レイヤー4 前編
『私、A君のこと大好き!』
好きを語った。
『Bさんのお宅は本当に仲がいいわねぇ。おしどり夫婦っていうのかしら』
幸せそうだった。
『ウチら一生マブダチじゃん。隠し事はなしね!』
友達だった。
『……A君って、なんかムリ』
好きではなかった。
『ねぇ聞いた? Bさんのお宅離婚したんだって〜。あんなに仲良さそうだったのにね。……実は旦那さんが浮気してたらしいわよ』
幸せではなかった。
『アイツさ、裏でウチらの悪口言ってたんだって。まじウザくね。明日からハブろ』
友達ではなかった。
あぁ、ほんっとに、ニンゲンってむずかしい。
七月十一日 十三時五分
お手洗いから教室に戻ると、自分の席に女子が座って友達と駄弁っていた。どうしたものか、と僕は教室の入り口で足を止めた。
席に居たのはちょいギャルの須藤さんだった。明るめの髪色に着崩した制服。胸元には学校指定の紺色リボンではなく真っ赤なスカーフを巻いており、スカートの丈は短く、足を組んで座っていると中々に際どい。制服を着用する場合には校則で決められた基準を守らないと先生に怒られてしまうのだが、女子生徒たちはそれを承知の上で改造制服を着る。
「私服登校オーケーなのだから別に改造制服でなくても私服で来ればいいじゃないか」
一年生の頃、クラスメイトと喋っていた時に僕はうっかりそのようなことを口にしてしまった。するとお調子者のそのクラスメイトは近くにいた女子に、ご丁寧に脚色を加えた上で僕の発言を告げ口しやがった。そう。竹中あのヤロウだ。奴の軍略に嵌った僕はクラスの女子から猛批判を浴びた。なんでも、制服を着ることができる期間はとても短い。そんな自分の価値を最大限に発揮できる時期に旬のアイテムを選択しないなんてナンセンスすぎる。ただ、校則通りに着ると可愛くないし個性も出ないから精一杯に自分をアピールするのだとか。所謂、女子高生のマーケティング戦略であったみたいだ。僕はその返答にとても納得がいき、素直に謝った。決してクラスの女子を敵に回すのが怖かったわけではない。決して。
とまあ、僕のように着る服が決まっている方が楽じゃないか、などというマイナス思考の考え方ではなくプラス思考の考え方で女子高生は制服を着ているわけだ。だから彼女たちにとっての改造制服はおしゃれの一種であり、別に他者への威嚇という意味合いを含んでいない。ギャルっぽく見える須藤さんも、話してみたら割と素朴で素直な良い子であることを僕は知っていた。
いや、わかる。なら別に一声かけて退いてもらったら良いじゃんってのは僕もわかっていた。でもさ。退いてもらった後に僕が自分の席ですることなんて、チャイムがなるまでスマホを弄るくらいだし。それなら健全に友達とコミュニケーションをとっている人を優先した方がいいんじゃないか、とも。
悩んだ末、予鈴が鳴る二十分まで時間を潰す事にした。大抵の問題は時間が解決してくれるのが学校の良いところだ。
そうだな、少し離れた自販機にでも行こうかな。
僕は北校舎と体育館の渡り廊下にある自販機へと足を向けた———。
◆
七月十一日 二十三時
「ううーん。これは……どう採点すべきだろうか。なかなかイヤらしい事をするんだね、可児くんは」
右斜め前に座る一条さんは首を傾げながら指先を口元に置き可愛らしく唸っていた。
「……変な言い方はよして欲しいんだけど」
「いや、でもね可児くん。今の私の気持ちを具体的に表現すると、国語のテストで『登場人物の気持ちを答えなさい』っていう問題の解答欄に内容は合っているけど文章がギャル語で書かれていた、みたいな感じなんだよ」
……なんだ、その例えは。ちょっと面白いじゃないか。
