レイヤー5
七月十二日 十五時三十分
ショートホームルームも終わり、下校の時間。全ての部活動が停止している。本来であればその意図を汲み取って早々に帰宅し勉強に励むべきなのだろうけど、そこは流石の高校生。きっとどこの学校でも同じ景色を見るのだろう。娯楽に貪欲、何か面白いことはないかと多くの生徒が有り余った体力の発散先を探して教室や廊下に屯していた。
がやがやとした喧騒の中、荷物をまとめて二年一組の教室を出ると廊下にいた生徒に話しかけられた。
「おー可児じゃん。もう帰り?」
「ああ、のりお君。そうそう。流石に勉強しないとまずいし」
話しかけてきたヒョロ長の男子生徒はのりお君だった。同じ鳥淡南中学出身で、廊下ですれ違うと挨拶ぐらいはする仲だ。彼はどの学年にも二、三人は居るであろう苗字を持っているため中学の頃から名前で呼ばれている。
「勉強してないアピールやめろって」
「いやマジだって。しかも成績悪かったらスマホ没収だってよ。ほんと最悪」
「うわ。そりゃ激マズだな。がんばれよー」
心のこもっていない励ましをもらう。他人事だと思っているな。
すると、のりお君は「そういえば、これ知ってる?」と話題を憂鬱なものから甘酸っぱいものに急転換させた。
「三組に新免いるじゃん。アイツ、今日の昼休みに告ったらしいぜ———」
◆
七月十二日 二十一時十五分
今日は母親がうちにいて夕食を作ってくれたため常識的な時間に常識的なご飯を食べることができた。豚の生姜焼き、って僕はあんまり好みではないのだけど。母親の料理レパートリーは決して広い方だとは言えず(他のご家庭がどんなものなのかあまり知りはしないのだが)、打線はいつもレギュラーメンバーたちで埋まっている。大方、今宵の彼は五番バッターあたりだろうか。うちの父親は美味しそうに食べていた記憶があるけど、どうやら食べ物の好みは遺伝しなかったらしい。
その後、自室に籠もってようやく期末試験の勉強に腰を入れていたのだが集中力が切れてしまった。飲み物を取りに一階へと下りる。偶然、ドアを隔てて母親の会話が聞こえてきた。誰かと電話で話しているようだった。ドアを少しだけ開いて中を盗み見る。
「うん、うん。だからね、兄さんたちとも話し合ったんだけど、もうお母さんを楽にしてあげないかって。兄さんたちも岐阜から離れちゃってるし。私もやっぱり岐阜まで通うとなると家を留守にしちゃうから。何より管にずっと繋がれているお母さんが可哀想で」
母親はこちらに気づいていない。
「うん。わかってる。けど、家族で決めたことなの。お医者さんも回復する見込みは限りなく低いって言ってたじゃない? だから、しょうがないの。もう七十六歳だし、これが、……寿命だったんだ、って」
……僕はとても驚いてしまった。
母親が、ばあちゃんを楽にしてあげるという選択をとったことに、ではない。
母さんが泣いていたから
泣いているところなんて見たことがなかった。いつも笑っているか、怒っているか。活力に溢れていてポジティブシンキングの塊みたいな人だった。そんな母さんが声を震わせて泣いていた。
僕はその時、ばあちゃんのことを少しだけ嫌いになったのだと思う。
二十二時四十分
僕は家をこっそりと抜け出した。今までは鬼が居ぬ間に洗濯状態だったが今日は鬼が居るから仕方がない。もちろん比喩ではない。
愛車に跨りペダルを漕ぎ始める。最近ペダルがすごく重たいのだけどタイヤの空気が抜けてしまっているのだろうか。しかし、今から空気を入れる時間もないので後ほどにしておこう。まずはいつも通りにコンビニへ向かうことにする。夕食は食べてしまったので今日は飲み物だけにしておくかな。
車輪が絶え間なく回る。少し柔くなったタイヤが地面を蹴っていく。車通りの少なくなった道をいつもより体重をかけて漕ぐ。それでも速さは変わらない。時折、法定速度を超過した車がちんたら走っている自転車を笑うかのように勢いよく抜かしていく。きっと彼女がこの場にいたらほんの少しだけ眉を顰めるのだろう。
じっとりした空気。今日は雲一つない。夏の夜の空を見上げると、月が荘厳に照らしていた。うさぎには見えない。女の人の横顔にも見えない。視線をスライドさせる。東の空には月に負けじと一際輝いている星々を見つけた。夏の大三角だろうか。その周りの星を繋いでも、はくちょうにもわしにもことにも見えなかった。
本当に昔の人達は感性が豊かだったのだろう。そして、その感性を惜しげもなく表現していた。なんの恥じらいもなく、躊躇もなく。まさしく芸術家だ。だっていくら頑張ってもそれに見えることがないのに世界がそれだと認めている。
カラカラ、カラカラ。回る回る。
けれど、今日の朝の出来事にはびっくりした。嫌な予感はしていたが、まさか本当に一条さんがいるとは思わなかった。僕や雲母と会わなかったらゴミ袋を漁っていたのだろうか。一条さんって女子高生だよな。ゴミを漁るのなんて世界一嫌がるお年頃じゃない? でも彼女はきっとやる。それが正しいと思ってしまったのだから。
「責任感……、罪滅し……、いい子症候群とはちょっと違う? 自己犠牲、かな?」
カラカラ、カラカラ。回る回る。
驚いたと言ったら雲母のことにもだ。僕はあれで雲母との縁が切れると思ったのだけど、案外すんなりと収まってしまった。アイツも大人の対応ってのができたのだろうか。
……ああ、それと。もう一つの方は本当に申し訳ないことをした。
「雲母気づいてたよなー。アイツ変なところで察しがいいから困る。結局、白日の下に晒したのは僕だったってオチかよ。ほんと最悪。借りイチにしとこう」
カラカラ、カラカラ。……キキッ。
コンビニに着いた僕は手早くジュースを選んで会計を済ませた。今回はコーラ。黒いのではなくて赤いの。カロリーある方が美味しいし、お金を払うんだからエネルギー摂取できる方がお得だよ?
