不在の線
姫川が地方の仕事に入ると聞いたのは、打ち合わせの終わり際だった。
詳しい行き先も、期間も出なかった。唯「暫く」という言葉だけが、机の上に残った。
「向こう入ります。戻ったら、また連絡します」
佐伯は短く頷いた。
それ以上、訊かなかったし、止めもしなかった。
仕事だ。それで十分だった。
姫川が発った後、佐伯の生活は何も変わらなかった。
朝、起きる。筆を持つ。墨をする。煙草に火を点ける。
線も、手も、迷わない。
半紙の上には、いつも通りの黒が落ちていく。
唯、書き終えた後、紙を横に避ける指が、少しだけ遅れる。
誰かに見せる予定はない。
それでも、視線が一度、空いた場所を探す。
意味は考えない。
考える程の事じゃない、と判断して、次の紙を取る。
窓を少し開けると、外の空気が入ってくる。煙草の匂いが薄まるが、完全には消えない。
それでいい、と佐伯は思う。
■
地方の宿泊先は、静かだった。
姫川は仮の仕事場にノートパソコンを広げ、黙々と作業を進める。
締切は近い。考える余裕は、あまりない。
それでも、ラフを並べていると、指が止まる瞬間がある。
文字の配置。余白の取り方。
理由は分からないが、「これじゃない」という感覚だけが残る。
削る。足す。また削る。
気付けば、余白が少し広くなっている。誰かの線を思い浮かべたわけじゃない。そう言い聞かせて、姫川は作業を続ける。
夜、煙草を一本だけ吸う。外は静かで、街の音が遠い。連絡しようとは思わない。用事はない。それでいい。
■
佐伯は、仕上げた数枚の半紙をまとめて置いた。どれも悪くない。
だが、どれも、どこか少しだけ、間が広い。
「……まあ、いいか」
誰に向けた言葉でもない。そう呟いて、煙草を消す。
■
姫川は、完成した案を保存し、画面を閉じる。悪くない出来だ。
唯、確認する相手がいないまま、提出する事になる。
それを、少しだけ妙だと感じる。
離れていても、二人共、まだ名前のない何かが、すでに手の届く場所にあることだけは、同じように感じていた。




