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レイヤー2

 七月九日 十二時五十分

「それで、どう言うことか説明してくれる?」

 目の前にはにっこり笑顔の刑事さん(一条さん)。問い詰められる容疑者(僕)。あとはカツ丼でもあれば雰囲気が出ただろうか。だが悲しいかな学生の昼食にそんな上等なものが食べられるわけもなく、僕の手元にはウィンナーが挟まった惣菜パンとツナマヨおにぎり。彼女の手元には可愛らしいお弁当箱が置かれていた。

 僕たちは学食でお昼を共にしていた。

 と言うのも、昼休みのチャイムが鳴ると同時に一条さんがうちのクラス二年一組に奇襲を仕掛けてきたのだ。どよめく教室。何故かソワソワし出す男子生徒諸君。嫌な予感がする僕。

「可児くんいますか? お昼を一緒に食べたくて」

 かくして僕の未来は決定した。一条さんからの取り調べが無事に終わって教室に戻れたとしても、今度は教室の男どもから尋問をされることは想像に難くない。そこらへん、思春期の男心というものを一条さんにも少しは考えて欲しかった。

 鳥淡高校の学食はお世辞にもちゃんと機能しているとは言えない。生徒達のほとんどは教室に残り、持参のお弁当かコンビニ飯でお昼を済ませている。何故って食堂の昼メニューがラーメン、うどん、カレーだけなんだもの。そんなもの栄養バランスで考えたらコンビニ弁当と大差ない。さらには学食のおばちゃんがマナーにうるさい人で食事中に騒いでいるとお叱りを受けてしまう。騒ぎたい盛りの、大多数の高校生にとってそれは面白くない話だろう。つまり、クラスの違う友達とお弁当を持ち寄る憩いの場としての機能もここには備わっていなかった。ではこの食堂は鳥高にとっての金食い虫、場所食い虫かと聞かれるとそうとも言えず(学生食堂だから別に利益を重視していないだろうけど)、一応この食堂にも天むすという大人気メニューが存在しているわけなのだが、大人気ゆえに食欲旺盛な運動部たちが昼休みまでに買い占めてしまうのである。そんなわけでお昼時に限っては、食堂を利用する生徒はかなり少ない。昼食を静かに食べたい生徒達が静寂を求めて食堂に集結する印象だった。

 学食の長机に数人の生徒がまばらに座って各々お昼ご飯を食べている。ある人はスマホを片手に、ある人は読書をしながら。そんな中、僕と一条さんだけが正面に向かい合って仲睦まじく? 食事を共にしている。

 僕は惣菜パンに手をつけながら小声で質問の意図を尋ねた。

「説明って何の?」

「宇田先生のこと」

「うん? うちのクラスでは体調不良のため休職って言われたけど?」

「それは私も今朝聞いたよ。そうじゃなくて、昨日の夜の宇田先生のこと。あんな、なんていうんだろう。先生の本音? みたいなものを聞いてしまって。それで本当に休職って……。

 そもそもあれは何だったの? 本物の宇田先生だったの?」

「だから、昨日はきっと一条さんも疲れてたんだって」

「ほら、また一条さん〝も〟って言った。可児くん、流石にその嘘に付き合い続ける気は私にはないよ」

 鋭い視線を向けられる。吸い込まれそうな程に深い瞳だった。こうも真っ直ぐに見つめられると目を逸らしたくなる。つい、ちら、と学校指定のセーラー服へ垂れ下がる透き通った黒髪に視線をやってしまった。

 ……あ、そういえば一条さんって普段は髪を下ろしているんだ。髪を結んでいる時と結構印象違うな、なんて関係のないことが頭に浮かんだ。

 まあ、いっか。

「はぁ……。これはあくまで僕の予想だし、突拍子もない話だから信じるか信じないかは一条さん次第なんだけど」

 と前置きをして、今までの経緯を正直に話すことにした。

 惣菜パンを半分くらいまで食べ進める。パンに水分を持っていかれた。水を含んで口の中のパンを胃へと強引に流し込む。

「一条さんも食べながらの方がいいよ。じゃないと腹ペコ状態で午後の授業だぜ」

「う、うん。そうだね……でも」

「僕が勝手に喋っているだけだし。お昼のラジオだと思ってくれたらいい。いくら一条さんでもラジオに気を遣いはしないだろ? あと途中途中でご飯を食べながらになるけど、それにはどうか目を瞑ってくださいますよう」

