踏み込まない理由
打ち合わせ用の資料を画面に並べながら、姫川は何度も同じ行を読み返していた。内容は頭に入っている。デザインも、修正点も、すでに整理できている。それでも、視線だけが上滑りする。
……違う
仕事に集中できない理由は、分かっていた。分かっているから、無理に考えないようにしている。
画面には、全く別の仕事のラフが並んでいた。新しい本の表紙。まだ方向性も定まらず、仮の文字と仮の色だけが置かれている。
線の配置、余白、文字の重さ。何度も組み直している筈なのに、しっくりこない。理由は分かっていた。 頭のどこかで、無意識に“基準”を探している。
佐伯の書──。
あの線を前提にするつもりはない。
比べる必要もない。それでも、あの簡潔さ、説明を拒む強さが、思考の奥に残っている。
──影響、受けすぎだろ
自嘲気味に思いながら、姫川は余白を一つ消す。説明を足す代わりに、削る。意味を乗せる代わりに、黙らせる。 それが正解かどうかは分からない。 唯、手がそう動いてしまう。
頭の奥に、別の映像が割り込んできた。
夕方の街。 少し離れた場所から見た、佐伯の背中。声を荒げた事ではない。 相手を睨みつけた事でもない。拳を握り、そして、解いた、その一瞬。
──…どうして、あれが引っかかるんだろう
怖かったわけじゃない。 寧ろ逆だ。
踏みとどまった事が、 妙に強く、心に残っている。 姫川は椅子に深く腰をかけ、天井を見上げた。 ため息は出ない。 代わりに、思考だけが静かに回り始める。
あれは、訊いていい事だったのか。それとも、見なかった事にするべきものだったのか。
そもそも──自分は、どの立場でそれを訊くつもりなのか。 仕事仲間。デザイナーと書道家。それ以上でも、それ以下でもない関係。
……本当に?
喫煙室で並んだ時間が、脳裏を過る。
言葉は少なかった。けれど、沈黙は重くなかった。距離を取ろうと思えば取れた。それでも、取らなかった。
──……踏み込まない、ってそれは、優しさだと思っていた。
相手の領域を尊重する、という選択。けれど、それはただの逃げじゃないのか、とも思う。
姫川は机の上の煙草を見つめ、一本取り出す。 火を点け、ゆっくりと吸い込む。 煙が肺に落ちる間、 同じ問いが、形を変えずに残る。
踏み込んで、何かが壊れたら。訊いて、距離が変わったら。
——それでも、何も訊かずに、このまま隣にいる事だけを選び続けるのは、本当に“何も起きない”事なんだろうか。
煙を吐き出す。視線を落とすと、画面の中の余白が目に入った。 余白は、便利だ。何も書かなくていい。でも、そこには確かに“書かれていないもの”がある。
姫川は、ふと苦笑する。
──結局、気付いてるんだな…
何に、とははっきり言えない。けれど、気付いてしまった感覚だけが、胸に残る。
それでも、今日は訊かない。今日も踏み込まない。そう決めて、資料を閉じた。
だが、頭の片隅で、もう一つの未来が、静かに輪郭を持ち始めている。
——いつか、気付けば。 気を付けていた筈なのに。
その時、自分は、あの件について、訊いてしまうのだろう。理由も、覚悟も、言葉も揃わないまま。
踏み込まないと決めた、その境界線が、 少しずつ、曖昧になっている事だけは、 もう否定できなかった。