のんびり漕いでいたら思ったより時間がかかってしまっていた。ここからは立ち漕ぎも駆使して『いたりあ』へと急ぐ。————。
到着。二十二時五十八分。ギリギリ間に合った。汗が気持ち悪いな、とシャツの襟元でパタパタと煽いでいたら後ろから声をかけられた。
「可児くん、こんばんは」
振り向く。いつも通りの一条さんがいた。
「ああ……うん。こんばんは」
ギ、ギ、ギー。
廃墟の扉を開けて、二人して階段を上っていく。
二階の景品交換所、カウンター。黒い塊が眠っている。僕は声をかけた。
「よっ」
ソイツは反応しない。
「おいって」
反応しない。コイツ、本当に狸寝入りしてやがるな。昨日睡眠の邪魔した事を根に持っているのだろうか。
「……昨日は悪かったって」
いや、違うのか。
「こ、こんばんは」
黒い耳がピクっと動いた。顔を上げて視線が交わされる。そうしていつもの体勢で眠り始めた。よくわからない生き物だ。
僕は席に座った。僕が座ったのを確認して一条さんも僕の右斜め前に座る。
「気になっていたんだけど、なんで斜めに座るん?」
「え? ああ。前に聞いたことがあって。相手との座る位置によって居心地の良さが変わるんだって。対面よりも斜めの方がリラックスして話せるらしいよ。だから実践してみてる。対面だとどうしても緊張感が出て、何ていうか、議論? 面接? っぽくなるんだって」
「なるほど。じゃあその気遣いに感謝して心置きなく言わせてもらうと、一条さん」
「はい」
「今日で僕は足を洗うかもだ」
「……そっか。何か心境の変化があった?」
「うーん。まあ、そうかも。多分、今回で目的も達成されそうだし」
「そう……」
「うん」
僕は鞄からランタンとスケッチブックを取り出してデッサンの準備を始める。ランタンの灯を『弱』にする。手元の暗闇を黄色い淡い光が照らした。スケッチブックを捲っていく。改めて数えてみると、もう十枚以上アイツの絵を描いていたらしい。最近のページは黒い物体で埋まっていた。
「……理由は、教えてくれないんだ?」
「あくまでも僕の予想だし。今日のが当たっていたら教えるよ。割と恥ずかしいんだぜ」
彼女は半音下げた声で「約束ね」と返した。
スケッチブックに線を描く。アタリはつけた。最初は大胆に、次第に丁寧に。廃墟には鉛筆の跡だけが響いている。手の影がスケッチブックの上を跳び回る。何回も描いた構図。今までの反省点を修正する。あとは、見たものを見たままに入力し、瞼に焼き付けた画像を判子のように出力するだけだ。
不思議と、今日はノイズが聞こない。———。
さほど時間は掛からなかった。
手元を確認する。今までで一番上手く描けていると思った。今までで一番綺麗に切り取れている。入力と出力の差はほとんどないと言っていい。
……けれど、なぜなのだろうか。綺麗に切り取ったはずだ。なのに……。顔を上げて目の前で寝ている不思議な生き物を眺める。ああ。コイツはもっともっと不可思議な生き物で、太々しくて、見ているとなんだか少しムカつくのだ。ソレは手元に描かれたコレにはない。
俯瞰してスケッチブックを見る。
だってこんなの、ただの野性のタヌキじゃないか。
「私は……」
声が聞こえた。
顔を上げて一条さんを見る。
少し気まずそうで、しかし真っ直ぐな瞳。
「気を悪くしたらごめんなさい。でも、私はこの前の絵の方が好きだったよ」
追い打ちを食らってしまった。しかも急所を穿たれている。これは致命傷だ。ふふ、もうどうしようもないらしい。
「あははは。手厳しいや。やめやめ! 今日は気が乗らなーい」
パタンとスケッチブックを閉じると、一条さんは驚いたような表情をしていた。
「……ど、どしたん?」
「いや……今日の可児くんはよく笑うなって」
「えっ、そう?」
「うん。今朝も雲母ちゃんと喋っている時、微笑ってたよ」
「……うーん?」
「かぷかぷって感じで」
くらむぼん?
その擬音を実際に使う人がいるとは。どんな風に笑ったのか見当もつかないけれど、きっと彼女の中では適した表現なのだろう。
しかし、さっぱり記憶になかった。自分の知らないところで笑っているなんて変質者じゃないか。気をつけよう。
そこからは、することがなくなってしまったので一条さんと軽くおしゃべりをした。期末試験のこととか、部活のこととか。他愛もない、取るに足らない雑談だった。
その雑談の一つはこのようなモノだ。
「昔ね、友達にとあるSF小説を借りたことがあったんだ。まあ、借りたと言うより押し付けられたっていう表現が適当なのかもしれない。それまで私はエンタメ小説と呼ばれるジャンルに疎かったというか、少し敬遠していたんだけどね、その友達に『ダメダメ! 真さあ、偏食はいけないっていっつもキミが言っているんじゃないか。いいや、いいや。別にボクは偏っていることに異議申立てしているわけじゃないんだ。偏るってことは、要は好きを選んでるってことだから、それはいいことだと思うね。でもキミは違うだろう。キミは好みじゃなくて正しいかどうかで選んでいる。だ・け・ど! それじゃあまるでエンタメというジャンルが間違っているみたいになるじゃないか。すごくカチンときた。だからね、これはボクからの挑戦状だ。果たしてこれを読んでキミは今までの通りの生活を送れるかな? 価値観なんて若いうちに何度でもぶっ壊すに限るんだぜ』って言われて」
「濃いなあキャラ。で、読んでみたん、そのSF」
「読んだよ」
「どうだった?」
「すごかった。とても未来的で、空想的で、悲壮的で、破滅的で、文学的で。仄かに希望を感じるけどやっぱり悲しくなってしまう家族の物語、だと私は感じた。……正直、面白かった。でも好きにはなれなかった」
「へえ、どうして?」
「可児くんはさ、もし人間が遥か遠くの宇宙人に操られているとしたら、どうする。人々が成し遂げてきた偉業も、日々の暮らしも、今ここにいる私たちの感情さえも。全てが誰かに決定されていたとしたら、どう思うかな」
「ああ———だから好きになれなかったと」
雑談は終わり、そして、いつもの静寂が訪れた。
タイミングを見計らったかの様にアイツの額の輝きが増す。さてと、出てくるだろうか。僕は立ち上がって奥の暗闇を睨みつける。
視線の先に暗闇と対照的な、月の光を反射する白髪の女性が現れた。姿は二ヶ月前に病院で見た時よりも若々しくて生命力に溢れている。つまり、僕が岐阜にいた頃の、
「……ばあちゃん」
十年前の祖母がいた。
『……』
