余白
————————走る走る走る走る。
何故走っているのだろう。十七歳の誕生日。こんな時間に。ルールを破って。
これはいけないことだ。わかってる。
これはありえないことだ。わかってる。
それでも走らずにはいられなかった。
走らなければ私を保てなかった。
————————走る走る走る走る。
心臓がダンダンと拍動する。
空気を求める。が、その通り路は細すぎた。
肺は酸素と二酸化炭素で大渋滞。往路も復路も停滞中。交通整備が追いついていない。
全身の細胞から酸素を寄越せとクレームが届く。プルルルルル。
全ての臓器が走るのをやめろと訴える。カンカンカンカン。
脳みそが今すぐ停止するように命令を下す。ピーポーピーポー。
…………うるさいなぁ。私が上で、身体が下でしょ。ご主人様に指図しないで。
————————走る走る走る走る。
筋肉が収縮して、弛緩する。
バネのように伸びやかに。羽のように軽やかに。
汗腺から汗が噴き出す。
そんなもので私の熱は醒ませない。
加速する。加速する。
私が勝手に進んでいく。
周りの風景が溶け出して、私は全てを置き去りにした。
家族も、他人も。
過去も、未来も。
記憶も、感情も。
自分自身さえ置き去りにして、ただ走る。
全てが白に染まっていく。
アレ? 私はなんで走っているんだろう。
それは、きっと————
◇
県立鳥淡高等学校。二年一組。窓側から二列目、後ろから二番目の席に男子生徒が座っていた。百六十八センチとやや小柄な背丈。細身の体躯は学校指定のカッターシャツと学生用蘭服のズボンに包まれている。女子を思わせるようなさらりとした黒色の髪が睫毛にまでかかっており、あどけなさの残る容貌を隠している。全体的に大人しい雰囲気。後輩や同級生からよりも上級生に人気が出るタイプだろう。
そんな彼、可児想太は顔を顰めていた。手に持った成績通知書を忌々しげに睨みつける。
その紙に書かれた数字は、良いとは言えないまでも酷くはない。赤点はかろうじて回避している。しかし、と彼は母親の早苗と交わしたスマホ没収の条件を思い出した。あの夜、早苗は悪い点数を取ったらスマホを没収だと確かに言った。赤点を取ったら、とは言っておらず、明確な数字も決めていなかった。つまり母親の裁量次第でどうとでもなってしまう状況だった。
———まったく、分が悪いにも程がある。
文句を心の中に押し留め、本日の早苗がご機嫌である事を祈りながら、彼は本日何度目かの盛大な溜息を吐いた。
「おう、可児くん。ため息なんて吐いちゃってどうした? 成績ヤバ目? それとも女に振られた?」
右斜め前に座っている竹中が話しかけてくる。その顔は仄かにニヤついていた。夏の日差しにやられて平時よりもいっそう焦げている肌に白い歯が浮かぶ。人の不幸をちゃんと楽しめる性格のようだ。
コイツは充実した人生を送れるだろうなと想太は苦笑した。
「んー? どっちもー」
軽い口調で答える。竹中の表情がニヤけ顔から驚きの色へと変わる。
「え、マジ? 告ったん? 誰に?」
少し慌てたように発された言葉に想太は軽く笑いながら返した。
「ふふ、冗談だよ。ジョーダン。母親にどうやって言い訳するか悩んでただけ」
「ジョーダン……。あ、ああ冗句ね。はーびっくりした。可児くんもそんな冗句言うんだな」
「そりゃあね。本音だけじゃこんな冗談みたいな世の中生きていけないって」
あっはっは、と竹中は大笑いした。
「違いねえ。けどそういうのは言わない方がいいよ。普通にダサい。モテないぜ」
◇
部活も終わり、校舎入り口にて上履きからスニーカーへ履き替えようと下駄箱を覗いた時、想太は一通の手紙に気がついた。飾りっ気のない真白な洋型二号封筒。ラブレターやバースデーカードによくイメージされる封筒で、想太にもその印象が強かった。その為、見つけた瞬間に固まってしまった。頭が白くなり、脈が乱れる。もちろん彼の誕生日は今日ではない。
想太はおそるおそる封筒を手に取った。封筒の表裏には何も書かれていない。
彼には思い当たる節がなかった。告白されるような関係の女子なぞいやしなかった。しかし、健全な男子学生である彼は謎の高揚感に胸を弾ませながら封筒を開けて手紙を取り出す。
『可児くんへ
ご都合が宜しければ本日、二十三時ちょうどにいたりあへ来て下さい。強制ではありません。
返信不要』
「……」
清楚な字で書かれた手紙。
差出人は不明。いや———
「差出人は……ん、なんだこれ? 修正テープ?」
差出人の名前は修正テープで見事に消されていた。が、こんなものは如何とでもできる。名前を知られたくないのかすら、よくわからない手紙だった。
「てか、剥がさなくてもちょっと透けてるし」
修正テープは剥がさずに大切に鞄へと仕舞う。
「いたりあ、ねぇ。ふーん。……差出人は隠されてるし、ラブレターかもしれないし。行かないってのは勿体無いよな。だから、ごめんね誠司さん」
その顔は嬉しそうに。
今から飛行機のチケット取れるかなあ、なんて下らない事を呟きながら。
◇
一条真は廃墟の階段をゆっくりと上っていた。今まではランニング用のスポーツウェアにポニーテールの動き易い格好で訪れていた場所であったが、今宵だけは趣が違っていた。髪の毛は纏めずに自然に下ろしている。ネイビー色の半袖ワンピースにはエスニック風の柄が施されている。足元もランニングシューズではなく底の薄いベージュ色のスニーカーであった。
真は足元に注意しながらも、気はそぞろだった。
父親から事のあらましは聞いていた。だから、手紙では自分の名前を隠そうとした。自分の名前が書いてあったらきっと彼は来ないだろうから。それでも、あれが最大限の譲歩だった。手紙に差出人の名前を書かないと言うのは一条真として耐え難いものであった。
彼は来てくれるだろうか。
そもそも何故自分は彼に手紙を出したのだろうか。
「だって、勝手に心を覗いてしまった。私のも見せないと公平じゃない、から。あとは———」
謝りたかった。父親に深夜徘徊を追求された際に名前を出してしまった事を。
理由はそれだけだと一条真は思っていた。本心でそう思っていた。
けれど、もっと単純で至極当然の感情を見落としていた。
彼女はただ怖かったのだ。一人だけで自分の負の側面に相対するのが。
欲しかったのだ。共犯者が。自分の非行を見届けてくれる人が。
そんな十七歳の少女が抱く当然の感情に彼女は気づいていなかった。
階段を上り切る。閑散とした遊技場。熱狂も歓声も今はなく、獣のぬるい吐息だけが漏れている。
真は吸い寄せられるように景品交換カウンターで眠る黒い獣の元へと歩を進めた。生きているかのようにゆっくり膨張と収縮を繰り返す寝姿を観察する。彼はこの生物を狸だと形容した。しかし、真にはどうにも黒い犬に見えた。
