レイヤー1
七月八日 十六時十五分
雲母が出て行った後、僕は結局ダラダラと美術室に残ってしまっていた。理由は当然、あの生意気な後輩の捨て台詞に触発されてしまったからだ。
ネットの世界に明るくない僕でも先ほどのネットスラングの意味はなんとなく理解できた。というより、もはや文字通りの意味だろう。お上品に言うと「自分で調べなさいな、お馬鹿さん」みたいな感じだ。
……これはこれで腹が立つな。雲母に言われたっていうのが特に。
雲母への怒りが沸々と湧き上がってきた。
ほんと、あの後輩は僕の事をなんだと思っているのだろう。
思い返せば最初からこうだった。
僕と雲母のファーストコンタクトは最悪だった。雲母の入部初日。アイツは意外にも先輩を立てるタイプであったらしく、二年生と三年生の飾られていた作品を見つけるや否や、褒めちぎっては投げ、褒めちぎっては投げの大立ち回りを魅せつけられた。その様子に、これはとんでもない後輩が入ってきたもんだ、と僕たちは戦々恐々としていた。しかし。アイツは僕の絵を見た瞬間、真顔で「つまらない絵ですね」なんて言ってのけたのだ。その時の雲母曰く「そんなに完璧を求めたいのなら写真部に入部し直したらいいんじゃないでしょうか」だと。今思い返しても初対面の先輩に言う台詞かよと思うのだが、当時の僕はいやに納得して「そりゃそうだ。けど残念なことにウチの学校に写真部はないんだよ」と返してしまった。その返答が更に雲母の不興を買ったようで、以来、雲母はやたらと僕に当たりが厳しいのである。
と、脱線してしまった。
気を取り直して本題に移ることにする。『さとり』について検索。———。
ううむ。いくつかのサイトを覗いて調べてみた感じでは、確かに相手の本音を読むって部分は近いのだろうけど、その他は色々と違う点が多かった。
「だってアレはその場にいない人間の心を語っているんだもんな」
結局あの不思議な生物がなんなのか、僕には見当もつかなかった。
すると美術室の扉がガタガタと開いた———。
僕は帰路についていた。スマホで『さとり』について調べていたら美術部の顧問が入ってきて締め出されてしまったからだ。おまけに期末試験へのお小言、もとい檄までいただいてありがたい限りである。
自転車置き場に到着。自転車を探す。鳥高生のほとんどが地元出身であり、たいてい自転車通学を選択するため自転車置き場はいつもごった返している。自転車通学以外の選択肢だと徒歩かバス通学ぐらいのものだから自転車が一番楽なのだろう。電車通学に至っては有り得ない、と言ってもいい。電車なんていう先進的かつ時間にシビアな乗り物がこんな田舎にあるはずもない。学校に行くよりも駅まで行く方が遥かに大変なのだ。ここでは一家に一台、ではなく一人に一台移動手段がないと生活が立ち行かない。
「お、あったあった! えー朝こんな所に停めたかな」
自転車をようやく発見できた。覚えのない所に置かれている。自分の自転車に足が生えて違う場所に移動するなんてことは鳥高では割とある話だ。
サドルに跨る。学校から家までは自転車をゆっくりと漕いで約二十分。特に急ぐ用事なんかもないのでのんびりと走らせる。
もう七月も中旬に差し掛かるためか、日が落ちていく時間帯でも自転車を漕いでいたら軽く汗ばんでしまう。インナーが肌に貼り付いて嫌な感じだ。カッターシャツの袖を肘まで乱雑に捲り上げる。……そろそろ半袖が必要みたいだな。僕はいつも指定の学生服で登校しているのだが、鳥高は学生の自主性どうのを謳っているらしく、数年前から私服登校オーケーで、華美でなければ髪染めも良くなったらしい。当時の生徒会の先輩方が学校相手に戦って勝ち取った結果だとか。どうやら当時の生徒会はお飾りの生徒代表ではなかったみたいだ。
家に帰ったらシャワーでも浴びようかな。西日に目を細めながらぼんやりと足を動かしていると、学校最寄りのバス停に見慣れない人物が立っていた。いや違うな。見慣れた人物ではあるが、この時間にその場所で見かける事がない人物が立っていた。
鳥淡高等学校、数学教諭。二年四組クラス担任の宇田先生である。
「あれ? なんでこんな時間にバス停にいるんだ?」
ふと疑問が口をついてでた。