祖母は何も発さない。老眼鏡越しにこちらを力強い眼差しで見つめてくる。昔の、小さい頃の僕であったならその眼差しに萎縮していただろうが、今は高校生にもなっている。こちらも眼を逸らさない。
『……』
祖母は喋らない。口を固く結んでいる。だんだんと苛立ちが増してきた。ホント昔のままの頑固婆さんだった。
「なんだよ。出てきたんなら、何か喋ればいいじゃないか」
無言。言葉はない。しかし、その眼差しによって糾弾されている様な感覚に陥った。
いいや。そんな上等なものではないか。いたずらを叱られているだけだ。まるで昔と変わっていない。自分が全く成長していないと言われているみたいで無性に腹が立つ。
「言えよ。どっちなんだ。生きたいのか、それとも———」
死にたいのか。その言葉は出てこなかった。口にしたくない言葉というものは存在する。本音ではなくても。嘘だったとしても。きっと。
そんな僕を見て祖母は嘆息した。そして、微かにしゃがれた声で、
『……教えてなんか、やんないわ』
力の籠もっていない声だった。だけど、なんでこんなにずっしりと響くのだろうか。
ああ。きっと重みが違うのだ。年の重みが。
「な、なんでだよ。ばあちゃんが決めたらいいだけじゃないか。自分の事だろ。僕たちが……。母さんが悩む必要なんて」
自分で言ってて阿呆らしくなった。僕は誰に向かって問い詰めているのだろう。こんなの自分自身のイメージってだけなのに。
『はぁ……。人の本音なんか、わかるわけない。アタシらにできるのはゆっくりとお互いを知っていくだけやお。こんな一方的に相手の本音を聞こうとなんてしちゃあいけないんだ』
目の前の祖母は昔のばあちゃんの様な事を言う。
『アンタは昔からそうだった。人のことばっか知りたがって。言葉や顔色や仕草で相手の心を知ろうとして。それで訳がわからなくなる。他人と関わるのが面倒くさくなって距離を置く』
……そうだ。相手のことが知りたかった。本心を知りたかった。だって、幼いながらに何故かわかっていた。表面と中身が反対のことはよくある。この世界には言葉とか表情とか雰囲気とか凄く上手に演技できる人がいるんだって。それは、恐ろしいことだった。
『アンタは言葉が苦手だった。ほんで、絵が好きだった。それは悪いことじゃない。別に言葉なんて喋らなくてもいいんだ。あんなの意思疎通するための道具なんだ。他のモノで表現できるならそれでいい。……でも、アンタは好きだった絵でさえ自分を表現する事を嫌った。結局はそこなのさ』
うん。それは痛感している。後輩にあれだけ睨まれてしまって。誠実な同級生に前の方が良かったと言われて。自分がノイズだと切り捨ててしまっていたモノが必要だったのだろう。たとえ写実主義を気取るのだとしても、それが欠けていては絵は描けない。僕は単純に恥ずかしかっただけなのだ。
『矛盾している。……矛盾ってのはチグハグってことやお。アンタは相手の本当の気持ちを知りたくて仕方がないんだろう。なら考えてあげないと。相手だっておんなじようにアンタの本当の気持ちを知りたいんじゃないかって。相手の気持ちだけを知るだなんて、ほんなん。————不公平じゃないか』
……ああ、全くだ。それも最近になって律儀すぎる委員長に気付かされた。相手の気持ちを一つ知るには、自分の気持ちを一つ教えてあげないと。自分の心を一つあげたなら、相手も心を一つくれるかもしれない。そんなの子供にだってわかるようなことだ。
なんで自分自身に言いくるめられているのか。
「母さんが、泣いていた」
『……ほうか。親子でだって相手の心を読むことはできんね。それはきっとたくさんの事を考えたんだろうよ。アタシのことも、家族のことも、アンタのことも。ほんで自分自身の気持ちも。そうじゃなきゃあの子が泣くもんか。
んでも、それだけ考えてくれたなら大丈夫だろうね。泣くほど考えてくれたんだ。その答えがマルでもバツでも、正解すらなかったとしても。後悔はしないよ』
ちぇっ。ホントばあちゃんみたいな事を言うよな。僕の妄想力はなかなかのものらしい。
まあ、でも結構スッキリしたかもしれない。
不可思議で太々しい生き物も役に立ったってことだな。しかし、最後に。今まで散々人の心を音読しやがったアイツに仕返しをしてやろう。ふふ、かなり不本意だろうな。
「はあ……。頑固婆さんめ。僕はばあちゃんのことを今日ちょっと嫌いになった。けど。ばあちゃんのこと、結構好きだぜ」
祖母は、かっかっかと意地悪婆さんの様に笑った。
『ほうかい。ま、アンタはこの先も長いんだ。しっかり気張りな。ソウタ!』
そうして祖母はゆったりとした足取りで暗闇へと消えていった。
廃墟には心地の良い、慣れ親しんだ静寂が流れている。
嫌な視線を感じた。まったく、人がちょっとだけおセンチな気分に浸っている時に無粋なヤツだ。視線の主である黒い塊はいつの間にか起き上がっていて、何やらこちらを警戒していた。毛を軽く逆立て怪訝な顔で睨んでくる。
僕はそんな陰鬱とした視線を吹き飛ばすように軽い調子で礼を言った。
「おースッキリしたよ。さんきゅ」
自分の仕事、自分の存在意義を否定された狸はプイッと顔をそらした後、何処かへ去って行った。
しばらく暗闇を見つめた後に、振り返る。しゃんと立ちながら真面目な顔でこちらを見ていた。何か思うところがあったのだろうか。
「カンニングには失敗したよ。どころかバレて叱られてしまった」
彼女は眼を瞑りゆっくりと首を横に振る。ポニーテールに纏められた黒髪が、さらり、と月の光の条を舞う。
「叱られたんじゃなくて、励まされたんだよ」
「……うん、そうみたいだ」
彼女は先程の僕とばあちゃんの会話に言及しなかった。
大切なモノはそっと心の奥にしまっておくことにする。いつか必要になって取り出す時が来るかもしれない。
僕は自分の席へと戻った。
「じゃあ約束通り話そうか。あくまで僕の予想だけど、多分当たっているんじゃないかな」
彼女も椅子へと腰を下ろした。
赤い缶コーラで喉を潤してから説明を始める。
「まず最初に。どうやらあの生物に今まで見せられていたのはその人の本音ではなかったみたいだ。学食で一条さんに語った予想は見当違いだった。それは、ごめん」
彼女はブンブンと首を振って否定する。
「あの時も可児くんはあくまで予想だって断っていた。話を聞いて考えた結果、私もそうだろうと結論づけただけ。謝る必要はないよ」
「そう言ってもらえると救われるな。で、だ。じゃあ、僕たちが今まで見ていた、見せられていた人達はなんだったのかと言うと、きっと僕のイメージだ」