 渋々ながらもお弁当の蓋を開ける姿を確認して話を続ける。

「まず始めに、結論から言うと僕はあの犬とも狸ともとれない生物によって人の本音を聞かされているんだと思う。その人の形を借りて。つまり、昨日の宇田先生は本物ではなく幽霊とか幻といった類なんじゃないかな」

「それ、本当?」

「だから、あくまで僕の予想だって」

 一条さんは目をぱちくりとさせて訊いてくる。結局彼女が右手に持つ箸は動いていなかった。

「僕があの不思議な生物に出逢ったのは七月二日。二十三時ごろ。夜食を買いにコンビニへと向かう道中、道路の脇からアイツが僕の方を見つめていたんだよ。自転車を止めて近づくと少し逃げて、またこちらを見つめてくる。しかも何だかおでこが光っているみたいでさ。そんなの気になるじゃん。で、追いかけて行ったらあの潰れたパチンコ店にたどり着いたってわけだ」

「二十三時ごろって、また補導の時間……。はあ、ひとまずはいっか。というか、あの子ってやっぱりおでこが光っていたよね。蛍光塗料とかじゃないのかな」

「さあ、どうだろ。常に光っているわけじゃなくて光ったり消えたりしていたからなぁ。そもそも蛍光塗料って暗闇でも光るの?」

 どうでもいいことが無性に気になってスマホで検索する。どうやら暗闇でも光るのは夜行塗料とか蓄光塗料と言われるらしい。光が当たると電子が励起状態へ遷移し、それが基底状態に戻る時に……うんたらかんたら。

「そこで僕は昨日と同じ現象を見たんだ。初日は何が何だか分からなかった。けど、毎日通っていたら色々な人が出てきて。これはもしかしてその人の本音なんじゃないかって」

「今までの人は何を喋ったの?」

僕は「えーっと」と思い出しながら残っていた惣菜パンの半分を食べる。一条さんは未だ弁当に手をつけない。頑固者め。

「学校の関係者もいたし、そうじゃない人もいたけど。学校の関係者だけで言えば宇田先生を含めて四人の話を聞いた。

 その人の名誉の為に名前は伏せるけど、一人目のAさんは援助交際をしていて相手の人とトラブったらしい。お金がどうこうとか、学校や警察がどうこうとか、ヒステリックになっていて何言っているのか分からない部分も多かったな。理由は不明だけどその子は現在、停学になっている」

「……その子の噂は私も聞いたことがあるかもしれない」

「そっか。匿名にした意味がなかったね。二人目のBくんはどうやら二股をかけていたようだ。それでバレずに上手くやっていたもんだから、いけそうな子に三股をかけようかと画策していた。そしたらその二日後、Bくんの三股未遂がバレて女の子たちに校舎裏へ呼び出されたって噂を聞いたな。その後のBくんの頬には綺麗な手形が二つも」

 一条さんはこくりと頷いた。どうやらこの話にも心当たりがあるらしい。

「あとは、うぅん、えーと。その……とある先生が(かつら)だと自白しました」

「あぁ———」

 小さな口からは気不味そうな、悲痛な吐息が漏れる。どうやらこの話には心当たりしかないらしい。というよりも、鳥高生にとっては周知の事実となっているのだ。デリケートな内容なので深くは言及すべきじゃないのだろうけど、隠すならもっと上手に隠してくれと声を大にして言いたい。気づいていないフリをするのも大変なんです。

 一息ついて、残りの惣菜パンを食べ切り水で喉を潤す。ツナマヨおにぎりを手に持って包装を破きながら、

「学校の関係者以外だと不倫をしているご近所さんとかヘソクリを貯め込んでいるおばさんとか。内容の真偽は確かめられないけれど。あとは何も現れない日もあった」

「…………」

 一条さんは口元に手を当てて何やら考え込む仕草をとっている。癖なのだろうか。別にそんなに真剣に考える必要なんてない。今の話は妄想癖のある男子の戯言で、昨日の現象は疲れやストレスからくる一過性の幻覚だったと思うのが一番簡単で正しい判断なのだから。そんな僕の淡い期待を彼女は軽々と跳びこえる。

