残る影
仕事場に戻ると、佐伯は窓を少しだけ開けた。
夕方の空気が入り込み、室内に溜まっていた煙草の匂いを、僅かばかりに薄める。完全には消えない。それでいい、と佐伯は思った。
机の上には半紙と硯、使いかけの筆。いつもの配置、いつもの距離。変わらない筈の光景なのに、どこか視線が落ち着かない。
佐伯は煙草を一本取り出し、火を点けた。
喫煙室で姫川と並んだ時の沈黙が、不意に脳裏を過る。
言葉は殆どなかった。
だが、何も話さなかった事が、妙に印象に残っている。煙を吐き出しながら、半紙に向き直る。筆を取る。墨を含ませる。
——線は、問題なく出る。
迷いはない。手も震えない。それでも、どこかで集中しきれていない自分に気付く。
理由を探す程でもない。最近は、こういう事が増えた。左手首に走る、刺青の感触を無意識に確かめる。
先日の出来事が、ふいに胸の奥をかすめる。拳を握った感覚。解いた時の、あの一瞬の静けさ。誰にも見られていない筈だった。
そう、思っていた──。
「……余計な事考えるな」 小さく呟き、佐伯は筆を走らせる。
線は、無理なく紙の上に収まっていく。いつも通りだが、心のどこかで、“見られていたかもしれない”という感覚が、消えずに残っていた。
■
一方、姫川は帰り道を歩きながら、何度も同じ光景を思い返していた。夕暮れの喫煙室。煙の向こうにいた佐伯の横顔。何も語らない、その沈黙。
そして──先日、遠くから見てしまった、あの背中。
声を荒げた事ではない。睨んだ事でもない。
拳を握り、そして解いた、その一連の動き。
……あれ、何だったんだろう
考えても答えは出ない。訊かなかった。訊けなかった。訊いていいのか、解らなかった。
姫川は立ち止まり、ポケットから煙草を取り出す。火を点け、深く吸い込む。 煙が肺に落ちていく間、頭の中で同じ思考が、何度も回る。
踏み込んでいいのか。それとも、触れない方がいいのか。今の関係は、壊れやすい。けれど、最初から“触れない”事で成り立ってきた関係でもある。
……仕事だけ、って顔じゃなかった。そう思ってしまった自分に、姫川は小さく苦笑した。
期待ではない。確信でもない。
唯、無視できない違和感。煙を吐き出し、歩き出す。今日は答えを出さない。出せない。けれど、その問いは、確かに胸の中に根を張り始めていた。
■
その夜、佐伯は珍しく、酒を控えめにした。
理由はない。 唯、深く酔う気分ではなかった。机の上には、今日書いた数枚の半紙。線は安定している。
だが、どれもどこか、少しだけ“余白が広い”。
佐伯はそれをじっと見つめ、ため息ともつかない息を吐いた。
「……面倒だな」
誰に向けた言葉でもない。自分に言ったのだろう。それでも、 喫煙室で並んだ姫川の存在が、静かに、確かに、頭の片隅に残っていた。
答えは出ない。言葉にもならない。
だが、このまま何もなかったことには—— もう、できない気がしていた。
線は今日も、静かに場に残っている。
その余白の間に、名前のない感情が、少しずつ混ざり始めていた。