「へぇ、ユニークな生徒もいるもんだ。僕なら花マルをあげちゃうけどな」
「そうなんだよね。ユニークっていうのは個性だと思う。他と違うから、一般的でないからってその子の答えをバツにすることもおかしいのだと私は思ってしまうんだ。けれど、やっぱり現代の普遍的な表現方法は覚えておいた方が良いとも思う。そもそも文字とか言葉っていうのは時代によって移り変わっていくものだから———」
「待って! ごめん! わかったよ。僕が間違ってた」
僕が謝ると、彼女はキョトンとした後に満面の笑みで「よろしい」と返してきた。
彼女に見せつけるようにテーブルに置いていた『野菜がたっぷり入っているらしいカップ麺』と『一日分の野菜を摂れるらしいジュース』と『棒状に固めたタンパク質』を手繰り寄せる。
「そういったものを利用することが悪いとは思っていないけど、あくまで補助として使うべきです。それに相手を揶揄うために自分の食事を決めるものじゃないよ」
諭されてしまった。確かに意地が悪かったかもしれない。反省しよう。あと思ったよりも高くてお財布に厳しい。
僕はカップ麺をずるずると啜る。今日のは熱湯五分の製品。まだ麺は伸びていなかった。
「そもそも何で夕食がこんな時間なの? それも体に良くないよ」
「忘れちゃうんだからしょうがない。あんまり食事に頓着しないタイプなんだよ」
一条さんは僕の言葉に何やら返そうと口を開けた後、その口をつぐんでしまった。そして少し悲しそうな顔になった。彼女はたまにこういう仕草をする。訊いて良いことなのかを考えている。今回は訊くべきではないと判断したみたいだ。
「……別に親と仲が悪いとかじゃないよ。一条さんが考えているようなことじゃない」
「それならよかった。……可児くんは人の心が読めるんだね」
彼女は安堵した表情だった。それに対して僕は、
「ハハっ、読めるわけないだろ」
———嗤ってしまった。
その馬鹿みたいに純粋な発言に対してではなく。馬鹿な自分に。笑った僕を彼女は驚いたように見つめていた。なんだか、気恥ずかしくなって僕は口を開いた。
「ばあちゃんが、岐阜にいるんだよ。母親はその看病、って言っても入院しているから世話は看護師さんがしてくれてるんだけど」
話を始めてから、しまったと思った。これは必要のない会話だ。けれど。一条さんを見る。彼女と目があう。その深い瞳に吸い込まれそうになった。
「言いたくない事ならいいよ」
「……いや、別に隠すような事でもないし。よくある話だよ」
僕は毎晩、不思議な生物に会いに来る理由を話すことになった。
「ばあちゃんはさ、あ、母方の方のね。岐阜県の病院で入院しているんだよ。じいちゃんが七年前に死んで、それからずっと一人暮らしをしていたんだけど足が悪くなってきていて。母親がこっちで一緒に暮らさないかって説得していたんだけど頑として首を縦に振らなかった。そんな頑固婆さん。
僕が六歳になるまでは岐阜で一緒に暮らしてたんだけど、普通孫ってさ、目に入れても痛くないとかいうじゃん? もう全然。めっちゃ怒られるし、子供に言うかよってことまで言ってくるし。すげぇ怖かったんだぜ」
僕が少しおどけたように言うと、一条さんも表情を和らげてくれた。
「いいお祖母さんなんだね」
「えー、今の話でそんな感想になる?」
彼女は「うん」と頷いた。
「まあいいや。そんな頑固婆さんが三ヶ月前、いやもう三ヶ月半ぐらいになるのか。階段から落ちた。それで頭を強く打って救急車で運ばれた。階段から落っこちた音に、たまたま近くを通ったお友達が気づいてくれたらしい。そのおかげで運よく命は助かったけど、意識は戻らなかった。今も戻っていない。所謂、植物状態だ。管なしじゃ生きてはいけない状態。それが三ヶ月半。回復する見込みはかなり低いらしい」