「わかった。話してくれてありがとう。じゃあ、私も今日から通うことにするね」

 口に入る直前のツナマヨおにぎりは宙に浮いたまま静止した。

「は? なんで?」

「それは———私には、本音を知りたい人がいるから」


    ◆


 七月九日 二十二時四十五分

 僕はコンビニで悩んでいた。とても悩んでいた。

 お菓子コーナーの前でウロウロとし、あれじゃない、これじゃないと考えを巡らせる。

「女の子が好きそうなお菓子って、なんだ?」

 いつもの如く夜食を選んでいるのだが、今日から一条さんもご一緒することになってしまったわけで。何となく、本当に何となくだが、いつものジャンキーなスナック菓子を選ぶ気にはならなかった。

「チョコ……とか。いや、グミか」

 わからない。女子の好みなどわかるはずもない。圧倒的に経験値が足りない。僕は悩みに悩んだ末、面倒くさくなった。

 ええい、ままよ! 目の前の果汁たっぷりグミを手に取る。飲み物は……炭酸水でいいか。

 会計を終えてパチンコ店『いたりあ』へとペダルをゆっくり漕いでいく。いつもより早めに家を出てしまったので時間には余裕があった。今までの経験からあの不思議生物は二十三時にならないと現れないみたいなのだ。時計でも読めるのだろうか。それとも野生動物ならではの体内時計? いや、ここはサーカディアンリズムと言い直しておくことにする。意味としては似たようなものだ。体内時計のうち二十四時間周期のものを概日リズム(サーカディアンリズム)と呼ぶ。朝起きて夜眠くなる、規則正しい生活を送るためのシステム。これにはメラトニン、セロトニンと呼ばれるホルモンが密接に関係していて日中はメラトニンが少なくセロトニンが多い状態。逆に夜にはメラトニンが多くセロトニンが少ない状態になる。このホルモンの分泌量には光刺激が大きく影響しているらしい。網膜に青色光を感じるとシグナルが視交叉上核という部分に伝達されてメラトニン産生抑制へと傾く。つまり夜中にスマホのブルーライトなんて浴び続けたら眠れなくなるのは無理もないわけだ。人間に限って言えば本来サーカディアンリズムは二十五時間周期らしい。それが光、食事、運動などの同調因子によって二十四時間周期へと調節されている。元来人間はこの同調因子に適した生活を送ってきたはずなのだが、最近は色々と便利になったり大変になったりでリズムが崩れやすいのだとか。こんな時間に家を抜け出して夜食を買っている僕が言えた義理ではないのだけど人間っていうのは元々はよくできた生き物らしい。

 余談になるのだが(四方山話(よもやまばなし)のさらに余談とはこれ如何に)、何故僕がサーカディアンリズムなんていうカッコいいカタカナを知っているのか。それは三ヶ月前の『スマートフォン買う? 買わない? 七日間戦争』にまで遡る。これはスマートフォン反対派の母親、母親に逆らえない父親(単身赴任中のため電話参戦)対スマートフォン賛成派の僕の間で起きた争いである。戦況は開戦直後から圧倒的に母親陣営が優勢だった。敵陣営は、どうせゲームばっかりするだの、インターネットでのトラブルがどうだの、家計を圧迫するだのといった中々の戦力を有していた。まさにガトリング、バズーカ、果てはパンツァーまで。その母親の戦力の中にサーカディアンリズムという言葉が含まれていて、なにそれ! カッコいい! となったわけだ。しょうがない。男子ってのはそんなもんだ。母親の正論に対して負けじと、勉強でわからない事をすぐ調べられる、緊急の連絡もできるし、何より早いうちからインターネットに慣れ親しんだ方が急速に発展していく社会についていけるんじゃないかな? とマスケット銃で抵抗する僕。

 この戦争は言うまでもなく七日間続いた。事態は冷戦の様相を呈するかと思われた時…………、まあ……ね。色々あってスマートフォンをあっさりと買って貰える事になったわけだが。うーん。このテンションで思い出す内容でもなかったな。

 そんな事をぼーっと考えながら走っていると、いつの間にか目的地に到着していた。自転車を隠し、二階へと上がる。愛用となったテーブルの上にお菓子、炭酸水、ランタン、スケッチブック。テーブルコーディネート完成。後は、あの椅子ぐらいだな。———。