一条さんは特に驚いた様子を見せなかった。聡明な彼女のことだから、もしかしたら予想はしていたのかもしれない。
「……と言っても何から話せばいいだろ」
「じゃあ、まずあの不思議な生き物。あの子はなんだと思う?」
「ああ、アイツかぁ。申し訳ないけどアイツ自体に関しては正直さっぱり。無理やり何かに当てはめるとしたらやっぱり『さとり』になるのかな。雲母が最初に予想した結論に行き着くのは不本意だけどね」
「さとり?」
「うん。僕もネットで調べただけの知識だから話半分で聞いてほしいんだけど……。『さとり』っていうのは日本各地で民話として伝わっている妖怪。岐阜なんかだと山奥に住む『やまこ』という妖怪と同一視されることもあるらしい。その姿は猿だったり狸だったり一つ目一本足の怪物だったりと民話によって様々で、能力は共通して人の心を読むこと。相手の思うところを次々と言い当てて、驚いている間に襲い掛かる。そんな妖怪なんだって。予想出来ない事態にめっぽう弱く、民話では薪の火の粉が跳ねたことに驚いて逃げ出すっていうオチが多かった」
「なるほ、ど? うーん、でも……」
「うん。似ている部分もあるけどアイツとは違っている部分も多々ある。だから、結局のところアイツが『さとり』かどうかなんてのはわからない。あくまで似たような能力の妖怪がいるよって話。そもそも妖怪というものを信じるかどうかって議論にもなるだろうけど、そこは、まあ自分の眼と頭を信じるか、現在の一般常識を信じるかだね。
僕が予想するに、アイツは対象者の心を読んでその中からマイナスのイメージを引っ張り出してくる。そして、それを投影するんだろう。自分の嫌いなモノ、苦手なモノ、怖いモノを見せられたらそりゃ恐怖だ。民話に伝わる『さとり』なんかよりもよっぽど恐ろしいと思うぜ」
「ふふ、そっか。それは確かに恥ずかしい」
……恐怖だ、って言ってるのに。いや最初に恥ずかしいって言ったのは僕なんだけど。そして実際めちゃくちゃ恥ずかしいんだけども。
一条さんは続けて訊いてくる。
「いつから、そう思い始めたの?」
「疑い始めたのは濱崎さんちの……ええと、泣いていたあの女の子の時。あれはおかしかった。だってあの子の言葉はホンモノであったけど隠されていなかった。隠されていないし、本人が隠そうとしてもいなかった言葉だ。丸出し状態。なんなら自分からアピールしていた。隠されているものを暴くから意味がある。分かりきったものを、はいどうぞって映し出されてもそんなのはただのプロジェクターと変わらない。日常的で、普遍的。一般の人にとって理屈はわからないけれど見慣れてしまった、体系化された科学現象だ。まるで不思議じゃない。けどアイツは真に不思議な生き物のはずだ。それは直感で決まっていた。じゃあ、これは僕の前提が間違っていたんだろうって」
「随分と浪漫に溢れる推理だね。とても主観的だ」
「そりゃあね。だってコレは真理の話ではなくて心理の話なんだから。ハウダニットよりホワイダニットで考えないと。まあ、ミステリあんまり読まないんだけど」
女の子は飼い犬が死んでしまったから泣いていた。当然だ。産まれてからずっと側にいたお兄ちゃんがいなくなってしまったのだから泣くだろう。その泣き声は七月六日から僕が通学路である濱崎さん宅を通る度に聞こえてきていた。
「雲母の件でも少し違和感はあった。雲母のために走ってくれた彼女のことは僕しか知らないはずだったのに、幽霊は何故か知っている様子だったし。……けど、まあ極め付けは彼ですよ」
「そうだね。そこで私も流石におかしいなと思った」
やっぱりそう思うよな。だって、全く見当違いの内容をほざいていた好青年がいたんだから。それも僕のイメージだったんだけど。
お互いの思い浮かべている内容を擦り合わせる。
「新免くんだよな。……今日告ったらしいね。一条さん————————の友達の佐々木さんに」
一条さんは頷いた。その顔には少し不満の色が見える。
「お昼にサヤ———佐々木さんと一緒にご飯を食べていて、新免くんが『少し時間いいか』と話しかけてきた時の私の気持ちを答えなさい」
「それ系の問題は苦手なんだけど……期待した?」
「怒るよ」
一条さんの声には珍しく棘があった。ふざけたのは良くなかったか、と自省する。
真剣に解答するとしたら———。
きっと、答えは苦しかった。続く気持ちは、安堵した、だ。
告白されても断ることしかできない彼女は告白なんてされたくないのだろう。
「……ううん、ごめん。嫌な問題だ。出題ミスでした。気にしないで」
「こっちもごめん。よくない発言だった。まあ、とにかく。その一件で幽霊が喋っている内容は本音ではないと判断した。一応言っておくと新免くんは女癖が悪くて誰彼構わず告白するような人ではないと僕は思っている」
「そうだね。それは私も同意。新免くんはとても正直な人だよ。でも、結局……いや話を続けて」
「最初の仮説は否定された。それで考えたのが僕の心の中で思うマイナスイメージを見せられているのだという予想。で、今日都合よくばあちゃんのことを嫌いになる出来事があったから〝丁度いいじゃん、やったね! しかも当たっていたら元々の目的も一応は達成できるだなんて、キャリーオーバー発生中ってやつ?〟とか考えていたらビンゴだったよ」
一条さんは白い目をこちらによこした後「ううむ」と唸って指を口元に当てながら考え込んでいる。
「というか、そもそもが変だった。出てくるのはみんな僕が知っている人だけで、しかも最近僕が嫌な印象を持った人たちばかりだ。
そんなの最初から気づけって話だけど、おおめに見てほしい。Aさんが援交をしていたとか、Bくんが三股をかけようとしていたとか、宇田先生が休職するとか知らなかったことが現実になっていたんだから。……いや、そうなるとAさんに関しては停学になったってだけで本当に援交していたかはわからないけど」
今思えばAさんもBくんも宇田先生もそう思えるだけの根拠があったのだろう。噂とか言動とか雰囲気とか。そしてそこから僕がイメージした推理? が当たって(Aさんは不明)しまっていた。僕って割とすごくないか。
自画自賛していると、
「……うーん。でも」
一条さんが疑問を口にする。
「可児くんって新免くんのこと苦手だったの? あんまりそんな風には見えなかったけど」
「…………男心は難しいんだよ。と、とにかく! 僕の考察はここまで。信じるか信じないかは一条さん次第だ」