一条さんは有難いことに真剣に聞いてくれた。哀しい顔をするでもなし。とても真っ直ぐに。
「そうなってくるとさ。やっぱり考えるじゃん。このままでいいんだろうかって。このまま管に繋がれた状態で生きたいのだろうかって。……そうなるじゃん」
「そうだね」
「それはきっと母親も一緒で、だから最近は僕にばあちゃんの話をしたがらなくなってるんだけど。子供が気にするようなことじゃないってね。で、そんな時に、あの不思議な生物に出会ったんだよ。人の本心のようなものを映し出すアイツに」
僕は気持ちよさそうに寝ている狸をチラリと見やる。一条さんもつられて視線を合わせた。
「……そっか。それで毎日お祖母さんが出てくるのを待ってるんだ」
無言の肯定をする。「じゃあ……」と彼女は続ける。
「イヤなら答えなくてもいいです。可児くんはお祖母さんの本音を聞いた後、どうするの?」
もしも。あの不思議な生物がばあちゃんの本音を聞かせてくれたとしたなら。生きたいのか、それとも———。
その答えが聞けたのだとしたら。
……そんなの決まっているじゃないか。
「どうもしないよ」
「どうも?」
「うん。ただ、ばあちゃんの本音ってこうだったんだって思うだけ。母親が言っていた通り、こんなの子供の気にすることじゃないんだろう。
けどさ、馬鹿馬鹿しいじゃん。真剣に考えて、考えて、考え抜いて出した答えが誰にも採点されないなんて。唯一、その答えを知っていて採点できる人が目覚めなくて。一生、自分の選択がマルかバツかわからないまま生きていくなんてこと、しんどいじゃん。こんな証明が不可能な問題は相手にしない方が正解なんだよ。人生にはきっと他にも問題が山積みで、そっちの答えのある問題を解いた方が点数が高くなるんだから。それでも、僕たちはこの問題を解こうとしてしまう。だから僕がカンニングをして、こっそりと採点してやるってだけ」
これは僕の本心であった。何故だか彼女には喋ってもいいかなと思ってしまったんだ。
一条さんは「ありがとう」とだけ言って黙り込んだ。
くうくうと不思議な生物の寝息だけが聞こえる。
窓からは月の光が差し込んでいる。手元のランタンが淡い黄色の光を放っている。なんだか今日は絵を描く気分にならなかった。
紙パックの野菜ジュースにストローを突き刺して赤い液体を吸い上げる。意地悪で買ったものだが、思ったより不味くはなかった。野菜ジュースなんて最後に飲んだのはいつだっただろう。小さい頃の記憶のまま、不味いものだと思い込んでいた。これは企業努力だろうか、それとも僕の味覚が大人に近づいたのだろうか。
「私はね……」
静謐な暗闇をか細い声が透き通った。
一条さんの方を向く。俯いていて表情は見えない。
「私は、八年前、お母さんに命を救われたんだ———」
……ああ、だから僕は話すべきではなかったのだろう。途中で気づいた時に止めるべきだった。
だって、僕が理由を話したのだから彼女も話さないとフェアじゃない。勝手に話し始めたことだろうと。きっと彼女はそういう生き物なのだ。
僕は一度目を瞑る。数秒間。意志を固めて目を開けた。
「……八年前って?」
彼女は「優しいんだね」と言ってから、椅子を僕の正面、二人分ほど離れた位置に動かして話し始めた。
———八年前 八月五日
私たち家族は遊園地に出かける約束をしていた。当時、私は九歳だった。私とお母さんとお父さんの三人家族。私は本当に楽しみにしていて、その日が近づくにつれて夜もあんまり眠れなくなっていって。けれど、その前日、八月四日の夜。お父さんが急に謝ってきた。大事な仕事が入って遊園地に行けなくなってしまったのだと。その時のお父さんは知り合いと事務所を立ち上げたばかりで、とても忙しそうにしていたから仕様がなかったんだって、今は思えるのだけど。その時の私はホント憎らしいくらいに我儘だったの。