同じモノを見ているのに違うモノに見えるのは相性が悪いのだろうか、と真は少し気になった。
もう一度、黒い獣を眺めてみる。
「……うん。やっぱりワンちゃんだ」
次、彼に会ったら犬にしか見えないと伝えてみよう。
真は意を決して挨拶をする。
「こんばんは。不思議なワンちゃん」
◇
覚は微睡んでいた。
廃墟となったパチンコ店のカウンターの上がソレのお気に入りだった。
とある少年はソレは覚だろうと言った。当たらずとも遠からず。数ある名前の中のうちの一つが覚であった。ソレは時代、地域によって多様な呼称がされてきたが、此度は覚と相なったようである。少年は当初、覚が他人の本音を映していると錯覚していたようだった。いや確かにそのような事も可能なのかもしれない。しかし、その能力を有していたとして、どうしてそんな面倒なことをするだろうか。わざわざ遠くまで覗きに行かなくても、目の前にはルールを破って夜遊びをする悪い子がやってくるというのに。
「こんばんは。不思議なワンちゃん」
耳がぴくりと反応する。
覚が顔を上げると、そこには少女がいた。
少女の揺れている瞳が覚を見つめていた。
久しぶりの契約者だった。最近はずっとあの青年も来ていない事を覚は思い出した。
青年はあまり面白味がなかったが、別段悪くもなかった。強がって表に見せることこそ少ないが、確かに嫌悪を抱いてくれる。一度、不愉快な青い光を浴びせられた時には鬱陶しさを覚えもしたが、それ以上に歓喜に震えた。あの表情は素晴らしかった。
———アァ、モウイチド、タベタイナ
同時に嫌な記憶も蘇った。
最後に青年が現れたあの夜は最悪だ。人間を嫌悪させる事が存在意義だというのに、あろうことか青年は唾棄すべき言葉を口にした。
不愉快極まりなかった。
自分が小さくなるのを感じた。
しかし、と覚は嗤う。
少女の深い瞳を捉える。彼女の奥深くを覗き込む。
うふふ。今宵の獲物は最高だ。コレはいけない。コレは拭えない。コレは抗えない。
人間とは斯くも悍ましく、潔癖なのかと。
自己嫌悪での自家中毒。自分自身を吐瀉物の如く扱うなんて、普通であれば覗くこちらまで吐き気を催す。されど残念。この身は常ならざるケモノ。嘔吐中枢なぞありえない。
そうして覚は愁眉を開いて眠りについた。無邪気に歪む口元を隠そうともせず。その姿は悪戯を楽しむ子供のようであった。
覚の額は不気味な青白い光を放っている。
◇
想太は足音を殺して部屋を抜け出していた。
つま先から踏んで階段を下りる。
早苗の喋り声がリビングから想太の耳へと聞こえてくる。
どきり、としながら足を前に出す。極限までの穏やかな足取り。筋肉の収縮、血液の循環、心臓の拍動、骨の軋み、関節腔内の気泡。全てから音を消し去ることに努めた。想太は必死であった。必死で音を殺し続けた。
想太がここまで怯えている理由は数時間前にあった。帰宅して早々、早苗から成績通知書を見せるように求められた想太は心の中で自身のスマートフォンに別れを告げた。しかし、不可解な事に成績通知書を確認した早苗から出た答えは『保留』。
想太は万感胸に迫る思いだった、がすぐに気づいた。早苗の眉間の皺がかつてない程に深くなっている事を。
すぐに理解した。あと一つ、ほんの少しのきっかけでコレは爆発する、と。
今の早苗はまさしく静電気を溜めている雷雲だ。些細な出来事で厚く暗い雲を切り裂いて雷獣が姿を現してしまう。想太にとっては覚なんかよりよっぽど恐ろしい化け物である。
恐怖にすくむ足を奮い立たせる。ゆっくりと時間をかけて、やっとの思いで玄関まで辿り着き、上がり框を靴下のまま降りる。靴はまだ履かず、左手に取った。目の前には重く黒い扉。最後の関門。ドアノブだけがギラリと鈍く光っている。それを右手で掴むと、手汗が吹き出していることに気づいた。汗で滑らないようにしっかりと握りしめ、回す。
微かな音が鳴る。つられて拍動が強くなる。
———やめろ。聞こえてしまう。
抑えようと思えば思うほどに心臓は反発する。自分の体の筈なのに思ったように動かせない。不随意運動とはそういうものだ。人間には自動運転の部分がどうしようもなく存在する。
雷霆のような笑い声が聞こえた。冷や汗が頬を伝う。
———大丈夫だ。こちらに気づいたわけじゃない。電話しているだけだ。
想太は自分に言い聞かせながら外へと這い出した。
開け放った扉を丁寧に閉め、靴を履くと、自転車に飛び乗って思い切りペダルを漕いだ。振り返ることはしない。そんな余裕も猶予もありはしない。
夜風が体に当たって熱を奪っていく。冷や汗をかいている想太には少しだけ寒く感じられた。
後ろにはそんな息子の様子をリビングの窓から見つめる母親の姿があった。
◇
「でもなー。逃げるみたいに漕いでいたけど、部屋を見られたらオシマイだよなー」
先程の緊張感はどこ吹く風。想太はペダルを漕ぐ足を緩めながら呟いた。
手紙には二十三時ちょうどに来いと書かれていた。今のペースでは早く着きすぎてしまう。できる限り正体不明の差出人の意向に沿うように行動する事を心掛けた。
「んー。コンビニでも寄るか。三つ子の魂百までって言うのかな。よっと!」
意味もなく、よくわからない諺を発した。
彼の目の前に現れた傾斜の緩やかな坂を立ち漕ぎで登っていく。気温と湿度も相まって冷や汗はとうの昔に温熱性の発汗に変わっていた。
「とうちゃーく」
息を吐きながら坂の頂に立つ。続く下り坂。ペダルを漕がずに車輪が回る。速度がどんどん増していき、想太の火照った体を冷ましていく。
夏に長い下り坂を自転車で駆ける。脳内でとあるミュージシャンの曲がリフレインする。爽やかで口ずさみたくなるメロディーライン。
「ていっても自転車の後ろに乗せる相手なんていないんですけど!」
あいにく一人乗りの自転車はブレーキなんて握る必要がなかった。重力にその身を任せて、風を切って下っていく。
まるで自転車を覚えたての子供のように。補助輪を外して。親の手も借りなくなって。転ぶことも多かったけれど、それさえも楽しくて、風を浴びることだけを感じていたあの頃のように。
風が想太の鬱陶しく伸びた前髪を攫っていく。見事なオールバックとなっている。
その顔はとても気持ちよさそうで、彼は子供のように笑っていた。
「うわぁ。ボサボサ」
その数分後にコンビニの洗面所で髪の毛をチェックする一人の高校生。
想太は調子に乗ってスピードを出しすぎた事を後悔しながら指で前髪を梳く。右に左に、と顔を動かして鏡と睨めっこし、あらかた元通りになった髪の毛を確認するとスナック菓子コーナーへ向かった。