生徒達は部活が休みになるのだからこの時間帯に見かけるのはわかる。しかし、教師は部活が休みになるからといって生徒と同じく早く帰る、なんて事はないだろうに。
そんな考えが頭を巡ったが、すぐに「まあいっか」と思考から切り捨てた。僕は宇田先生をあまり好ましく思っていなかった。いつも機嫌が悪くて、しんどそう。朝の挨拶も全然返してくれないと生徒の間で評判だ。目のクマなんかもすごくて生気が感じられない。まあ一言で表すと、見ていて痛々しいのだ。だから僕は極力あの先生には関わりたくなかった。だけど、
「なんだか今日はいつも以上に死にそうな顔だったな」
◆
「やっぱり可児……くん……? こんなところで何しているの?」
視線の先には月明かりに照らされた一条真が立っていた。スラリとした肢体に、健康的で潤いのある肌。月の光を反射する深い瞳。正真正銘の本物だった。
僕は予想外の人物に思考が固まってしまった。
「————くん? あれ? 大丈夫?」
耳は正常に彼女の声を拾ってくる。
「合ってるよね? 鳥淡高校二年生の可児くんだよね?」
「う、うん。そうだけど」
ようやく思考と声帯が状況に追いついた。僕の言葉を聞いて、いつの間にか近づいてきていた彼女は少しホッとした様子だった。「よかった。間違ってなかった」なんて呟きが聞こえる。
僕と一条さん、今ではクラスが別々になっているけれど、一年生の時には同じクラスだったりする。ほとんど喋ることはなかったからお互い顔と名前だけを知っているぐらいの関係性なのだが。そして一年生の時も、優等生の彼女は委員長をやっていた。
「私は鳥淡高校二年の一条真です。一年生の時、可児くんと同じクラスだったけど覚えてくれているか不安だから念の為自己紹介をしておくね。
……ところでさ、可児くん」
「はい」
「今ってさ何時かわかる?」
僕はポケットからスマホを取り出して時刻を確認する。二十三時七分。
「二十三時七分……です」
「そう、ありがとう。それでさ可児くん」
「はい」
「補導される時間って何時かわかる?」
「……二十三時、です」
「だよね? じゃあさ、なんでこんなところにいるのかな?」
……怖い。
なぜだろうか。一条さんはとても優しげに微笑を湛えながら質問してくれているのだが、とんでもなく威圧感があった。これが歴戦の委員長が放つオーラというものなのだろうか。
しかし。しかしである。そんな委員長にも今日に限っては弱点がある事を僕は見逃さない。
「くっ! け、けどさ。一条さんだってなんでこんな所にいるんだよ。こんな補導される時間に」
「っ! ……そうだよね。ほんと、私……なんでこんな所にいるんだろう」
懺悔するような呟き。彼女は見るからに、しゅん、としてしまった。
いや、そんなに凹まなくてもいいのでは、と僕の小さな器に罪悪感が満ちてくる。耐えきれなくなって、雰囲気を変えようとしどろもどろになりながらも言葉を紡いだ。
「……いや、まぁ、なんていうかな。僕は散歩? みたいな感じだよ。夏だから。ちょっと外の空気を吸いたくなって」
「そっか。……私も少し走りたい気分になっちゃったんだ。本当はこんな時間に外出したらダメなんだけど。そしたら可児くんが建物に入っていくのが見えたから、つい追いかけちゃって」
ははあ。真面目な彼女のことだから、元クラスメイトが非行に走っているんじゃないかと心配してくれたのかもしれない。けれど、その心配は御無用だ。別に僕はこの廃墟ことパチンコ店『いたりあ』で、お酒をやっているわけでもタバコをやっているわけでも、ましてやクスリをやっているわけでもない。まあ確かにパチンコ店は十八歳未満立ち入り禁止だけど、もう潰れているのだからこれもノーカンだろう。つまり法に触れるようなことは一切やっていないわけだ。
頭の中の辞書に載っている〝不法侵入〟という言葉には二重線を引いて見なかった事とする。
「とにかく、もう帰ろう? 夜に出歩くのはダメだし、この建物も古くて危ないよ」
「…………わかった」
仕方ない。今日は潔く帰ることにしよう。一条さんにあの光景を見られるわけにも行かないし。
「あと、あのワンちゃんは可児くんちの子?」
「ワンちゃん?」
「ほら、あの子」
一条さんは景品交換所で眠りこけている狸のような生物を指差した。……お前、ワンちゃんだったのか?