「イヤだ! 約束してたもん! なんで? 私の方が先に約束してたよ? なんで約束破るの?」
私は泣いていた。わんわんと泣いて、泣き疲れて眠ってしまって。朝起きたらお父さんは仕事に行っていた。だから、また泣いた。
すると、お母さんが、
「それじゃあ、お父さんには内緒にして二人で遊園地にいこっか?」
私は頷いた。遊園地に行きたかったのもあるけど、なんだかお父さんに仕返しができたみたいで少し楽しくなってしまったから。
遊園地は隣の県にあった。元々の予定では家族三人、お父さんの車で向かうはずだったけど。それができなくなったので電車を使わないといけない。駅へは歩いて行ける距離でもないのでバスに乗る必要があった。
鳥淡市営バス。九時二十五分。鳥淡駅行き。
蝉が忙しなく鳴いていた。茹だるような暑さ。夏にピッタリの水玉模様のワンピースに汗が滲む。ギラギラと照りつける日差しの中、お母さんが私に麦わら帽子を被せてくれた。私たちはバスを待っていた。
本当に、あと一本早ければ。遅ければ。どれだけよかったのだろうか。
バスがやってきて私たちの前に停まってしまった。後部の乗車口から整理券を取って乗り込んだ。
車内は空いていて、バスの一番前の席に座ることができた。通勤時間を過ぎているため私たちの他には高齢者が多かったが、中年男性や私よりも背の小さな子供を連れた女性も乗車していた。
お母さんは私の席の隣で吊り革を持ちながら立っていた。一人用の席だったけど、後ろの席が空いていたから「座らないの?」って聞くと「大丈夫」と言われた。
バスはごーごーと進んでいる。使われていない吊り革が揺れている。とても静かな車内にバスの声だけが木霊する。みんなは行儀良く次のバス停に着くのを待っている。街中を走り回るバス。スピードはそんなに出るはずもない。出るはずもなかった、はずなのに。
ごーごー。ごぉごぉ。
ゴーゴー。ゴォゴォ。
次第にバスの声が恐ろしく変わっていくのを感じた。窓から見える周りの景色が映っては溶けていく。揺れは激しく地響きのように。まるで怪物の胃のなかにいるみたい。車内の乗客たちも異変に気付いてザワザワとし始める。異様な空気。私は怖くなってお母さんのスカートを握りしめた。
走る。
走る走る。
走る走る走る。
走る走る走る走る———
誰かが叫んだ。
「おい! スピードを落とせ!」
次の瞬間、体が浮いていた。いや違った。浮いていたのは私の体ではなく大きな鉄の塊だった。
視界が回る。上も下も。天井も床も。空も地面も。わからなくなって、ただ一つわかったのは、あたたかい柔らかな体に包まれていたということだけだった———。
その後のことはあまりよく覚えていない。目の前は赤と黒で塗り潰されて、生臭い煙と焦げた鉄のような匂いがして、私の手には温かい真っ赤な———
「一条さんっ!」
僕は手元にあったコンビニのビニール袋を持って嘔吐いている一条さんの元へと駆け寄った。ビニール袋を手渡す。彼女は袋へと顔を突っ込み、吐いた。ビニール袋に液体が落ちる音がした。
一条さんはしばらく喘鳴まじりに咳き込んでいた。
少しずつ呼吸が安定してくる。ようやく顔を上げた一条さんは見るからに真っ青だった。
「……ありがとう。もう大丈夫だから。不快にさせてごめんなさい」
「無理しなくてもいいって」
「ううん。あとは結末だけだし。喋らせて」
僕は溜息を吐いた。
「水持ってる? 一旦水分摂りなよ」
促すと彼女はボトルポーチから水筒を取り出して、液体を含んだ。液体を嚥下する微な音。喉を通過して体内へ補給される様子を確認する。