 することも無くなったので暇つぶしにスマホのネットニュースを見ていると、いつの間にか目の前にアイツが現れていた。ようやく二十三時になったらしい。暗闇でスマホを見ていたせいか目がチカチカとする。

「や、こんばんは」

 いつも通りに挨拶し、いつも通りに見つめ合う。そうして黒い狸? は眠る。狸寝入りかはわからない。

 また暇になってしまった。幽霊が現れるまでデッサンでもしておこう。こんな珍生物を描ける機会なんてそうそう巡り会えないだろう。

 スケッチブックを捲り最新の白紙ページを開く。2Bのグラファイト鉛筆で線を描いていく。

 パチンコ店には鉛筆の音だけが響いている。十数年前では考えられなかっただろう静けさだ。

 なかなか思った通りの線が引けない。もう何年も描いているのに線一本満足に引けないこともざらにある。僕にはセンスがないのだろう。それでも絵を描いた。言葉は苦手だった。絵以上にセンスがなかった。言葉なんて、選ばないといけない時点でめんどくさい。

 後方から階段を上る音が聞こえた。本当に来てしまったのか、と深呼吸を一つ。後ろを振り向く。

「はぁはぁ、……ごめん、少し、遅れちゃった」

 昨日と同じでスポーツウェアを着たポニーテールの一条さんが息を切らして立っていた。

「もしかして今日も走ってきたの? 自転車は?」

「はぁ、はぁ、ふう。せっかくだからトレーニングも兼ねてと思って。でも予想より時間が掛かっちゃった。今日は少し調子が悪いかも」

 何とまあ意識の高い。部活がない時くらいゆっくり休めば良いものを。きっと、単純に走るのが好きな人種なのだろう。

 僕には一生理解できない感覚だろうな、と思った。

 彼女はランニング用のボトルポーチから水筒を取り出して水分補給をする。最近は夜中でもぬるくなっているので脱水には注意が必要だ。

「まあ、座ったら? まだ何も出てきてないし、いつ出てくるかもわからないし。そこらへんテキトーに使ってもいいと思う」

 一条さんは周りをキョロキョロと見渡した後、近くにあった椅子を持ってきて座ろうとしたのだが、

「あれ? この椅子だけちょっとキレイ?」

「……へえ、ツイてるね」

「……」

 彼女はテーブルを挟んで、僕と向かい合うように椅子に座った。とても姿勢正しく。浅めに腰掛け、背筋をピンと伸ばし、手は膝の上で軽く重なっている。まるで卒業式に出席しているようだった。

 廃墟となったパチンコ店にスポーツウェアの女子高生が礼儀正しく座っている。不思議な光景だ。こっちも描いとくべきだろうか?

 ……いやいや、そうじゃないだろ。

 変な煩悩を振り払い、当初のモデルに向き直る。アイツを描くことに集中する。

 アタリはつけた。最初に必要なことはモデルを観察することだ。何となくではなく、カメラのシャッターを切るように、画像として瞼に焼き付ける。大きさ、自身からの角度、毛並み、骨格、筋肉、艶感、色合い、アイレベルからのパース。三次元から二次元への変換。

 全ては線から始まる。一本の線。それを重ねて、束ねて、伸ばす。筆圧の強弱、均一に時には不均一に、直線も、ジグザグも、曲線も。点描も。

 輪郭を描く。違う。輪郭を描く。違う。輪郭を描く。違う。輪郭を描く。違う———。

 陰影は光源の位置を意識する。光の強さ、高さ、距離、接地面、濃淡の表現。影とはモチーフに光が当たって生まれる、別の個体。片や陰とは光によってモチーフ自体に生まれる、別の側面。

 陰影をつける。違う。濃淡をつける。違う。ハイライト、違う、質感、違う、遠近感、違う、比率、違う、透明感、違う、色味、違う。嗚呼、ノイズが聞こえる。

 …………チガウ。ダッテ、アレハ、モット————。

 うるさい。

 輪郭を描く。チガウ。りん郭を描く。チガウ。りんかくを描く。チガウ。rいんkくを描く。チガウ。りnkくを描く。チガウ。輪かkを描く。チガウ。————



 どれくらいの時間が経っただろうか?

