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墨が乾くまで  作者: 男鹿七海
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僅かに出た過去

 街中を歩いていた佐伯の前に、突然見覚えのある顔が現れた。


「あれ、お前もしかして佐伯?」


「あ?」

 低く返した声に、三人の動きが一瞬止まる。


「やっぱこないだの佐伯じゃん」


「いやさ、こないだ、何処だったかなぁ、お前が似つ食わねぇとこ入ってくの見掛けてよ」


「書道とか、何とか書いてなかったか?」


「あぁそうだ!それそれ」


「ハハ、お前何、書道とか興味あんの?」


「くっそ似合わねぇ!」


 その瞬間、佐伯の足が無意識に一歩、前へ出ていた。

「っるせぇな」

 声は荒れていたが、大きくはない。それでも、空気が一気に硬くなる。「人の趣味趣向、仕事にとやかく云われる筋合いねぇんだよ」


 反射的に、拳に力が入る。振るえば、終わる。

 そんな距離だった。

 だが、次の瞬間、佐伯はそれに気付いた。


 ──違う。


 ゆっくりと、拳を解く。


「……あー、悪い。冗談だって」

 周囲の視線が刺さる中、三人はそそくさと退いていった。

 まるで、何事もなかったかのように。


 その一連の光景を、道路を挟んだ先で、姫川は見てしまっていた。




 ■


 遠くからでも、判った。

 佐伯の背中が、ほんの一瞬だけ、違う形をしていた。

 声を荒げた事ではない。相手を睨んだ事でもない。

 拳を握り、そして――解いた、その動き。


 姫川は、無意識に足を止めていた。胸の奥が、きゅっと縮む。怖い、とは少し違う。驚き、とも違う。


 ──…ああ、この人


 自分の知らない時間を、確かに生きてきたのだと、初めて実感しただけだった。


 三人が去った後、佐伯は何事もなかったように歩き出す。

 背中は、もう普段と変わらない。

 姫川は声をかけなかった。近付きもしなかった。


 唯、その場に立ち尽くし、胸の奥に残った小さなざらつきを、言葉にしないまま受け取る。

 知らなかった過去。触れなかった時間。


 それでも――拳を振るわなかった事だけが、妙に強く、心に残っていた。



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