色とりどり、多種多様。ジャンクでケミカルなスナック菓子たちが所狭しと並んでいる。自然界ではカラフルなモノほど毒があると言うが、それは人工物でも変わらないらしい。
ふと、いつもと違う包装の菓子に気づいた。
「ポテトチップス、期間限定……初恋スイカ味。なるほどな。めっちゃ不味そうだ———」
◇
コツン。コツン。
音がする。ゆっくりと階段を上る音がする。幽霊はまだ出てきていない。
真は少しだけ緊張していた。
———いつもは待っててもらう側だったっけ。
少しずつ階下からシルエットが顔をだす。黒い半袖シャツにグレーのスウェット。男子高校生にしては細身の体躯。柔らかそうな黒い髪。中性的な顔立ち。一年生の時の文化祭では女子達の間で密かに彼の女装案が出ていたな、と真は思い出した。
「あの時は反対したけど、ちょっと見てみたいかも」
真の呟きに想太が反応した。
「えっ? なに?」
「ううん。なんでもない。……こんばんは、可児くん」
想太は少しだけ間をおいて返した。
「……うん。こんばんは、一条さん」
想太がいつもの席へと座った。真は椅子を彼の真正面へとずらして座り直した。これは彼女なりの意思表示であったが、想太はさして気にした様子もなく、テーブルにランタンが設置された。暖かい光がぼんやりと彼を照らす。黒いシャツの胸には小さなワンポイントの刺繍が入っていた。
そしてコンビニの袋を無造作に置く彼の姿に真は呆れ返った。
「可児くん。またお菓子を買ってきたの? 夕ご飯は?」
「ご飯は食べたって。コレはあくまで夜食。ちょっと気になっちゃったんだからしょうがないだろ」
取り出した菓子はポテトチップスであった。カラフルな包装。期間限定の文字が真の目に留まった。
「期間限定……初恋スイカ味? ってどんな味?」
「いや知らない。だから買ったんだって」
初恋の味がスイカとはまた斬新だな、と真は感心した。今までレモンだとかイチゴだとかは聞いたことがあったがスイカはなかった。だが———。
すぐに意識の外へと追いやった。自分には関係のない事柄だ。ましてやジャンクフードなどという余分しかない物に興味を示すことはあり得なかった。
「それで、手紙をくれたのは一条さん? 差出人が書いてないから果し状かと思ったよ」
「……はい。そうです。名前も明かさず用件だけを伝えたのは、ごめんなさい。ちなみに果し状は決闘罪に問われるからダメだよ。それに応じるのも罪になるからね」
「なんと」
目を丸くする想太がじゃあ、と尋ねる。
「どうして、僕を呼んだん?」
真は言葉に詰まる。喉に引っかかった言葉を飲み下し、理性から言葉を紡ぐ。
「私は可児くんの心の中を覗いてしまった。だから私の心も見せないと不公平じゃない? ただ強制はできないし、あんまり面白い物でもないと思うけど」
「……はぁ。一条さんはさ、不可抗力って言葉を辞書で調べた方がいいよ。どんな物事にだって抗えない事象は存在するだろ。それに一々付き合ってたら体が持たないって」
「認識はしてるよ。でも私はその言葉が嫌い」
真は苛立ちのままに返答した。
「そう? じゃあいいや。付き合うよ」
想太はリュックサックからスケッチブックを引っ張り出した。白い紙の上を気楽そうに鉛筆が走る。真はその姿を真剣に見つめた。
「どしたん?」
「はぇっ!?」
顔を向けられもせず、不意に寄越された質問に間抜けな声を出してしまった。今までの想太はデッサンを始めたら周りが見えないほどに集中している印象だった。真から声を掛けなければずっと線を睨んでいた。
だから予想外の事態に真は吃りながら尋ねた。
「え、ええと。か、可児くんにもう一つ謝りたい事が、あります」
「謝りたい事?」
想太が鉛筆を口元に当てて考え込む。
———可児くんの癖なのかな?
なんとなしに真は思った。
「……お父さんに、深夜出歩いていた事を咎められた時に、可児くんの名前を出してしまった」
「どうして?」
「え?」
想太はやはり飄々(ひょうひょう)と訊いてくる。
「謝る必要なくない? 悪い事をしたのは僕も同じだ。罪を認めるってのが正しいんじゃないの? 委員長」
「そ、それは……そうだけど。でも、なんだか嫌だと思ってしまった。わからないけど、罪悪感、みたいのが胸に残っていて……」
言葉を濁してしまう。
確かに想太の意見が正しいと真は思った。深夜帯に未成年が特別な事情なく外出する行為はルールに反している。青少年の健全育成を図るための規則がそれぞれの自治体で定められている。自分たちはそれを破ってしまっていた。偶然ではなく、故意に。咎められるべき行いだった。すぐに全てを認め、真実を話す事が最も正しい選択だとわかっていたのに。何故、それを受け入れたくなかったのだろうか。
きっとオカシクなっているのだ。十七歳の誕生日から。あの日、非行に走ったその瞬間から。バグを起こしているのだ。直さなければならない。今日ここで直さなければ走れなくなる。
一条真は敵を見るように可児想太を睨め付けた。
「そうだった。可児くんの言う通りだ。これは謝るような行為じゃなかった。だから、気にしないで」
「……うん。オッケー」
真が自問自答している間にも描き続けていたようだった。鉛筆の音が耳に響いている。二週間も経っていないのにその音色をひどく懐かしく感じた。心地の良いリズムで軽快に描いていることがわかった。それに聞き惚れていた。
音が止む。
空気が凪いだ。
「……できた。けど」
小さな呟きが凪の宙へと浮かんで消えた。
「ほんと、へったくそだなぁ」
———いい笑顔だな。
さっきまで敵を見るような視線を送っていた真は素直にそう思った。
◇
アタリをつける。ハズレもおまけでつけてやる。だってここはパチ屋だぜ。ハズレなんて有り余ってる。
輪郭を描く。黒いんだから暗闇に紛れて輪郭なんて判りゃしない。
陰影をつける。陰気なヤツに陰をつけるのは可哀想。そういえば妖怪に影ってできるのかな? 光は嫌いそうだし影もきっと嫌いだろう。
調子をつける。アイツはいつも絶不調。
好きに描く。……ああ、それだ。そうしよう。そんなのも偶にはいいだろう。
「……できた。けど」
想太の目の前には雑で乱暴な落書きが描かれていた。黒くて太々しくて、何処となく不思議な雰囲気を孕んだ狸。
「ほんと、へったくそだなぁ」
想太は自嘲するように笑った、つもりだった。
「でも描けたみたいだ」
つい零れてしまった。
「描けたの?」
真が興味ありげに尋ねた。
「まあね」
想太は隠すようにスケッチブックを閉じて、リュックに仕舞う。
真は何も言わなかったが、その顔には確かに不満の色が浮かんでいた。