彼女は目を伏せてから「……信じるよ」と呟いた。
「そ。じゃあこの不良行為もおしまいだ」
「えっ?」
「だって一条さんは別にお父さんが嫌いではないんだろ? ならお父さんが出てくることはないよ。もし出てきたとしてもそれはお父さんの本音じゃない」
「それは……そう、だね」
七月二日から続く夜の非行は淑やかな終わりを迎える。
きっと、この不可思議な体験はいつの日か満更でもない思い出に昇華されることだろう。
………………。
…………。
……。
「そ、そういえば、一条さんってスマホ持ってる? ……よければ連絡先を、交換しないでしょうか?」
「えっ、うん。いいよ。スマホじゃなくてケータイだけど」
彼女はボトルポーチに備え付けのチャックから折り畳まれた銀色の携帯電話を取り出した。どんどんスマホが普及してきているとは言え携帯電話を使っている学生も少なくない。クラスの二、三割はまだ携帯電話じゃないだろうか。
彼女は携帯電話の電源を切っていたらしい。パカっと開いた後に十秒ほど経ってから科学的な光が彼女の顔を照らし出した。すると、一条さんの顔が硬直したのがわかった。不安そうに携帯電話のボタンを押している。そうして突然————
「ごめん。私帰るね。また今度にしよ」
一条さんは廃墟の階段を駆け降りて行った。
残された僕の右手には燦然としたスマートフォンだけが悲しく握られていた。
◆
七月十三日 九時二十五分
————本日は晴天なり。土曜日なり。そして、なんと月曜日は祝日のため三連休なり。あと真夏日なり。
真夏日は余計だが、そんな素晴らしい週末のはずなのに僕は図書館へと足を運んでいた。流石に本腰を入れて期末試験の勉強をしなければならなかった。連休が明けると地獄が始まってしまうのだ。
「あっ」
「ん? あれ可児っちじゃん。おっはー」
図書館の駐輪場に自転車を停めようとした時、クラスメイトでちょいギャルの須藤さんに出会った。
須藤さんはまさに夏らしい涼しげな格好をしていた。ショートパンツからはスラリと白い脚が伸びる。上半身はクリーム色のオフショルダーブラウス。細い腕の先には学校で見たことのないカラフルな尖った凶器が付いている。付け爪ってヤツだろうか。もちろん学校では禁止だ。化粧はいつもよりも華美で、髪の毛も心なしかくるくると踊っている。
……いうほどちょいかな、コレ。普通にギャルじゃないかな?
僕は須藤さんへの認識を改めながら挨拶をした。
「おはよう。ギャ……須藤さん」
「アハハハ! おはようぎゃって何? 可児っちの新しい鳴き声? ふふっ、いけてんね」
いけてるのだろうか?
そして僕には古い鳴き声なんてモノも存在しない。
「噛んだだけ。スルーでお願い。須藤さんも勉強?」
「そう〜。マジめんどいけど点数悪いとスマホ没収だって。そんなん死刑と変わらんじゃん?」
「へえ、仲間じゃん。僕も母親に言われたよ」
死刑宣告を受けた仲間の須藤さんは僕の返答にテンションあげあげ気分上々の、みたいな感じだった。何を言っているのか自分でもわからない。
少し落ち着きを取り戻した須藤さんが突然謝ってくる。
「可児っち、一昨日はごめんね」
「おととい?」
「昼休みにさ、ウチ勝手に席使ってたじゃん? 後から友達に可児っちが教室の入り口でフリーズしてたよって聞いてさ。あちゃー悪いことしたかなーって。ウチ視野めっちゃ狭いから、嫌だったら遠慮なしで言っていいから」
「ああ……いいよ。あの時はちょうど飲み物買いに行こうと思ってたし」
「ほんと?」
「うん。退いて欲しかったら言うからさ。だから居ない時は別に使っていいよ」
「まじ? やりぃ。可児っちの席って座り心地いいんだよねー」
「あははっ、何それ。どの席も一緒じゃん」
僕の言葉を聞いた須藤さんが不思議そうな顔でこちらを覗き込んできた。すごいジロジロと見られている。なんなら匂いまで嗅がれている。やめてほしい。
「ちょ! なにを———」
「ん〜? 女の匂いはしないんだけどなぁ。なに可児っち、ちょっと変わった?」
観察を終えた須藤さんが顔を上げる。
「けど、それは早い。早すぎだって。そんなの普通夏休みにやるイベントじゃん。一夏の甘酸っぱい経験と共に進んでいかなきゃいけないの! まだ期末試験も終わってないのに大人の階段登ってどうすんの? ヘルを越えずにヘブンに行っちゃうなんて裏技はダメだし」
……このギャルは何を言っているのだろうか。もしや雲母と同じ人種か。
「ああ、そういえばさ話は変わるんだけど、須藤さん」
「ん?」
「須藤さんって人の誕生日を覚えるのは得意?」
「んー得意かはわからんけど友達の誕生日なら基本覚えてるかな。なんで?」
「ちょっとね。あと関係ないんだけど二組の一条さんって知ってる?」
「んん? 知ってるけど。喋ったことあるし。……あっは。な〜に可児っち。話変わるとか言って全然変わってないねぇ。たしかぁ少し前に一条さんと可児っちが一緒にご飯食べてるって噂が」
「いや違う! 当たらずとも遠からずだけど今回のは違う! とにかく一条さんの誕生日を知ってたら教えて欲しいだけなんです。他意はないからホント」
「恥ずかしがらなくてもいいっていいって。いいなぁサプライズ。でも今回ばかりはタイミングまじ最悪。一条さん、もう十七になってるからね。しかも七月八日だからついこの前。リベンジは一年後ってわけさ。あでもお祝いはしてもいいと思うウチ的に! なんならプレゼントの相談とか乗るよ超乗るよ!」
クレシェンド気味にテンションがあがる須藤さんを横目に僕の気持ちはデクレシェンド。
そんなおり須藤さんの派手な肩掛けポーチからスマホの通知音がした。彼女はその音に反応すると目にも止まらぬ早さでスマホを取り出してタップしていく。
「あっ、やば! 中に彼氏待たせてるんだった。じゃね可児っち。テス勉がんばろ。あ、あと今回の話は内密にしといてあげる。袖の下はアイスでいいよ。『お主も悪よのう、いえいえお代官様ほどでは』ってやつね」
須藤さんは返答を聞かずに図書館の入り口へと駆けて行った。その背中を僕は見送った。
静まり返った駐輪場。
ジリジリと太陽が背中を焦がしている。
八月に迷い込んでしまったみたいに暑かった。
この暑さだからか、蝉の声もちらほらと聞こえていた。君たちも毎年同じじゃなくて新しくイケてる鳴き声でも作ったらモテるんじゃないか、なんてとんでもない無茶振りが頭をよぎった時———
