が居る事だけは、はっきりと自覚していた。