そんな無言の訴えに気づかないフリをしてポテトチップスの袋を開ける。微かに甘い匂いが嗅覚を刺激する。逡巡した後、想太は一枚を手に取り自身の口へと放り込んだ。
「はは、なんだこりゃ。すっごく不味い」
口の中でものの見事に味蕾細胞と喧嘩している。戦況は劣勢。味蕾細胞が次々と倒される。
そんな風に期間限定を噛み締める。
その手がもう一度袋へと伸ばされることはなかった。
目の前の清く正しく座っている少女に顔を向ける。視線が絡み合う。
「食べる?」
「ううん。いらない。……食べない事にしているって以前に伝えたよね」
棘のある返答だった。珍しいなと想太は思った。
視線を下に落とす。今までとは違ってネイビー色のワンピースを着ている。海外の意匠。よく見かけるその柄の名称が想太にはわからなかった。
そう言えば、と覚に意識を移す。
覚はすでに眠っている。額には不気味な光が浮かんでいる。彼女の心の中を覗いているのだろうか。
青白い光は呼吸しているかのように、ぼんやりと強くなったり弱くなったりを繰り返していた。想太の目には、それが昔に遊んだ携帯ゲームのロード画面のように映った。
なうろーでぃんぐ……。
なうろーでぃんぐ……。
「一条さんってさ、嫌いなモノあるの?」
「……うん。いるよ。とっても嫌いな人が」
「意外だね」
「そうかな? きっと可児くんも納得すると思うけど」
真が立ち上がった。
青白い光が輝きを増して、辺りを呑み込む。この刹那だけは月の光すらも覆い尽くす。自身が闇を支配するのだと宣言するかのように、覚の時間が始まった。
現れる小さな人影。水玉模様のワンピース。
綺麗な姿勢で歩いて、止まる。
流れる黒髪は肩より下まで伸びている。
白い肌は覚が放つ青白い光をきめ細かく反射する。
清廉だが、表情に子供ならではの天真爛漫さがあった。
『そんなの私自身しかいないよね』
目の前には幼さの残る一条真がいた。一条真の、陰がいた。
想太は驚かなかった。そうだろうなと思っていた。過去を聞いてしまったあの夜、痛々しい彼女の顔ばせが脳裏から離れなかった。
この舞台での想太の役回りは傍観者だった。
真が自分自身の陰と対面するのを眺めるだけだ。想太からすることなぞ何もなかった。
陰が愛らしい薄紅の唇を動かす。
『こんばんは。大きな私』
「……」
『あれ? どうしてそんなに怖い顔をしているの? ———ううん、震えているの?』
「……五月蝿い」
『ひどい言い草。私が出てくる事はわかってたんでしょ。ふふ、もう疲れちゃったんだ? 走り続けるのが。でも止まることは許さないよ。私が、じゃなくて私が』
陰は嬉しそうに微笑んで。その口は綺麗な三日月のよう。
『あの事故は奇跡だったね。奇跡だとみんなから言われたね。お母さんから満杯の愛情を貰えて、私の愛情は価値がなかった。だから、私は人生を使って価値を示さなければいけない。あの奇跡と、貰った愛情に足るだけの価値を。傾いたままの天秤なんて不格好だもの。そういうのをさ、義務って呼ぶんだよ』
真は唇を噛んで自分の陰を睨みつけた。隠そうともしない怒りの爆発があった。
「わかってるって! そもそもあなたが———」
『そう。私が我儘を言わなければよかったんだ。私が良い子だったらこんな事にはならなかったんだよ』
陰はケタケタと笑った。
真は口を噤んでしまった。
『だからさ、ほら。真っ直ぐに走らなきゃ。正しく前を向いて。ゴールなんてないけれど、目的地もないけれど、スタートの合図は八年前に鳴っているんだから。じゃあ、後は全力で走るだけでしょ。休憩なんて許されない。転けるなんて論外だ。
……そんなわかりきった話なのに。どうして?』
真は何も言い返さない。ただ俯いて、肩を震わせながら自身の本音を聞いているだけ。
『自分を直しにきた? ふふ、そうだよね。人間って嫌な記憶は忘れる生き物だから。どれだけのトラウマを植え付けられようと記憶が薄れたらどうしようもない。それはきっと生きるための機能でしょう。でも私にとっては最悪な機能だった。フラッシュバックなんて生ぬるい。常に脳裏を焦がし続けなきゃいけない記憶。嘔吐中枢を焼き切って、化学受容器もショートして、セロトニンもドパミンも感じなくなるぐらいに吐き切りたかった。だから、私はこのヘンテコな生き物を利用した。バグを直して、チューニングするために』
「……うん。……そう、だ」
真は力なく肯定した。陰はつまらなそうに溜息を吐いた。
その時、想太は陰と一瞬だけ目が合った気がした。
『……それにしても私に告白してきた男の子たちも災難だったよね。私はもう愛情なんて受け取れないのに。そんなの貰っても速度が落ちるだけだから。
そもそも私のことを優しいとか、誠実だとか、公正だとか言っていたけど見る目がないよ。そんな外面だけに騙されて。私が走る理由なんか知らないくせに。薄皮を一枚剥がしたらドロドロに腐った私が顔を出すんだから。それとも男の子って外面が良ければなんでも良いのかな。ね、可児くん?』
陰が初めて想太へと体を向けた。
「……へ? 僕?」
陰がムスッとした少女らしい表情を見せた。
『そう言ってるでしょ。人の話はちゃんと聞いてないとダメだよ。はぁ、まったく。それで、可児くんは私のことなんか好きじゃないよね?』
ああ。その言は正しい。
可児想太の初恋は誠司との約束に合意しなかった時点で破綻している。そも、彼女のスタートラインを知った時から蠱惑的な異常性は消え去っていたのだ。
それは天然ではなく人為だった。
それは先天的ではなく後天的だった。
それは才能ではなく努力だった。
人は理由がなく理解できない異常にどうしたって惹かれてしまう。少しの異常は出る杭を打たれ、それを超える異常は畏怖される。そして解明されてしまった異常はただの普通へと成り下がる。
詰まるところ可児想太にとって一条真は、もう———
「は? はぁ? ええ、なん、まあ、なんて言うか、別に……好き、ですけど?」
『……』
————イヤイヤ、無理無理! 無理だって。そんな簡単に割り切れるわけないだろ!
心の中で絶叫に近い抗議の声が上がった。
……ああ。陰の言は正しいだろう。しかし、人の気持ちなんて、思春期男子学生の気持ちなんて、正しさだけで測れるモノでもなかったのだ。
想太はすかさず手元のランタンを消す。今、顔を見られるのはマズイという咄嗟の判断からだった。灯りが消える直前の、黄色い暖色照明に浮かぶ彼の頬は見事な朱に染まっていた。
光源を一つ失い、一段と闇が深くなる。
憧れは無くなった。それは確かだ。
……では残ったものは?
同じ高校、同級生、元クラスメイト、委員長、非行仲間。そんな分類だけが残ったのだろうか?
