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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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訊く事の重さ

 姫川は夜の街を歩きながら、何度も手元の資料を眺めていた。

 本の表紙の最終確認は終わっている。あとは完成品を渡すだけ。なのに、頭の奥にはどうしても別の思考が絡みつく。


   ──あの時の事を、訊くべきなのか。


 言葉にする事で、今の関係が変わるかもしれない。でも、訊かないままでは、心の奥の違和感が消えない。姫川は手元の資料を机に置き、深く息をつく。指先で煙草を持ち上げ、火を点ける。

 煙を含んだ沈黙の中で、姫川の考えは前にも後ろにも進めない。


 あの背中。拳を握った一瞬。解いた後の静けさ。 そして沈黙の重さ。


 ──あれは、何だったんだろう。


 気付けば、姫川は電話を取り出していた。画面に佐伯の名前が表示され、呼び出し音が鳴る。 返事はすぐに返ってきた。声はいつも通り、穏やかで落ち着いている。


「……もしもし」


 言葉が、自然に出る。だが、問いかける内容をまだ整理できていない。 姫川は一度深呼吸をした。 「……あの、さっきの件、訊いてもいいですか」


 沈黙。呼吸の向こう側で、佐伯は何も言わない。 決して「どうぞ」とは言わない。


 それでも、姫川は言葉を続ける。「……拳を握って、そして解いた時……あれ、何だったんですか」


 少し間があった。画面の向こうで佐伯は、唯黙っている。声に出さず、眉ひとつ動かさず、じっとしている。 それだけで、姫川は答えの輪郭を感じ取った。


 ──答えは、言葉じゃない。「……そうですか」姫川は小さく呟く。


 言葉に出さなくても、分かるものがある。

 佐伯が言わない事で、守ろうとしているものがある。それに触れる事で、関係は壊れるかもしれない。でも、訊かなければ、姫川の心はずっと重いままだ。


 電話を切る。深く息を吐き、煙草を消す。視線を机の上に戻すと、完成した本の表紙が目に入る。佐伯の線。あの一筆一筆が、静かにそこにある。


 ──あの人の線は、やっぱり答えをくれない。


 だが、姫川自身の手で一歩を踏み出した。

 踏み込む事も、踏み込まない事も、自分で決めるしかない。そして、胸の奥には小さなざわめきが残る。


 訊いた事で生まれた微かな違和感。

 それは後悔なのか、安堵なのか、自分でもまだ整理がつかない。少し前までは、唯距離を保っていればいいと思っていた。


 でも、訊いた今、その境界線が少し揺らいだ。


 ──…触れてしまった。


 答えを聞いた事で、関係は少し変わったかもしれない。それでも、静かな時間の中で、佐伯の線は変わらずそこにある。

 変わらないものを前に、揺れた心をそっと落ち着ける。胸のざわめきは、まだ小さく、でも確かにそこにある。

 夜の静けさに、姫川の小さな決意と、答えを得た事で芽生えた戸惑いが重なる。

 どちらも、彼の胸の片隅に、静かに残った。




 ■


 翌日、事務所で完成した本を手にした姫川は、そっと佐伯の元へ向かった。

 表紙の仕上がりは、もちろん佐伯の線を前提にしている。けれど、昨日訊いた事の余波が、まだ胸の奥に残っている。


「完成しました」姫川は本を差し出す。


 佐伯は受け取り、じっと見つめる。 言葉はない。言葉にする必要もない。

 静かな間。沈黙が二人の間に流れる。姫川の手は自然に机に置かれ、視線は伏せられる。佐伯もまた、本を軽く抱えたまま、動かずにいる。


 ──この沈黙が、答えだ。


 佐伯はいつも通りの顔。でも、昨日の件を経て、何か微妙な距離感が変わったのを姫川は感じていた。

 少し前よりも、心の境界線が曖昧になったような、そんな感覚。


「……ありがとうございます」声は、いつもより少しだけ低く、ぎこちなく出てしまった。


 言葉の重みを、そのまま口にするのは、まだ慣れない。 佐伯は小さく頷くだけ。

 どちらも、余計な言葉は足さない。沈黙の中に、昨日の問いかけの重みと、それに対する答えがある。


 姫川は深く息を吐く。訊く事で、確かに何かが動いた。だが、壊れたわけではない。唯、二人の距離が少しだけ変わった事を、胸の奥で感じる。

 佐伯は本を机に置き、筆を手に取る。紙の上で線を引く。変わらず、迷いなく、静かに。


 でも、姫川の目には、昨日の影がわずかに残ったその線が映る。答えは言葉ではなく、やはり線の中にあるのだ。

 姫川は微かに笑みを浮かべる。 訊いた事で、答えが得られたわけではない。でも、踏み込む勇気を持った自分を、少し誇らしく思った。

 その日、事務所を出ると、夜の街に小さな風が吹いていた。胸の奥で、ざわめきはまだ小さく残る。 だが、静かに、確かに、自分達の距離を知った夜でもあった。


 ──いつか、また訊く事があるかもしれない。


 ──その時は、今日とは違う答えが返ってくるのかもしれない。


 そう思いながら、姫川は夜の街を歩き出す。沈黙の距離を抱えながらも、どこか安心している自分に

 気付きながら。




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