口から水筒を離して小さく「ふぅ」と吐息が聞こえた。顔色は先ほどより幾分マシになっていた。
僕は自分の客席へと戻った。彼女も自身の高座へと座り直す。
「……はぁ、よし。
バスは物凄い速さで縁石に乗り上げて宙に浮いたあと、ビルに衝突したらしい。私はすぐに気を失って、次に目を覚ますと病院だった。右腕の骨折と打撲。あの悲惨な事故の中で奇跡だって言われたよ。
けれど、お母さんは死んでしまった。
それで可笑しいのがさ。お父さんが病院に駆けつけてきて、私に会った瞬間なんて言ったと思う?」
彼女は可笑しいと言ったけど、その顔は一切笑っていなかった。
「……なんて言ったん?」
彼女の口ぶりからイヤな予感がした。あまり聞きたくない言葉を想像してしまう。
「ふふ……『生きていてくれて良かった』だって。何が良かったんだろう。だってさ、お母さんは私を庇って死んじゃったんだよ? お父さんはお母さんが大好きだったのにね。
お父さんは笑顔でそう言った。けど、お父さんって嘘がとても苦手なんだ。嘘がすぐに表情に出る人だったから、子供ながらに分かっちゃった。ああ、この人は嘘をついているんだなって。だって、ものすごく下手くそな作り笑いだったんだもん」
……何が可笑しな話なのだろうか?
その笑顔は確かに作り物だったのだろうけど。そんな状況に遭ってしまったら笑顔になんてなれるわけない。その中で必死に笑顔を作ろうとしたのは何の為だったのか。
だから今の話の中での嘘は表情だけだ。作り笑いだからって、その口から出た言葉まで嘘なわけじゃない。
と、僕は感じたが、一条さんはそう思えなかったらしい。主観と客観では見える景色が違ってくるし、仕方ないのかもしれない。
「……つまり一条さんはお父さんの本音が知りたいってこと?」
彼女は言葉を詰まらせる。肯定も否定もなかった。
知りたくもあるし知りたくもない、ということかな?
「……その事故について調べてもいい?」
彼女はゆっくりと首肯した。ポケットからスマートフォンを取り出して電源をつける。暗闇の中に眩しい光が放たれた。僕は目を細めながら画面の明るさを下げた。インターネットで検索をする。
———鳥淡市営バス 事故
一番上に出てきたウェブサイトをタップして閲覧する。
【鳥淡市営バス衝突事故 最悪の事故の中でのたった一つの奇跡・母の愛】
『八月五日 午前九時四十分頃 乗客を乗せた市営バスが三階建てビルへと衝突した。死者は運転手を含む乗客六名、重軽傷者七名の最悪の事故であった。バスは法定速度を大幅に上回る速さで縁石に乗り上げ、ビルへと衝突。事故現場にブレーキ痕はなく、ドライブレコーダーの映像から衝突前に運転手は意識を失っていたのではないかとみられている。
そんな最悪の事故の中で奇跡的に助かった一人の女の子は救出時に母親に抱き締められていた。母親は外傷性ショックで即死であった。女の子は右腕の骨折と打撲という重傷を負ったが命に別条はなかった。母親が庇っていなければ女の子の命がどうであったかわからないと関係者は話している。まさに母親の愛が娘を救ったのだ』
よくある記事だ。みんなが好きな美談だ。
けど、なんだかなぁ。
「……なんて書かれてた? お母さんの愛が私を救ったとか?」
「まあ……そんな感じ」
「ほんとにね。自分がイヤになる。お母さんの愛は私を救ってくれたのに、私の愛ではお母さんを救えなかったみたいだ」
……それは、無理だ。
一条さんの呟きを心の中で否定する。だって体格が違う。子供じゃ大人は救えない。
愛だ、奇跡だと言っているけど、実際のところは文字通りお母さんが身体を張って娘を守ったという話なんだ。比喩表現をそのまま受け止めてはいけないことぐらい一条さんだって分かっているはずだ。