いや、否だ。
残されたもの。残ってしまうもの。そんなのは淡い恋心だけに決まっている。
優しさでも、誠実さでも、公正さでもなくて。
気持ちよさそうに走る彼女の笑顔に想太は惹かれたのだから。
『……何それ? やっぱり話聞いてなかったんだ。私が正しく在ろうとするのはお母さんを殺した負目からだって言っているんだけど?』
陰に問われる。
思案する。その問いについてではなく、もっと別のことを。
今まで自分は傍観者の役を求められていると錯覚していた。
けれど違った。自分に求められていた役割はそんなモノではなかったらしい。
手元のランタンにあかりを灯す。
鬱陶しい前髪の奥、呼応するかの様に、その双眸には爛々とした意志が宿る。
想太は、やはり約束しなくてよかったな、と思った。
何故なら。ここから先は友人として間違いを咎めるのではなくて。———。
一緒に間違いを犯す番だ。
そうして彼は舞台へ上がる。傍観者から共犯者へと。力不足は否めないが、他に役者がいないのでは仕方がない。
想太は尽くすと決めた。
全力は無理だ。
そんな胆力は無いし、それは彼女の専売特許だ。相手の土俵で戦っても勝てはしない。
だから。苦手だが、せめて言葉だけは尽くしてみよう。
そう決めた。
———うん。正しさ溢れる一条さんを偶には言い負かしてやろう。
◇
何を言っているのだろうか。
自分の事を〝 〟だなんて。
彼は自分の過去を知っているのに。走る理由が高尚なモノでもなんでもなく、ただの義務感だとわかっている筈なのに。
俯く真の耳には当事者を放って喋る陰と想太の会話が響いている。
「聞いていたけど?」
『……じゃあ、何でそんな感情を抱くの? 綺麗事に縋って、上辺だけを正しく見せようとして。本来の私はこんなにも我儘なのに』
「感情に理由を求めるなんてロマンチストだね。……別に良いじゃん。上辺だけでも上等だろ。それができない人が何人いるかって話」
———違う。誰だってできるんだ。きっかけに出遭ってしまったら誰だって。
『やっぱり男の子は外面が大事なんだね』
「うぅん、否定はできないかも。でも、一条さんのは外面ってよりも外付け(けっか)って言うんじゃない? 頑張った結果が一条さんを覆う薄い膜ってやつ?」
『……言い方なんてどうでもいい。これが結果だと言うのなら、理由が違っている時点で意味がない。ほら、先生に言われなかった? 途中式がおかしかったら答えが合っていても間違いだよって』
「まあね。そこは先生の温情に甘えて部分点に期待しよう。けどさ、そもそも先生って誰? 君の答えを採点するのは誰なんだよ。もしかして自分自身? 不正し放題だね」
———そうだよ。不正しているんだ。何を答えたって間違いにしてやるんだ。答案用紙の名前を見ただけで零点が決定している。
『……』
「だからさ、理由が違っているからって結果も零点にする必要なんてないだろ。よく聞くじゃん。結果だけが全てじゃないって詭弁。その言葉を鵜呑みにするのなら、理由だけが全てでもないはずだぜ。
そもそも、八年前の何だっけ? 奇跡とか、愛とか? それに相応しい価値を示したいっていう割に自分自身で零点しかつけないなんて、堂々巡りも甚だしい。一歩たりとも進まない。ただの破滅願望じゃん。ランニングマシーンにでも乗ってるの?」
『……』
———ああ、もう!
「うる、さいな! そんな外連味溢れる例え話はいらないわ! 私は走り続けるために、原点を再確認しに来ただけなの」
真は怒声を発した。面をあげて、怒りも嫌悪も隠そうとせずに敵を睨みつける。
想太はそんな視線を澄ました表情で受け止めた。
「うん。それもそうだ。これは一条さんの嫌いな余分ならぬ余聞ってやつ。僕的には嫌いじゃないんだけど、今回は本筋と関係ないからここら辺でやめよっか。それじゃあ、本題。部分点じゃなくて満点を取りにいこう」
「……何を言っているの?」
「だから、さっき理由が違っているって言っただろ? そこを見直すんだよ。復習は基本中の基本だぜ」
「それ、は」
意識が混濁する。目の前に立つ男の子への苛立ちと自身への嫌悪。淡い期待。
想太が真に問う。
「一条さんが頑張る理由って、本当に義務感?」
表情が消え去り、能面のような顔で漠然と男の子を見つめる。
それはキラーワードだった。
今の一条真を殺す言葉。考えないようにしていた言葉。嫌な予感が奔る。その先は、いけない。
「質問を変えると、一条さんのゴールは何処?」
「……そんなモノは存在しません」
「それは変だ。じゃあ、何に対して真っ直ぐに走ってる? ゴールもなく目的地もないのに方向なんてわかるはずないだろ」
「……」
想太は悪戯を思いついた悪ガキのようにニヤリと口の端を吊り上げた。
苛立ちが募る。心がざわざわと騒ぎ出す。平静を装おうとしても暴風が水面を波立たせる。
「誤解を恐れずに言わせてもらうと、ふふ、一条さん。君って」
妙に溜めを作る想太。その意図が読み取れず身構える。
「ファザコンだろ」
———はぁ!?
必死で感情を押し殺していた真にとっても流石に看過できない発言であった。慌てて否定しようと真は声を上げる。
「その誤解は恐れて欲しかったよ! そんなわけ———」
『うん。ファザコンだよ』
先程まで大人しく黙っていた癖に、ニコニコで裏切る陰を真はキッと睨みつけた。
「言質、取れちゃったけど?」
「……知らない。その子が勝手に言っているだけでしょ」
「まあいいけど。一条さんはさ、八年前、病院でお父さんが何故作り笑いを浮かべたか理解している筈だ。だろ? それでも、やっぱりイヤだったんだよ。お父さんから嘘を吐かれたのが。嘘を吐かせてしまったのが」
「そんなの……」
「立ち戻ると、君は七月八日の二十三時に何故こんな場所まで走ってきていたんだろう。人一倍、規律を重んじる性格の一条さんが。しかも、その日は確か一条さんの誕生日だったはずだけど、家を抜け出す事ができちゃったんだ? お父さんは家に居なかった?」
「……お父さんは仕事だった」
「そっか。それはイヤだね。甲斐性がありすぎるのも考えものだ」
イヤだった。嫌だと思ってしまう自分がイヤだった。八年前と同じじゃないか。胸の奥がドロドロとしてきて、頭がぼんやりとして。気づいたら走り出してしまっていた。
去来する想いは何だったのか。真は頭を悩ませる。
「何で、そこで頭を抱えるかな。単純だって。シンプルな話。一条さんはお父さんが大好きで、自分の誕生日より仕事を選んだのがすげぇムカついたってだけだろ。その時に電話でもして罵倒を浴びせてやったら良かったんだよ。それで今度は仕事をほっぽり出させて誕生日を祝ってもらうべきだったの。それぐらいはしてもらわないと。
……あのね。一条さんが我儘を言ったから八年前の事故に巻き込まれたってのは、不可抗力だとしても事実だ。けど、やっぱりさ。そもそもの話———」
一条真の心臓がドクンと跳ねる。
駄目だ。その先は禁句だ。言ってはいけない。言ったら正しく走れなくなる。だって人に、大好きな人に責任を押し付けるのは————
「お父さんが仕事を優先しなければ、って思わない?」
くらり。酷い眩暈がした。真夏の太陽の下にいる気分だ。蝉の鳴く声がする。目の前が陽炎のようにモヤモヤとする。日射病にでもなったのだろうか? ……馬鹿馬鹿しい。今は深夜のはずだ。子供は外に出る事も許されない大人の時間。太陽なんて隠れてしまっている。すると、誰かが麦わら帽子を被せてくれた気がした。安心する。
くらり。この感覚はアレだ。酷い長旅の果て、長時間の乗り物から降りて地面を踏み締めた時にユラユラとするヤツ。陸酔い、下船病とか言うの。自分はまだバスに乗っていたのだろうか。いやそんなわけはない。だってバスはとうの昔に大破している。だから違う。
くらり。真っ白な建物。消毒液の匂い。独特な空間。まるで異世界に迷い込んだような空気感。ベッドから起き上がろうとするとフラフラとした。そこへ毎日顔を合わせる男性が駆け込んでくる。毎日顔を合わせているはずなのに何故だろうか。曇って、表情が見えない。けれど息を切らしているのは分かった。運動が苦手な癖に全力で走ってきたらしい。……病院内は走らないの。ルールは守ろう。
泣くのだろうか。お母さんが死んでしまったのだし。
怒るのだろうか。勝手な行動を取ったからこんな事になったのだし。
そうだ。こっちに責任を寄越してほしい。そうしたら自分も貴方に返そう。酷い言葉で。怒りを込めて。
〝お父さんが仕事に行ったせいだ〟って。
けれど、そんな事にはならなかった。見たくもない作り物の笑顔を見せられた。それはダメだ。その笑顔は嫌いだ。そんな表情なら曇っていた方がよっぽどマシだ。
えっ? もしかして、一生その仮面をつけていくの?