「うわ! この中マジ寒いんですけど!」
ギャルの鳴き声が入り口から聞こえてきて、つい笑ってしまった。司書さんから注意を受けたのだろうが、その後に続く謝罪の言葉まで大声なのは御愛嬌だな。
口元が弛んでいる事を自覚しながら、僕は軽い足取りで入り口へと向かった。
十八時三十分
図書館の閉館三十分前のアナウンスが流れた。
最初はテスト勉強に乗り気でなかった僕も、いざ始めてみれば集中していたみたいだ。あっという間に時間が過ぎていた。途中、昼飯を食べに近くのコンビニへ行ってからもう四時間近く経っていたというのだ。スマホもずっと触っていなかった。テキストとノートを鞄にしまいながらスマホを確認すると、大量のメッセージが届いていたことに気づいた。送り主は全て母親。電話もかかってきていたがマナーモードにして鞄にしまっていたので気づかなかったらしい。内容は、
『お客さんが十八時に来るそうなのでそれまでに帰ってきてください。遅れたら、わかってるわよね』
『メッセージ確認しましたか? 確認したなら電話をください』
『十八時まであと五分ですが、もちろん間に合いますよね』
最後のメッセージには笑っている顔文字付き。文章を打っている本人は笑顔どころではないだろうけど。
図書館を出てすぐに電話をかけた。電話口の母親からは何やらよくわからない心配をされた。まだ十八時半だってのに心配しすぎだろう。その後はいつも通りの鬼と化したので、僕は自転車を思いっきり漕ぐ羽目になってしまった。
家へ着き、息も整えぬままに玄関を開ける。スニーカーを脱ごうとしたら違和感があった。
「あれ、見たことない靴」
見るからに上等で黒光りしている革製のビジネスシューズが綺麗に置かれていた。母親は履かない。僕だって学生だ。父親はもっと安物。
そういえばメッセージにはお客さんが来ると書いてあった。
僕は少しだけ呼吸を落ち着かせてからリビングのドアを開けた。
リビングには脚の低い木製のテーブルが置いてある。その上にお茶が注がれたグラスが二つ。真ん中にはお茶請け。テーブルで相対するように母親とこれまた上等そうなスーツを着た男性が座っていた。
四十半ばから五十歳ぐらいだろうか。白髪が少し混じった髪の毛はきちっとセットされており、縁無しのお洒落な眼鏡をかけていた。
「ソウタ。こっち座りなさい。あと挨拶」
「こ、こんにちは」
男性を観察していた僕は、母親の声に促され慌てて挨拶をした。あれ、今の時間はこんばんはだろうか? と一秒前の言葉を少し恥ずかしく思いながら母親の隣へと移動する。
母親が男性に頭を下げた。
「お待たせしてすみません、一条さん。息子のソウタです」
「いえ、こちらこそ急な訪問にも関わらずお時間をいただいて有り難うございます」
一条と呼ばれた男性も深々と頭を下げた。
そして僕はその苗字にとても聞き覚えがあった。
男性は微かに体勢を僕の方へと向けて、
「初めまして、ソウタ君。私は一条誠司といいます。君の同級生の一条真の父です」
僕は驚いたが、すぐに得心が行った。だって誠司さんの雰囲気は一条さんにとても似ていたのだ。吸い込まれそうな深い眼は、つい自分の気持ちを喋ってしまいたくなる印象だ。
僕も、遅れて自己紹介をする。
「は、初めまして。鳥淡高校二年の可児ソウタです。一条さんと……真さんとは、同級生をやらせてもらっています」
同級生とはやるモノなのか、と自分で疑問に思った。しかし誠司さんは気にした様子もなく「よろしくお願いします」と頭を深く下げたので、こちらも見よう見まねで下げた。
「一条さん、それではもう一度お話しいただけますか?」
母親に促されて誠司さんは話し始めた。
「はい。本日このような突然の訪問をさせていただいたのは娘の真とソウタ君の昨晩の行動についてお伺いしたかったからです。昨晩、正確には本日未明、娘が零時を超えて帰宅しました。もちろん、その時間は補導される時間帯ですし、そうでなくても親として娘がそのような時間に出歩く行為を見過ごすことはできません」
僕はぎくりとした。
昨日の帰り際、一条さんの強張った表情を思いだす。彼女が携帯電話を見て様子が変わったのはお父さんから連絡があったからかもしれない。
「親バカと思われるかもしれませんが、娘が理由もなくルールを破ることは考え難い。何か理由があるのではないかと尋ねたところ、見事にだんまりで。……いや黙っているのではなく、言いたくないの一点張りで」
それは何となく一条さんっぽかった。嘘をつくでもなく、黙り込むでもなく、単純に自分の気持ちを伝えている。
「職業柄、娘が誰かを庇っている雰囲気を感じました。相手方がいるのであれば、そちらにも憂慮する必要があります。話し合いの末、ソウタ君と一緒にいた、と真は呟きました。そうして、お昼すぎに可児さん宅へご連絡させていただいた次第です」
そこで誠司さんはまた僕の方へと体を向けた。
「一つだけソウタ君に伝えておきたいのは、真は本当に頑固だったし、保身に走って君の名前を出したわけでもないんだ。ただ、未成年による深夜徘徊はいけないことだ。大きな事故や事件に巻き込まれる可能性もある。その事実は、やはり確認して保護者の方とも共有しないといけなかった」
僕は震えながら小さく頷いた。
……隣から物凄いオーラを感じていたから。
「ソ・ウ・タ? 今の話はほんとう?」
「ほ、本当、です」
「他所様の、しかも娘さんと深夜に遊んでたって?」
「い、いやその言い方は語弊があるというか」
「ソウタ! アンタは!」
小さな一軒家に乾いた音が響き渡った。
すっかり暗くなってしまった道路を男が二人歩いている。
一人は僕だ。もう一人は一条さんのお父上こと誠司さん。あの後、不思議な生物のことを隠しながらも概略を吐かされた。そして誠司さんから歩きながら二人で話さないか、と提案をされたのである。
「僕は目的地を持たずに歩くことが苦手でね。近くに自動販売機とかないかい?」
そのように誠司さんに尋ねられてゆっくりと案内している最中だ。誠司さんのプライベートの一人称は『僕』だったらしい。
「いやぁ、それにしても豪快なお母さんだね。尊敬するなぁ。同じ親として見習うべきところが多々あった。僕もあんな風にできればいいんだろうけど」
おかしなことを言われた。
少しだけ前を歩いていた僕は振り返って、自身の左頬を指でちょんちょんと差してやった。指の先には真っ赤な紅葉が残っているはずである。
