置いてかれた時間
朝、筆を持つ前に、佐伯は煙草に火を点けた。理由はない。唯、いつもそうしているからだ。
だが一本目を吸い終える前に、指が止まった。
灰が、思ったより長く落ちずに残っている。それを見ている自分に気付いた時、佐伯は眉をひそめた。
——こんな所を見るような人間じゃなかった筈だ。
灰は、結局、自重に耐えきれずに落ちた。小さな音を立てて、灰皿の縁に崩れる。
佐伯はそれを確認してから、煙草を押し付けた。
いつもと同じ動作。いつもと同じ朝。なのに、どこか一拍、間がずれている。筆を取る。半紙を置く。墨を含ませる。一連の流れに、迷いはない。
線は出る。手も震えない。力も、抜けていない。それでも、紙に落ちた黒を見た瞬間、佐伯は、ほんの僅かに視線を逸らした。
——悪くない。だが、まだだ。
何が、まだなのか。
それを考える程、意味はない。
そう判断して、佐伯は次の半紙を取った。
窓は少しだけ開けてあるので、外の音が、遠くに混じる。
車の走る音、人の声、風に擦れる木の葉。どれも、以前からそこにあったはずの音だ。
それでも最近、それらが「ある」と認識される瞬間が増えた。
——前は、聞いていなかった。
聞こえていなかったわけじゃない。
唯、気に留めていなかった。それだけの違いだ。
佐伯は筆を置き、肩を回す。左手首に走る刺青が、僅かに引きつる。昔からある感覚だ。
今更、どうこう思うものじゃない。
だが、そこに指先で触れた瞬間、別の光景が、唐突に浮かんだ。
夕暮れの喫煙室。
煙の向こうにいた横顔。何も言わず、唯並んで煙草を吸っていた時間。
───…。
佐伯は、小さく息を吐いた。
思い出す必要はない。
意味もない。唯の偶然だ。
そう言い聞かせるように、筆を取り直す。線は、変わらず、紙の上を走る。勢いも、抑揚も、過不足ない。
第三者が見れば、きっと言うだろう。
「いい線ですね」
「安定しています」
「最近、余白がきれいだ」
実際、そう言われた。編集者にも、同業にも。
——息が長い。
その言葉が、ふいに頭をよぎる。
佐伯は、無意識に眉を寄せた。
──息、だと?
線に、息も何もない。
あるのは、墨と紙と、手の動きだけだ。それ以上でも、それ以下でもない。
そう思っていた。ずっと。
だが、否定するほど、その言葉が引っかかる。
——長い、か。
何が、どこまで。
答えは出ない。出す必要もない。
佐伯はそのまま、次の線を引いた。昼を過ぎても、作業は続いた。
時計を見る事もなく、腹が減った事にも、特別、意識は向かない。
それでも、ふとした瞬間に、紙から視線が離れる事がある。
空いた場所。机の向こう側。
誰もいないはずの位置。
——誰かを待っている、わけじゃない。
佐伯は、即座にそう切り捨てる。
そんな感覚は、自分には似合わない。
必要もない。
だが、切り捨てたはずの思考が、しつこく、形を変えて戻ってくる。
——確認する相手が、居ないだけだ。
それだけの話だ。
これまでも、そういう時間はいくらでもあった。
地方に出ている。仕事だ。戻ったら連絡が来る。それだけの事。それなのに、「戻ったら」という言葉が、やけに具体的な重さを持って残っている。
佐伯は、煙草を一本取り出した。
火を点ける。吸う。吐く。途中で、手が止まった。
——二本目は、いらない。
そう判断した自分に、また、僅かな違和感を覚える。
以前なら、考えもしなかった。一本吸ったら、もう一本。
それが、流れだった。変えたつもりはない。変えようとも思っていない。なのに、生活の端が、少しずつ、別の形を取り始めている。
夕方、書き終えた半紙をまとめる。どれも、悪くない。寧ろ、出来としては安定している。
だが、並べて見た時、佐伯は、ほんの一瞬、首を傾げた。
——広いな。
余白が。
悪い意味ではない。唯、以前よりも、少し。それを修正しようとは思わない。
削る理由も、足す理由もない。
「……まあ、いいか」
声に出した言葉は、誰にも届かないまま、空気に溶けた。
夜になり窓を開けると、昼とは違う匂いが入ってくる。湿った空気。遠くのネオン。人の気配が薄れた街。佐伯は、机の前に座ったまま、暫く何もせずにいた。
書こうと思えば、書ける。線は出る。それは、分かっている。
だが、今は、筆を取る前のこの時間が、妙に長く感じられた。
——置いていかれている。
そんな言葉が、不意に浮かぶ。
誰に、とは考えない。何に、とも。唯、時間だけが、自分の横を通り過ぎていったような感覚。
佐伯は、苦笑にもならない息を吐いた。
「……くだらねぇ」そう呟いて、立ち上がる。
酒は、飲まない。今日は、そういう気分じゃない。代わりに、もう一度、半紙を一枚だけ置いた。
筆を取り墨を含ませる。
今度は、書く前に、少しだけ、間を置いた──。
理由は分からない。唯、その方がいい気がした。線は、相変わらず、静かに出る。
だが、引き終えたあと、佐伯は、その線から目を離さなかった。
答えは、そこにはない。それでも何かを待っている自分が居る事だけは、否定できなかった。
その夜、佐伯は、珍しく、時計を見てから電気を消した。
置いていかれた時間は、まだ、戻ってこない。
だが、どこに置いてきたのかだけは、薄っすらと、分かり始めていた。