毎日顔を合わせるんだよ?
悲しい時に泣けず、辛い時に叫べず。ずっと笑顔を貼り付けていないといけないなんて、そんなの拷問と変わらない。
壊れてしまう。私ではなく貴方が壊れる。
———それは、イヤだな。……。
違う違う違うチガウ! 全ては私の責任だから。私が背負って、私が価値を示せばいい。私だけが走り続ければいいんだよ。
———あァ、思う。私は、あの時思ってしまったんだ。
責任転嫁。大好きな人が居なくなった責任をもう一人の大好きな人へと押し付ける。なんて醜く、人間らしい防衛機構。
崩れる。崩れていく。均整の取れた合理的なフォームが崩れ去る。
呼吸が乱れる。息ができない。心肺機能が著しく低下する。
腕が振れない。足が重い。顔を上げて前を向けない(貴方に合わせる顔がない)。
減速する。減速する。
苦しい。苦しい。苦しい。苦しい。苦しい、けれど……。
何だか少しだけ楽になった気がした。
「な、んで……?」
「……当然だろ。一人じゃ重すぎる。二人がそれぞれ同じ重みを背負う必要なんてない。同じモノなら二人で背負いなよ。自己犠牲ってのは正しく美しく見えるけど、汚らしく協力すれば犠牲者がでない事もあるんだろう」
誠司さんには自分で伝えなよ、と想太は宣った。その様は見事な教唆犯となっていた。
熱が急速に冷めていく。責任転嫁はいけない事だ。間違っている行為だ。自分はそれをしない為に走り続けた筈だ。
———でも、少し甘えてもいいのかな。
ぼんやりと、一条真は思ってしまった。
縋るように彼女は呟く。
「私の、ゴールって……?」
「ううん」
彼は優しく首を振った。
「ダメだよ、一条さん。それは自分で決めないと。……でも、そうだな。あくまで元クラスメイトの客観的な意見として言わせてもらうと、一条さんは立派な大人になりたかったんじゃないの? 僕には君がお父さんとお母さんの背中を追いかけているようにしか見えなかった。子供が親の背中を目指すことを義務なんて呼ばないと思う」
言葉に続きはない。でも。
それはきっと権利なんだ、と。
真には彼がそう言ったように聞こえた。
◇
幼い少女の陰は退屈のあまり欠伸をしていた。
目の前で繰り広げられる男女の言い争いを眺めながら彼女は呆れ果てる。今夜は自分が主役のはずだった。なのに、幽鬼を認識しておきながら、それを放って痴話喧嘩を始めるなんて仲が良いにも程がある。
陰は振り向いて自身を映し出す覚を見やった。額は変わらず不気味な光を放っている。しかし、その表情は厭らしいしたり顔から一転、うなされている様子であった。不味いものでも咀嚼しているのだろうか。
『ま、夫婦喧嘩は犬も食わぬ、なんて言うしね。可哀想なワンちゃんだ』
そんな折、胸の奥をチクチクとした感覚が襲い、陰は顔を歪めた。
覚はあくまでも心の奥底を映し出す化け物だ。対象者の心が変われば、当然映し出されるモノも影響を受ける。
『可児くんもすごい暴論をいうなぁ。いいえ。それを言わせてしまっているのは私なんだけど。ほんとう、もう少し私が大きかったなら違っていたのでしょう。運転手さんにもバスの運営組織にもおかしなルールにも、それを向ける相手は沢山あったのに、私は小さすぎたから。知らない物事も赤の他人も偉い人が決めているルールも、知らない世界全てが正しいのだと思い込んでいたから。そんなものよりももっと近くに優しくて愛しくて我儘を受け止めてくれる人を知っていたから。きっと小さな子供は大切な人にこそ責任を押し付けてしまうのね』
自分が変わっていくのが分かった。転ける準備をしているのだ。転けて、膝を擦りむいて、大切な荷物をばら撒いて、泣いて、一緒に拾い集めて、ゆっくりと歩き出す。八年前に必要だった時間。これはそのための減速。
怖いけれど、ようやく進み始める予感がした。
『これは、貴方の負けかもね』
少女はコロコロと笑った。
『せっかく呼び出してくれたのに申し訳ないけれど。でも仕方がないんだよ。もう、そういう世の中なんだ。妖怪に怯える時代は終わっている。貴方たちは今やエンターテイメントへと昇華されてしまった。可愛いキャラクターなんかにさえなっちゃってる。
だって、わかるでしょ? 先頭を走る若者たち。彼らの心を覗いてしまったのなら。……現代の人たちが最も恐れるのはさ、災害でも妖怪でもシリアルキラーでもなくて、ただの普通のニンゲンなんだから』
それがいい事なのかはわからないけどね、と付け加えて。
すると、真から声をかけられた。視線を戻す。最後の出番だ。
八年間も続いた下らない一人芝居ももうすぐ幕引き(フィナーレ)。闖入者に場を荒らされもしたが、割と様になったらしい。でも———
『やっぱり少しムカついたので、年相応のイタズラをしてあげます』
◇
走り続けた。ゴールも知らずに八年間走り続けた。それでも何も見えてこなかった。だから、すごく遠いところにあるモノだと思い込んでいたけれど、違ったらしい。
すぐそこに。
手を伸ばしたら届く距離。
声を掛けたら応えてくれる距離。
疲れてしまったら代わりに背負って貰える距離に、あったみたいだ。
「……立派な、大人になる。それが私のゴール……。私が、走る理由、なんだ」
とても単純。子供みたいに幼稚で、輝かしい願い。
目を瞑って、真はそれを噛み締める。
胸の奥にストンと落ちた。とたんに心の中が整理されていく。ごちゃごちゃに渦巻いて、ドロドロに濁っていたモノが洗浄されて整然と綺麗に棚へ納まった。
ゆっくりと目を開く。
目の前には———「はて?」と首を傾げて何やら納得していない様子の教唆犯がいた。
「…………なによ、その表情?」
真が膨れっ面で問いかける。
「ん? いや、そうなんだぁと思って。珍しい理由だね」
「はい? 可児くんがそう言ったんでしょ」
「うーん。僕は一条さんの頑張る理由、ゴールについては話していたけど。走る理由なんて言ってないよ」
「それって違うの?」
想太は、あはは、と笑った。
「そりゃ違うだろ。そんなの小学生でも知ってるぜ。明日にでもその辺にいる野球少年に聞いてみたらいい。野球少年が辛い練習を頑張る理由は、甲子園優勝とかプロ野球選手になるとか憧れの選手がいるとかさまざまだろうけど。野球をやる理由なんて一つだって」
真は頭を悩ませる。わかるようで、よくわからない。
自分が言いたかったのは現実で走るという行為ではなくて、と訂正しようとしたがやめた。きっと訊くべきことはそれではない。
代わりに。以前にした質問をもう一度投げかけてみる事にした。