……実際にはそんなコミカルな状態にはなっていないのだろうけど、まあ少しは赤くなっていると思う。めっちゃ痛かったし。
すると誠司さんは僕の顔を見て、ふふふ、と笑いやがった。
ジト目を向ける。
「ああ、ごめんごめん。思い出してしまって」
誠司さんは真面目な顔になった。
「確かに如何なる理由でも暴力はいけないことだし、ましてや虐待なんてものはもってのほかだ。許せない行為であることに間違いはない。
だから、もし君がそう訴えるのであれば私も全身全霊で君の力になることを誓うよ」
とんでもない宣言をされてしまった。こちらとしては、ちょっとした意趣返しのつもりだったのだが。
「……いいですよ。冗談です。悪いことをしたのは僕の方だってわかってますよ」
「うん。だろうね。他人の僕でも理解できるぐらい、あのビンタはわかりやすかった」
その声色はまた柔らかいものへと戻っていた。
住宅街から外れた街灯も少ない道路を二人して歩く。
右手には草木が生い茂り山へと広がっている。虫たちの鳴き声が途切れ途切れに聞こえていた。
歩きだと自販機まで結構距離があるんだな、と思った。自転車であればとっくに着いている。
もしも僕がもう少し大人になってバイクや車に乗れるようになったとしたら、どうなるのだろうか。こんな自販機までの距離なんて何のその。隣の街にも簡単に行ける? 隣の県へも? もっと遠くへも? 僕が住んでいるこの街は、実はとっても小さい世界だったりするのだろうか。
それはとてもワクワクするけれど、少し淋しいのかもしれない。
すると誠司さんが、
「結構歩くね」
と言った。
大人になっても距離の感覚は変わらないらしい。
それに僕は何故かホッとしながら答えた。
「田舎ですからね」
「そっか。そうだったね」
親子ってのは返事まで似るものなのかと思った。
更に少しだけ歩いて自販機に到着。暗がりの中を自販機だけが煌々と光っていた。田舎でその光に集まるのは人よりも圧倒的に虫たちの方が多い。そんな常連さんを振り払って一見さんの僕らはそれぞれ飲み物を買った。
自販機から少し離れた街灯の下で奢ってもらったコーラを口にする。もちろん赤いヤツ。誠司さんはコーヒーを買っていた。こっちは黒いヤツ。
「ブラックコーヒーなんてよく飲めますね。苦くないですか?」
「うん? うん苦いね。苦いけど飲めない苦さじゃない」
「苦いのに飲みたくなるんですか?」
「うーん。そうだね。癖みたいなものかな。カフェインに依存しちゃっているのかも。よくないんだろうけどね。でも……僕も若い時はコーヒー飲めなかったなぁ」
「大人になったら飲めるようになる?」
「個人差はあるだろうけどね。人の舌には味蕾細胞っていう味を感じる細胞があるんだけど、それは年を重ねるとともに減っていくらしい。ふふ、わざとかは知らないけど皮肉的な名前をつけるよね。確かに大人になると、色々と鈍感になっちゃうんだよ。苦いと感じるのはソウタ君の感覚がまだまだ繊細ってこと。それはきっといいことだ」
誠司さんは「若いねぇ」と笑った。
彼はブラックコーヒーを持ったままで開けようとしない。手遊びのようにコーヒー缶を回しながら描かれているロゴを眺めていた。
「……ソウタ君」
こちらに真っ直ぐに体を向ける。
「はい」
「君の言葉を信じていないわけではないんだ。君が潰れたパチンコ店を秘密基地のように使っていて、たまたま真がそこにやってきた。その話を僕は信じる。それでもやはり真が連日にわたり、ルールを破ってまで深夜に出歩いていた事に納得がいかない。……気を悪くしたなら謝る。けれど、何か真の気を引く言葉を言ったりはしていないだろうか」
沈痛な面持ちだった。
そして、言った。僕は言っていただろう。あの日学食で。一条さんの気を引くようなことを。別に隠しておけばよかったのに、テキトーな自分の考えを彼女に話してしまった。
「……言った、かもしれません」
「そうか」
低い声が返ってくる。
もう一枚紅葉をもらうかもしれないな、と少し覚悟をして目を瞑った。
……しかし、いくら待っても痛みは訪れない。
ゆっくりと目を開く。
そこには頭を下げる立派な大人がいた。
「ソウタ君にお願いがあります。今後真と関わらないでくれ、とは言えない。君と真がどういう関係なのかも僕はわかっていない。ただそれでも約束だけはして欲しいんだ。真はしっかりしているけど、やっぱりまだ十七歳で間違ってしまう年齢だ。きっと、それは君も同じ。だからこそ、間違っていると感じたら一緒になって間違いを犯すのではなく、間違っていると糾して欲しい。———それを約束してくれないか?」
僕は誠司さんの姿を見て呆れてしまった。
一条さんに、呆れてしまった。
お父さんの気持ちがわからない? そんなわけあるかよ。もし本当に気づいていないなら男を見る目がなさすぎる。将来が心配だ。こんなのわかりやす過ぎじゃん。こんな、まだ一人で生きてもいけない子供に立派な大人が頭を下げるほどに。
僕は誠司さんの行為に胸打たれたけど、その誠意に応えることはできなかった。だって————。
「約束は、できません」
誠司さんが頭を上げる。表情は穏やかだった。
「君は律儀なんだね」
「それ、言われるのは二度目です」
会話が途切れる。
どちらからとも知れずに帰路へと着いていた。
先程もみた風景を今度は逆側から見ている。前を歩くのも僕ではなく誠司さんだった。道はすでに覚えたのだろう。
行きよりも歩みが早い。あと数分で自宅へと到着する。彼の目的はさっきの問答だったみたいだ。
だから、これは不要の話。いや無用の話かも知れない。
「せ、誠司さん」
僕は前を歩く大きな背中に話しかけた。
「なんだい?」
歩みは止めないが、彼は答えてくれた。
「こんな、ただの高校生に言われる筋合いはないかもしれないですけど。それでも、言っておきたいことがあります」
「うん。続けて」
「きっと、二人とも相手の事を考え過ぎているんです。ううん、相手の事しか考えていない。相手の事だけを見て、自分の事を見ていないから。だからいつまでも視点が合わないんだ。お互いがお互いに相手の話しかしないから。話がすれ違うんだ、と、思います。
……ま、真さんの事を大切に想うのなら、真さんだって誠司さんの事を大切に想っているって信じるべきです。そうじゃないと、不公平だ」
誠司さんの足が止まる。低い声で呟くように言葉が返ってくる。
「至言だね。でも、どこか年季が入っているような気がする」
「……請け売りです。昨日の夜、頑固な婆さんから買い取りました」
