誰のものでもない
午前中の光は、佐伯の仕事場ではあまり意味を持たない。
北向きの窓から入る光は弱く、時間帯による差も曖昧だ。季節が変わっても、部屋の中の景色は殆ど変わらない。
いつもの必要な道具。墨の匂いと半紙の手触り。その上に煙草の匂いが重なる。佐伯の一日は静かに始まる。
筆を持つ。半紙の前に座ると、余計な考えは自然と落ちる筈だった。
だが最近、完全には消えないものがある。
形も名前もない、ほんの僅かな引っ掛かりだ。筆先を紙に近付け、ほんの一拍、間が空く。
それは迷いとは違う。止めようと思って止めているわけでもない。唯、以前よりも、落とすまでの時間が僅かに長い。
墨を含ませ、筆を落とす。
線は素直に伸びる。かすれも、跳ねも、いつも通りだ。
――変わっていない。
佐伯はそう判断する。
自分の書き方は、自分が一番よく知っている。そう簡単に変わるものではない。
昼前、同業者が一人、仕事場を訪ねてきた。
同じ書道展に名を連ねる事もある男で、付き合いは長いが、踏み込んだ話をする仲ではない。
「邪魔するぞ」
「勝手に座れ」
それだけのやり取りで、男は部屋を見回す。半紙の束を手に取り、机の上の数枚を黙って眺める。
暫く無言が続いたあと、男は一枚を指先で軽く押さえた。
「……前より、途中で切れなくなったな」
それだけ言って、感想とも評価ともつかない声で息を吐く。
佐伯は煙草に火を点けながら、ちらりとその紙を見る。
自分では、違いが分からない。
「そうか?」
「さあな」
男は肩をすくめ、それ以上説明しない。
線のどこがどう変わったのか、理由も原因も語られない。佐伯も深く考えない。
第三者の感想は、そういうものだ。
男は暫く世間話をして、用が済むとあっさり帰っていった。
ドアが閉まると、部屋には再び静けさが戻る。
途中で切れなくなった。
その言葉が、胸に残らないわけではなかったが、佐伯は紙を片付け、次の一枚を出す。
筆を構え、墨を含ませる。
やはり、線はいつも通りだった。
■
午後、姫川は編集部の会議室に居た。
机の上には、完成した見本誌が数冊並んでいる。その中の一冊に、佐伯の書が使われている。
編集者はページをめくりながら、特に感情を込めるでもなく言った。
「今回は、表紙が前に出すぎなくていいですね」
姫川は頷きながら、その言葉を受け取る。
褒め言葉だが、特別な意味は含まれていない。
「書が主張しすぎない分、全体が落ち着いて見えます」
編集者はそう続け、ページを閉じる。
それ以上の言及はない。
姫川は、その表紙を改めて見る。線は強い。だが、押しつけがましさはない。余白が、自然に息をしているように感じられる。
――邪魔をしていない。
姫川の中で、その言葉が静かに浮かぶ。
だが、誰を邪魔していないのかまでは考えない。編集者にとって重要なのは、完成物だ。
そこに至る過程や、書いた人の変化は関係ない。
会議が終わり、姫川は見本誌を一冊手に取る。重さを確かめるように、指先で表紙をなぞる。
線は、誰のものでもない。書いた人の感情でも、使う側の意図でもない。
唯、そこに在る。姫川はそう感じる。そして、その距離感が、今は心地よかった。
■
夕方、佐伯は再び筆を持っていた。
昼間のやり取りを思い返す事もなく、唯紙と向き合う。
墨を落とす。一画目、二画目。線は流れ、紙の上に定着していく。
途中で切れない。
確かに、そう言われれば、最後まで線を連れて行っている気もする。
だが、それが良いのか悪いのかは分からない。意識しているわけではないのだから。
書き終えた紙を横に置き、新しい半紙を出す。
何枚書いても、手応えは同じだ。
――変わっていない。
佐伯はそう結論づける。
もし何かが変わっているとしたら、それは自分のものではない変化だ。
外が暗くなり始める頃、煙草の煙が部屋に溜まる。佐伯は窓を少しだけ開け、冷えた空気を入れる。
机の隅には、姫川が置いていった見本誌がある。
表紙は伏せたままだ。佐伯はそれを手に取らない。評価もしない。言葉にもせず、ただ存在を認める。
線は、誰のものでもない。だからこそ、書ける。
筆を置き、煙草を消す。
今日も、何かが決定的に変わったわけではない。
けれど、第三者の目を通して浮かび上がった僅かなズレが、確かにそこにあった。
佐伯はそれを抱え込まず、名前も付けない。
唯、明日も同じように筆を取るだろう。
誰のものでもない線を、今日と同じように、静かに紙へ落とすために。