 ハッとして一条さんの方へ顔を向けると、彼女は最初と変わらぬ正しさでこちらを凝視していた。けれど何故だか先ほどより距離感を感じなかった。……いや、心理的な意味合いではなく、物理的にこちらへ接近してきていたのだ。真正面にいたはずの彼女は、今は僕の右斜め前に座っていた。

「な、何?」

「あ、ごめん。邪魔しちゃった? 可児くん、絵が上手いんだなって」

 ……申し訳ないが、この人は何を言っているのだろか、と思ってしまった。上手い? これが? 僕は僕の見えたモノをそのまま入力したはずだ。なのに白紙のスケッチブックに出力されたのはこんな、存在しない何かだ。現実を切り取りたかったのに途中でノイズが混じっている。このノイズは必要ないはずだ。

 つくづく写真やプリンターという物に嫉妬してしまう。

「……そりゃ、美術部だから。人並みぐらいには」

「そっか。そういえばそうだった」

 一条さんは柔らかく微笑んだ。

 じっと見られていた事になんだか気恥ずかしさを感じた。紛らわせるため、机の上の果汁たっぷりグミに手を伸ばして粒を一口。りんご味。むにむにとした食感。不味くはないけど腹には溜まらない。あと、たっぷりの基準ってどれくらいなのだろうか。

 ……よし。

「い、一条さんも、食べる?」

 吃ってしまった。慣れないことをするからこうなるんだよ。

 勇気を出した思春期真っ只中の高校二年生。そんな僕の手に握られたるは悩みに悩んだ末、結局考える事を放棄して選ばれた果汁たっぷりグミ。税込百四十三円。

「えっ? ……ありがとう。でも私は大丈夫だから。気にしないで」

 困ったように断られた。

 くそ。チョコの方だったか。そりゃそうだ。女の子にはチョコって相場が決まっている。

 僕はコンビニでの選択を後悔した。

「お菓子は食べないようにしているの」

 違った。

「えぇ、ストイック過ぎない?」

「そうかな? でも私は頑張らないと、いけないから。それよりも可児くんの方こそお菓子を食べ過ぎじゃない? 昨日もお菓子持っていたし」

「い、いや僕はほら、これは夕食も兼ねてるから」

「ええっ! 夜ご飯食べてないの?」

「……」

「そっちの方がもっと問題なんだけど。他人(ひと)のお家の事をとやかく言うつもりはないけど流石にちゃんと食事は摂らないと!」

 うう。ま、まずい。虎の尾を踏んでしまった。一条さんが瞬く間に委員長モードへと移行する。

 このまま委員長によるお説教タイムが始まるのかと諦めかけたその時、アイツの額の眼がより一層強く光り始めた。月とランタンの微かな灯りだけが頼りの空間を青白い光が一瞬だけ覆った。そうして奥の暗闇から三つ編みおさげ姿の女の子が音もなく現れる。

「! 今日も、出た」

 一条さんの意識が女の子の方へと注がれる。思いがけずアイツに救われてしまったようだ。

 小学校低学年ぐらいに見えるその女の子は俯いたままで顔がわからない。小さく華奢な肩は微かに震えていた。

「……どうしたの? 何かあった?」

 一条さんが穏やかな調子で女の子に声をかけた。

 本物じゃないと思うのだけど。でも、そんなことは関係ないんだろうな。目の前で小さな女の子が震えていたら声をかけてあげるのが正しい行いだというのは誰だってわかっている。彼女はそれを実行しているだけだ。

 女の子に反応はない。ただ鼻を啜りながら、ひっくひっく、と嗚咽まじりの鳴き声が聞こえる。小さい子によくある、泣き過ぎての過呼吸だろう。一条さんは心配そうに手を伸ばす。が、その手はあっけなく女の子をすり抜けた。実体はない。ただの映像と音声。映写機はアイツの瞳といったところか。

 女の子の鳴き声が大きくなる。感情の波が押し寄せる。不安定な心を表すように三つ編みが大きく揺れた。

『ひっ、ひっう……、うあぁぁ、ゔああぁぁぁ! なんっ、なんで? な、んで死んじゃっだの? ダロ、なんっ、で……。ひっ、ううぅ———』

 ———それだけだった。女の子が出てきて、泣いて、一言だけ発して、消えていった。それだけだ。それだけなのに僕たちの間には重苦しい空気が漂っていた。だってあれは心の底から搾り出した言葉なのだろうし。そんなの重くて苦しいに決まっている。