「そっか……。それは、いい買い物をした」
それ以上の言葉はなかった。
自宅へ着いて、社交辞令的な挨拶が母親と誠司さんの間で交わされているのをぼうっと眺める。
言いたい事は言った。後から思い返すと恥ずかしくて死にたくなるような内容だとしても。想ったことは言葉にのせて。
こうして、不思議な生物を巡る僕の物語は初恋とともに終わりを迎えた。
◆
八月二日 八時五十分
汗だくになりながら北校舎の廊下を歩く。学校全体が太陽によって焦がされている。窓から入ってくる風も何となしに弱々しく感じる。この酷暑によって風すら夏バテ気味なのだろうか。まったく、最近の風は根性が足りていないな。
グラウンドからは蝉の音をバックミュージックにして野球部の声が聞こえてくる。
夏休みに入ってから初めての登校だった。もちろん補習のために来たのではない。赤点はしっかり、きっちり回避していた。僕が登校しているのは単に部活のためだ。僕の所属する美術部は夏休みの期間中、強制での活動が週一回の月曜日のみであった。後の火曜から土曜に関しては美術室の鍵を開けてはくれるけど活動自体は自由となっている。美術部に入部している大多数の者は帰宅部代わりとしてこの部活を選んでいるため月曜日以外の出席率はかなり低い状態だ(と思う。今日が初登校なので実際はわからない)。美術部の中ではどちらかというと頑張り屋な僕なので、本来なら毎日登校する予定だったのだけどばあちゃんの葬式とかでバタバタしていてようやくの登校となったわけだ。
———七月二十六日の朝方。岐阜の病院から、ばあちゃんの容態が急変したとの連絡があった。敗血症による多臓器不全。集中治療室に入れられ懸命に治療をしてもらったがそのままポックリと息をひき取った。別段、珍しくもない話らしい。そこからはてんやわんやで僕も岐阜へと向かう事になった。お通夜とか葬式とか大人達は忙しなかったが、僕は特にすることがなく暇だったので絵を描いていたら親戚に褒められた。自尊心がまるっと回復した。母親には手伝えと怒られた。意外にすることはあったらしい。
ちなみに、少し前に母親が悩んでいた尊厳死について。お通夜の時に母親のお兄さん、つまり僕の叔父さんと喋ったのだが、どうやらばあちゃんは遺書を残していたそうだ。遺書というか調べたところリビング・ウィルというものらしい。
最後まで自分らしく生きるために、意識がしっかりしているうちに意志を記しておく。
いざという時に家族が迷わないための道標。
それが法律的にどうかとか、だから治療を行わないとか、そういうことができる代物なのかはよくわからなかったけれど。
それでも、ばあちゃんは残してくれていたらしい。
僕の行動は杞憂だったみたいだ。
美術室が見えてきた。固いドアは開け放たれていて、中の様子が伺える。本日は金曜日のため、やはり人は少なそうだった。ドアを越えようとした瞬間、目の前に細い影が走った。
トンッと壁に着く音がする。
見やると美術室への侵入を塞ぐように橋がドアから壁へと架かっていた。それは白く華奢でメダカのお腹のように滑らかなふくらはぎだった。
その通せんぼしているふくらはぎから線をなぞっていく。太もも、腰部、腹部、膨らみ、そして顔へと視線を動かす。
「何だよ、雲母。あんまりスカートでこんな事しない方がいいぞ」
半袖のセーラー服を着た雲母が開け放たれたドアを背もたれにして、腕を組みながら立っていた。右足は壁へと伸びている。いくらスカートの丈が長いからといって、女の子がする体勢じゃないだろう。
「ふん。パンツなんて気にしませんよ。だって今の先輩なんかハチミツ大好き黄色いクマさん人形と変わりませんし。ただのプーです」
「おいおい、敬称をつけろよ。敬称を」
「……はぁ。そんな事はどうでもいいんです。今日八月二日ですよ。なのに夏休みに入って初登校が今ってやる気なさ過ぎじゃないですか? 先輩の取り柄なんて、模写が上手いのと絵に直向きなところだけなのに何をサボってるんですか。舐めてんですか? ああ、そっか。舐めてるんですね。甘い蜜が大好きですもんね、プータローさん」
タローはつけてくれるな。一気に可愛くなくなるから。
雲母はやけに不機嫌だった。てか辛辣すぎん? 確かに休んでいる理由を伝えてなかったけど。
「と、言うか! これ!」
雲母がふんっと細長いペラ紙を見せつけてきた。内容を確認すると、どうやら雲母の成績表であった。
鳥高は学年末に五段階で評定をつける。学期末には中間考査、期末考査それぞれの成績と順位が書かれた紙が配られるのみである。
内容は———主要科目全て学年一位。
「……は?」
目をゴシゴシと擦って再度確認。
————主要科目全て学年一位。
「はぁ!?」
雲母はこれでもかと言うほどのドヤ顔を見せつけてくる。
「ふっふっふ。褒めてくれてもいいんですよ」
なんかムカつく。ムカつくのだが実際に成績表を見せられたからには認めるほかなかった。
「……まぁ、うん。……すごい」
「ふうん。素直ですね。もっとカンニングしただろ、とか駆けっこで全員一位は聞いた事があるけどまさかテストでまで全員一位にするとはゆとり教育もここに極まったな……とか食ってかかってくるかと思ったのに、あっけないなあ。
でも先輩に褒められるのは悪い気しないかも。毎朝出待ちしていた甲斐がありました」
コイツ、調子に乗っているな。確かにその難癖は一瞬よぎったけども。
「毎朝出待ちって。前から思っていたけど雲母って僕のこと結構好きだよな」
冗談めかして言うと、雲母はまるでツチノコでも踏んづけてしまったような顔をした後、楽しそうに笑った。
「へぇ、いいじゃん。トラウマ乗り越えてパワーアップみたいな? うん! 好きですよ。そーゆう展開。でも描き方は変えちゃダメです。そっちの方が燃えるんで」
雲母は脚を下げると、くるっと半回転して、
「えーなぁんだ。そういうことなら早く言ってよ。じゃあ今回は特別に許してあげます」
満足そうに中へと戻っていった。本当に言っている意味がわからない。
「あ! あと可愛い後輩の言葉を信じなかった罰としてお昼ご飯奢ってくださいよー!」
何やら不穏な言葉が耳に届いたが、気のせいだろう。うちには可愛げのない後輩しかいないからな。
美術室に入ると、蒸し風呂状態であった。
夏休みはここで過ごさないといけないかと思うと嫌になるが、まあ、夏って感じだな。
ちょっと不思議な夏の入り口を抜ける。そこには茹だるような普通の夏が待っていた———