「じゃあ、可児くんはなんで絵を描いているの?」
想太は目を白黒させた後にそっぽを向いた。その耳は感情が丸わかりになる程に赤く燃え上がっていた。たっぷり三秒の間を置いて。そして意を決した様子で見つめ返される。
「そ、そんなの絵を描くことが好———気持ちいいからに決まってるじゃん。人間ってそんなもんだろ。知らないけど。……一条さんは、違うの?」
もう語ることはない。彼女たちは充分に語り尽くした。
廃墟にはその心情に相応しく物悲しい空気が漂っている。三日間続いた祭りの最終日のように。特別な夜はこれでお終い。明日からは普通で忙しない日々が戻ってくるのだろう。
だから、勝敗は決した。勝ち負けを競っていたわけではないが、きっとこれは負けでいい。真はそう思った。
「ふふ。うん。そっか。そうだった」
いつもの笑みで呟いた。激情に駆られて声を荒げる一条真はもういない。正しさ溢れる委員長に元通り。
視線を想太から覚の方へ移すと、そこには見慣れない小さな背中があった。真は不思議な感覚に陥った。子供の頃の自身の背中など普通は生涯見ることもないだろうから。ただ、
————あれじゃあ、どうやったって無理だったんだろうなぁ。
おかげで八年前の自分はあんなにも小さかったのだと知り得たのだ。
「ごめんね。せっかく呼び出したのにほったらかしにして。話がつきました」
後ろを振り返っている幼い自分の背中に声をかける。
少女はくるっと体を回して、
『……ホントに。長すぎ』
不満を口にした。
その批判ももっともだ。もうすぐ零時を迎える。呆れたように目を細めている陰の足元は既に消えかかっていた。いや、元より時間経過で消えてしまう現象なのかどうか、真には判断がつかないのだが。
「うん。ごめんなさい。それでね。待たせてしまったのに申し訳ないんだけど、私、なんだか凄く納得しちゃって。ホントにストンって感じで。例えるなら、ために溜めて縦棒を待っていたら遂にやってきた! しかもその次にも縦棒がやってきてなんと八列消せちゃった! みたいな」
まあビックリ、なんて合いの手が聞こえてきそうな程に明るい口調で某ブロック消しゲームの話を始める真に陰は溜息を吐いた。
『簡潔に』
「もうスッキリしちゃいました」
再度、大きな溜息が聞こえる。
『はぁ……。まあ、私がいいのならそれでいいんじゃない? でも、私って案外チョロいんだね』
「なっ!」
思いもよらない自分自身からの査定。なるほど。星にして四つ。共感性羞恥のため一点減点と言ったところだろう。
しかし、真は納得いかない。特に後半部分に関して全く納得がいっていなかった。
心外です! 発言の撤回を要求します!
そんな抗議声明を挙げようとしたところで目の前の少女が輝き出した。その輝きは小さな体の真ん中を突き破るようにして大きくなり、形を再構成した。身長は四十センチ近く伸び、児童の特徴的な丸みを帯びた体躯はしなやかな陸上選手のそれへと変わった。薄かった胸もはっきりと輪郭が浮かび上がる。目の前の幼い少女はものの五秒でどうやら八年間の成長を終えたようだ。その光景はまるで蝉が羽化する瞬間のような、脆さと力強さをはらんでいた。人の成長。その神秘の凝集に一条真は目を奪われた。
数拍をおいて真は、あっ、と声を上げると頬を紅潮させた。見惚れてしまっていた姿が自分自身であるということを思い出し恥ずかしくなったからだ。
すうっと息を吸って、もう一度まじまじと目の前の少女を観察する。まるで鏡を見ている気分だ。格好は今の自分と同じワンピースを着ている。背丈も一緒。体格も一緒。違う点と言えば、陰の少女の髪型が何故だかポニーテールだと言う点ぐらいだろう。
ポニーテールの少女、もとい陰の少女が口を開いた。
『でも私は頑張り屋さんなので最後に嫌がらせ(ひとしごと)して帰ります』
そうして陰は想太へと体を向け、指差した。
チラチラと伏し目がちに彼を見つめる少女の頬は青白い輝きに照らされながらも確かに紅潮している。その大きな目にぴったりと嵌った深い瞳は潤いを帯びて、薄紅色の唇は微かにわなないている。
『……可児くん、実は、私も————』
唇と共に揺れる言葉。意を決したように顔を上げて男の子を見据える。けれど、恥ずかしげな様子は変わりなく、必死で紡ぐ十七歳の少女。
口の端から漏れる吐息はどことなく熱がこもっていた。
その表情は、この雰囲気は、まるで————
「だ、だめだめだめ! 駄目に決まってるでしょ! それは私が勝手に答えていいことじゃない!」
真は声を荒げた。
静けさを取り戻していた廃墟は、もう一度火を灯したように姦しく。祭りの後。キャンプファイヤ―、後夜祭といった定番の様相を呈したわけである。
そして、当事者の男の子はといえば、期待と不安に胸を苛まれつつもしっかりと返事を聞く準備が……。どうやらできてはいないようだ。顔を真っ赤にして、はわわわと鳴いている。完全に思考停止状態だろう。
されど陰は止まらない。言葉を詰まらせながら少女の意思を示す。
『わ……わた、しも————————そのお菓子食べたいな!』
「……」
「……」
夏だというのに空気は氷点下を潜り抜けた。二人の口は凍りつき一言だって出てこない。補足すると陰の指先は見事に想太の前に置かれたテーブル、その上のポテトチップスへと向けられていた。
『ふふ。私の気持ち確かに伝えたよ』
少女は思惑通りのイタズラ成功に弾ける笑顔を見せて、揺れるポニーテールと共にふわっと消えていった。———。
さて。犯人は逃げおおせた。現場に残されたのは、なんとも気不味い被害者たち。地獄のような状況。閻魔王すら彼女らに同情を禁じ得ないだろう。
「えーと……。一条さんも食べる?」
現状を打破すべく想太は置き土産に乗っかる事を決めたようだ。
想太からポテトチップスの袋が向けられる。
恥ずかしさを隠すように真は答えた。
「……うん。実はちょっとだけ気になってた。……一枚もらっていい?」
「どうぞ」
袋へと手を伸ばす。一枚摘んで、口へと運ぶ。歯を下ろすと、パリッ、と小気味いい乾いた音が響いた。形容し難い味が舌を刺激する。ケミカルでジャンキー。栄養なんてものはほとんど存在しない余分な食べ物。一条真に言わせれば、正しくない食事だ。だから終ぞ八年間、口にはしてこなかった。深夜のエネルギー摂取、油の塊、飽和脂肪酸過剰、塩分過多、食品添加物、アクリルアミド。必要がない。生きる為には、走る為には必要がない。
「……ふふ。うん。ホントだ。美味しくないね、コレ」
「だろ?」