ただ、考えてしまう。
この記事は誰に対してのものだろうか。誰の心へ届けと願って書かれたメッセージだろうか。
もし僕が何も知らなくて関係のない赤の他人だったなら、この記事を読んだ時に「母親の愛は偉大だなぁ」なんて感想だけを抱くのだ。でも僕は知ってしまっている。
きっと筆者も誰かを傷つけるつもりなんてないのだろう。本心から感動して美談だと思って書いているのかもしれない。けれど、彼女の様子を見たらこれが美談だなんて僕には決して言えなかった。
結局は受け取り手の状況次第だ。誰かを感動させる言葉も誰かを傷つけることがある。ほんと言葉ってのは———
「ままならないよなぁ」
つい独り言を呟いてしまった。誰に対してでもない。何の意味もない言葉。宙に浮かんではすぐ消えていくだけのものだった。
「…………ぷっ、ふ、ふふふ」
なぜだか一条さんには笑われてしまった。
「な、なんだよ」
「ふふ、ごめんね。わからないけどツボに、入っちゃった」
彼女はまだ口を押さえながら笑いを殺そうと必死だった。それだけ笑われるとなんか、あれだな。
そんなに変なこと言ったかな?
僕らの会話はそれっきりで、後は静かに今日の主役を待つだけだった。
———しばらく経って、すやすやと眠っている狸の額が光る。周りを一瞬だけ包む青白い輝き。
奥の暗闇から女子高生が現れた。またしても鳥淡高校の制服を纏っているが、かなり着崩していた。メイクもしている。しかし、まだ慣れていないのだろう。お世辞にも上手だとは言えない。やっぱり、すっぴんの方が遥かに可愛いだろうに、と思った。
『てかさぁ』
女子高生は紅が塗られた赤い唇の端を歪めた。
『雲母ってなんか、ちょっと変だよね。変っていうかウザい? 感じ。だってアタシらもうJKよ。それなのにアニメの話とかしてきてマジで恥ずいんだよねー。格好もダサいし。だから雲母とは教室で喋りたくないんよ。あんなの生まれ持ったモノがちょっと良かっただけじゃん。ホント空気読んでくんないかな?』
女子高生はケタケタと笑った。
『雲母が持ってきてたカード? か何か知らないけどさ、そんなのアタシら興味ない訳。それなのに自分が好き勝手に喋って、アタシらが嫌そうにしてたの全然気づかないんだもん。あれって、もしかしてオタク受けでも狙ってんのかな。だっさ。
……いいじゃん。別に。雲母が勝手に落としたカードなんだし。地面に落ちてたらただのゴミでしょ。大切なものならそもそも落とすなって話。アタシらはゴミをゴミ箱に入れただけ。いいことしてるじゃん。ボランティアじゃん。……なのに、あいつ裏切りやがって』
悪びれもなく宣う。僕はスマホを手に立ち上がった。
『そもそも雲母が———』
「長い。それに同じ台詞は聞き飽きたし」
狸に向かって人口の光を放つ。闇に馴染んでいた視界が真っ白になった。狸は不思議な生物よろしく科学の力には弱いのだろうか。鬱陶しそうに両の眼を開けて、それと同時に女子高生も消え去った。
僕の顔を見た狸の口元は嫌味ったらしい弧を描いていた。
「なんだよ」
僕が一声かけると、ふんっと鼻を鳴らしてどこへともなく去っていった。
一条さんへと振り返る。顔色はかなりよくなっている。そして何やら考え事をしていた。
「雲母ちゃん……」
「ん? 雲母のこと知ってる?」
「それはもう。私と雲母ちゃんは同じ中学校だったし。私たちの中学校で雲母ちゃんのことを知らない人はいないよ」
「え、アイツ有名人なの? やっぱり何かやらかしたとか」
一条さんは「うーん」と少し悩んでいた。
「やらかしたと言えばやらかしたの、かな。一言で表すと雲母ちゃんは、天才なんだ———」