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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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偶然の煙

 夕暮れの街は、淡いオレンジ色に染まり、いつもの喧騒も少し柔らかく聞こえる。打ち合わせを終えた姫川は、頭の中で今日の内容を整理しながら、ふと思い立った。

 少し煙草を吸い、気持ちを落ち着けよう。


 スーパーの脇にある小さな喫煙室へ足を向ける。ドアを押し開けると室内は薄暗く、煙草の香りが柔らかく漂っていた。

 先にいたのは佐伯で、灰皿に吸い終えた煙草を押し付け、火を消している所だった。姫川は思わず目を止める。


 佐伯はポケットから煙草の箱を取り出し、新たな一本に火を点ける。赤い炎が揺れ、煙が空間を柔らかく包む。

 その一連の動作を、姫川は無意識に目で追った。


「姫川か?」


 低く響く声に、姫川は肩を小さく跳ねさせる。驚きと同時に、どこか胸の奥がざわつく。


「……佐伯さん」

 声は自然に出た。打ち合わせの疲れが少し和らぐ気配もある。


 佐伯は無言で煙草を吸い、ゆっくりと吐き出す。煙が二人の間をゆらりと漂う。

 姫川もポケットから煙草を取り出し、火を点ける。赤い炎が揺れる。二人は言葉少なに、煙を空気に溶かすようにゆっくりと吸い込む。


「ここで会うとは思わなかったな」

 佐伯が、漸く口を開く。


「ええ、ちょうど頭を整理しようかと思って……」

 姫川は笑みを浮かべる。声に少しだけ緊張が混じる。


 二人の間に静かな沈黙が落ちる。煙草の煙がゆっくりと上に昇り、薄暗い空間に漂う。

 姫川は意識せず、佐伯の横顔を見つめる。左手首の刺青が、光に微かに反射している。


 姫川は軽く肩を落とし、今日の打ち合わせの内容を思い返す。完成した表紙デザインのイメージ、文字組のバランス、紙質の感触。すでに佐伯の手に渡った原稿は、あとは形になるのを待つだけだった。

 だが、この場でこうして顔を合わせると、どうしても胸の奥に小さなざわめきが生まれる。


 佐伯は無言のまま、煙草を軽く傾け、ゆっくりと灰皿に火の点いた先端を押し付ける。その動作の一つひとつが、静かで、しかし確かな存在感を持っている。

 姫川は自然に息を整え、煙を吸い込む。


「……最近は、落ち着いたか?」


 佐伯の声は低く、問いかけるでもなく、確認するでもなく。姫川は一瞬戸惑い、そして肩を軽くすくめるだけだった。


「……まあ、なんとか」

 答えは淡く、言葉以上のものは含めない。


 二人の間の沈黙は長く、しかし不快ではない。煙が漂う空気の中で、互いの存在を確かめるように、呼吸を合わせる。


 佐伯の横顔を見つめるうちに、姫川はふと、拳を握るでもなく、感情を露わにするでもなく、唯淡々と煙草を吸う佐伯の姿に、どこか懐かしさと安定感を覚えた。

 ここに居るだけで、少し肩の力が抜ける。


 姫川は無意識に、佐伯の呼吸のリズムを自分のものに合わせる。ゆっくりと、静かに。煙草の香りが互いを包み込み、言葉は必要ない。


 ふと、佐伯が視線を横にやり、姫川の顔をちらりと見る。言葉はない。唯、目だけで何かを確認するような短い瞬間。

 姫川はすぐに目を逸らし、又煙を吸い込む。


 外の夕暮れの光がガラスを通して柔らかく差し込み、二人の影を床に落とす。

 室内は薄暗いまま、だがその沈黙が、何よりも強い存在感を放つ。


 姫川は煙草の火を小さく揺らしながら、ふと思う。過去も、打ち合わせも、すべてここでは関係ない。唯この瞬間だけがある。


 佐伯も、同じように静かに煙を吸い、吐き出す。灰皿に押し付ける先端の音だけが、微かに響く。

 姫川は煙を吐き、肩の力を抜く。言葉は不要だ。互いの存在を感じるだけで、十分だった。


 数分が過ぎ、煙が少し薄くなる頃、姫川は軽く息をつき、煙草を消す。佐伯も同じく火を消し、ポケットに戻す。

 二人の動作は互いにぶつかることなく、静かに調和していた。


 姫川は最後に小さく視線を佐伯に向け、言葉を発さず、唯その場を離れる。

 外の街の光に足を向けながら、胸の奥に残った小さなざらつきを、言葉にせずに抱えて。


 佐伯はその場に残り、次の煙草に火を点ける事もなく、唯灰皿を見つめる。

 言葉はなくても、互いの存在は確かにそこにあった。




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