それを彼女は受け入れた。美味しくはなかった。やはり必要のない食べ物だと思った。それでも。こうして誰かと笑い合う事ができるのなら。
———たまには悪くないのかな。
真はもう一度、ふふふ、と笑った。
『モウイイ』
反響する。建物に、ではない。脳内にエコーがかかったような、くぐもった声が響いた。男のような、女のような。子供のような、老人のような。聞き覚えのある、しかし絶対に初めて聞いた。そんな不気味な声だった。悪寒がした。脂汗が滲んだ。体の熱が急速に奪われて冷え切っていく。全身の血液が凝固点を下回ったと思うほどに固まる。体の奥底、本能からくる恐怖。人間のものではない。ソレは聞いてはいけない声だった。脳内に響いているのに不思議と何処から聞こえてきたのかを理解した。錆びたブリキの玩具の如く、ぎこちなく首を回した。
廃墟は気付かぬうちに紫霧が立ち込めていた。もはや月の光芒すらも届かないほどに濃く、昏い。人類の成果とも言える科学の灯りが、はた、と途絶えた。照らすものはいない。闇の中には青白い燐光を放つ眼だけが浮かんでいた。
しかし。景品カウンター、その上には怖気立つ声の主とは思えないほどに衰弱した姿があった。半刻前より一回りも縮んでしまっている。
『暇潰シノツモリガ、斯クモ火ノ粉ヲ貰ウトハ』
言い残し、おぼつかない足取りで黒いケモノは闇へと同化していった———。
◇
間隔の広く設置された街灯が瞳に映っては消えていく。彼は窓越しに静まり返った住宅街を眺めていた。窓ガラスに薄らと反射する彼の顔は明らかに不貞腐れていた。
この時間帯の信号機は黄色い点滅を繰り返すのみ。バモス(ホワイト)の進行を妨げる障害はない。自宅までの道のりを勢いよく噴かしながら走って行く。
「いつまでぶうたれてるのよ」
早苗がバックミラー越しに話しかけた。
「……なんで母さんがいるんだよ」
可児想太はようやく口を開いた。
「だってこの時間に保護者がいないと、あの、何? ナントカ条例に引っかかるでしょ」
「だから、何で母さんは僕があの潰れたパチンコ屋にいることを知ってるのかって聞いてるの」
「うん? それは一条さんに聞いたからよ」
「……何?」
「一条さんから聞いたの。真ちゃんがあの廃墟に用があって、想太にもついてきて欲しいって言ってる。でも二十三時以降に保護者なしで外出するのはナントカ条例に引っかかるから私にも協力してくれないかって。本当は保護者同伴でもいけない事だとか何とか言ってたけど。細かい人ね。ああ、あと今日に関しては一条さんがあの建物の所有者さんに立ち入りの許可を貰ったみたい。仕事でツテがあったんだって」
デキる男は凄いわねぇ。お父さんもあれぐらいの甲斐性が欲しいわ、と早苗がぼやいた。
「はあ? それで、なに、他人の娘の為に息子を差し出したってわけ?」
「アンタ、自分の事を棚に上げてよくそんな物言いできるわね。ホント感心するわ。真ちゃんには悪いと思ったけど、別に賛成も反対もしてないわよ、私。だってこれはあくまで想太が決める事でしょ。想太が真ちゃんに協力するって言うのなら、私はそう決めた想太に協力するの」
早苗の発言に、ふんっ、と鼻を鳴らす想太。恥ずかしそうに首に手を置いた。
「……まあ、別にいいけど。けど、なんか、コソコソとしてる感じが気に食わない」
「あら失礼。でもね、大人ってのは子供のためにコソコソと裏で手をまわすものなんだからしょうがないの」
「うぇ。大人ってめんどくさそう。一生子供のままがいいや」
「えーそうでもないわよ? 子供には子供の仕事があるんだし。だ・か・ら、今日見せてもらった成績表について帰ったらじっくり話し合いましょうね」
にっこりと。それはもうにっこりと。慈愛に満ちた悪魔のように。
「…ああ。今日でお別れみたいだな、スマートフォン(相棒)」
親子を乗せたバモスは景気良く帰路を駆けていく。
◇
潰れたパチンコ店から車を停めてある駐車場までの道中。銀色の月がぎこちなさの残る親子を照らし出している。
娘は父親の背中を見つめながら、とうとう話しかけた。
「……お父さん」
「うん? 何だい?」
言葉は続かない。空白が訪れる。かたや目的地を知らず、ゴールを定めずに走り続けた娘。かたやゴールを悟り、歯を食いしばってゆっくりと歩き続けた父親。どちらが前を往くかと言えばそれは———。八年間という距離は想像以上に大きいものだった。
「……ねえ、お父さん」
「うん?」
「……お父さんは、私のこと……どう思ってる?」
歩みが止まる。父親は振り返らず、娘も足を止めた。
「どう……か」
「ごめん……やっぱり私から言う」
父親が、ああ、と頷く。
「私は、お母さんが大好きだった。そのお母さんが……死んでしまって、それは私の責任だったけど、それを認めたくなくて……。だから、一度お父さんに責任を押し付けようとした。けど、私は……」
娘はそれ以上、言葉を紡げなかった。
「あの時」
落としてしまったバトンを父親が拾った。
「白状するとね。僕もあの時テンパっていたんだよ。お母さんがいなくなってしまったあの時、連絡を受けてから病室に辿り着くまでの記憶がまるでないんだ。きっと感情がぐちゃぐちゃになっていたんだと思う。お母さんがいなくなってしまった悲しみもこれからの不安もあって、何より仕事を優先してしまったという自身への怒りがあったんだと」
父親の告白。娘は言葉を発さない。
「でもね。でも病室に入って真を見た時に、それを塗り潰すぐらいの感謝があった。本当に生きていてくれて良かったと思った。今後どんな事があっても真には笑っていてほしかった。だから全ての事を僕に押し付けて貰いたかった」
娘は———
「でも、ダメだね僕は。僕と一緒にいると真がすごく苦しそうに見えたから、逃げてしまっていたんだ」
「私は! ……私はお父さんの作り笑いが嫌い。大嫌いだ。だから、それはもう要らない」
娘は足を前に進める。父親に追いつき、その背中へとタッチ。
「けど、お父さんは大好きだ」
「そっか」
「……うん。だから、私少し疲れちゃったから、荷物を代わりに持ってくれる? お父さんが疲れたら私が持つから」
「ああ、もちろん」
父親の隣に並ぶ。
「家族より仕事を優先された事、すごくイヤだった。約束を破るのもいけません」
「そうだね。ごめん。けど真もあんまり我儘を言ったら駄目だよ」
「うん! ごめんなさい!」
駐車場まであと数十メートル。走って仕舞えば一瞬で到着する、そんな距離。
親子は泣きながら。ゆっくりと心に刻み込むように、歩いていた———。