「あっさりだったけど今日はもう終わりかな」

 僕は軽くて気楽な言葉を口にする。自分のちっぽけな言葉に嫌気がさす。

 場の空気を重くした容疑者タヌキはすでにどこかへと消えていた。

「可児くん、あの女の子のこと知ってる?」

「……顔が見えなかったから」

「そう。帰ろっか。あんまり遅く、って本当はこの時間もダメなんだけど、それでもできる限り早く帰らないと」

 そうして今日の密会はお開きとなった。二人してパチンコ店を後にする。

 送ろうか、と確認すると大丈夫、と返ってくる。

「補導には気をつけて」

「可児くんもね。あ! あとご飯はちゃんと食べなさい。……もしも、何か事情があるんだったら相談してくれていいから。それじゃ、また明日」

 きっちりと釘を刺されてしまった。抜け目がない。

 僕も帰ろう。明日は少し早く起きないといけなくなった。

 女の子の顔は見えなかったけど、あの泣き声は何となく聞き覚えがあるんだよな。



 自宅へと帰ってきた。時刻は零時を回っている。

 二階建ての一軒家。玄関の鍵を開けて中へと入る。真っ暗だ。こんな時間にも関わらず誰一人家にいないなんてとんだ不良一家だな、と自分のことを棚に放り投げて思ってみたり。

 もう寝よう。流石にグミだけじゃ全然足りなくて腹の虫は鳴いているけど、今から何かを作る気にもなれない(作る気があってもたいしたものは作れないが)。

 自室がある二階へと上がろうとした時、玄関の鍵がガチャリと回り、少し丸みを帯びたシルエットが入り込んできた。柔和な顔つき、しかし怒った時の恐ろしさときたら般若の面が如く。大きな荷物を抱えた四十五歳の女性はその重たい体を揺らしながら……ん? いや四十六歳だったか? まあどちらでもいい。別に母親の年齢を覚えていたところで何にもならないんだし。若くみられた方が機嫌も良くなるので四十五歳にしておいてあげましょう。

「ただいまー。はぁ……あら、アンタまだ起きてたの?」

「ん、まぁ」

「スマホばっかり使って寝れなくなっているんじゃないでしょうね。夜中にブルーライトを浴びていたらサーカディアンリズムが狂うんだから。ほどほどにしときなさいよ」

「……わかってるよ。今から寝るとこ」

 くそっ。タイミングの悪い。と、僕は歯噛みする。

 なんでこう今からしようとしている時にくどくど言ってくるのだろうか、母親という生き物は。エスパーなのか?

 母親がよっこいしょ、と荷物を玄関に下ろす。

「あー、疲れた。やっぱり岐阜は遠いわ。ところで、ご飯はちゃんと食べたの?」

「んー多分」

 グミを食べた。

「多分じゃないでしょ。アンタはほっとくといつもお菓子で済ませようとするんだから」

「……ちゃんと食べたって」

 グミを。

 このままではまずい。委員長の説教タイムを逃れたと思ったら今度は母親の説教タイムに入ってしまう。こんな事になるのなら委員長の方が百倍マシだった。

「そ、それよりもばあちゃんは、どうだった?」

「……変わりないから安心しなさい。そもそも子供はそんなことを気にしないでいいの。テスト近いんでしょ? そっちに集中。点が悪かったらスマホ没収ね」

 うえ! それは困る!

 しかしテストの勉強なんてこれっぽっちもしていない。これは、乗り切れるか? 今から頑張る? いや無理だ。眠すぎる。明日の自分に任せよう。

 僕は今まで頼りになった(ためし)がない明日の自分に丸投げをしてテンションだだ下がりで階段を上がっていく。ああ、そういえば。

「近所にさ、ラブラドールレトリバーを飼ってる家あるだろ? 学校へ行く途中の」

「え? ラブラドー……なに?」

「でっかい犬だよ。庭で飼ってる犬」

「ああ! 濱崎さん()の」

「そこって子供いなかったっけ?」

「いるよー。可愛らしい女の子。今は小学校二年生だったかしら。そういえば、あそこの大きなワンちゃん最近亡くなっちゃったみたいなのよ。まあ、ずっと飼ってたみたいだしもう年だったのね」

「……ふーん」

 僕はそのまま二階に上がって崩れるようにベッドに倒れ込む。あとはメラトニンに身を任せるだけだ。

 穏やかに夢の中へと落ちていった。


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