「あれって犬なの?」
「え、犬じゃないの?」
「いや、狸だと思ってた、けど。ちなみに犬種は?」
「どうだろう。詳しくはないけど柴犬か、……シベリアンハスキー?」
「イタリアじゃなくてロシアだったのか、この店は」
そんなどうでも良い動物談義に蕾をつけていると————。例の事象が起こってしまった。
ワンちゃんのような生物の額に浮かぶ眼が強く光り輝いて、辺りを一瞬だけ青白い光が包み込んだ。すると、どうだろう。景品交換所の奥、暗闇の中から痩身の男性が音もなく姿を見せたのだ。どこかで見たようなワイシャツにスラックスの衣装。つま先の丸いビジネスシューズ。目の下には深いクマ。
「えっ? えっ? なんで?」
隣から驚きの声が上がる。当然の反応だ。急に廃墟の奥から人間が滲み出るように浮かび上がってきたら誰だって驚くだろう。しかも今回は、
「なんで宇田先生がこんな所に?」
鳥淡高等学校、数学教諭。二年四組クラス担任の宇田先生が現れたのである。
驚倒している一条さんを横目に、タイミングが悪いなぁ、なんて僕は心の中で悪態をついた。
「う、宇田先生! なんでこんな所にいるんですか? いやそれは私たちもなんですけど……」
『……』
一条さんが宇田先生に話しかける。しかし宇田先生は何も反応がない。生気なく、虚な目をしながら、ただただ遠くを見つめている。
「宇田先生?」
『……だ』
「え?」
彼女がもう一度呼びかけると、少し間をおいて反応があった。両手で頭を掻きむしり、狂ったようにぶつぶつと話し始めた。
『……やだ。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。もう嫌だ。行きたくない。やってられない。こんなの人間がやる仕事じゃない。毎日毎日残業して、家に帰っても仕事しなくちゃならなくて、朝も他の奴らより早く起きて部活とかテストの準備とか。なのに文句も言われて。眠くてしんどくて倒れそうなのに、それで生徒達に笑顔を振りまけって? 無理だろ、普通。無理なんだよ! こんなことできてる奴の方がおかしいんだよ! そんなおかしな奴らの基準に俺を合わせるなよ!!』
唐突に、宇田先生が息巻いた。見開かれた目、荒い呼吸。明らかに興奮状態だった。
一条さんは唖然としている。内容もさることながら、宇田先生がこれほどまでに苛烈に喋る姿が今までのイメージからかけ離れていたからだろう。
僕だってびっくりしている。というか少し怖い。
『もういいよ。頑張ったよ。頑張っただろ。六年も働いたんだ……。俺は頑張ったんだ。ちょっと休憩したって誰も文句言わないだろ。だから、休まないと。休まないと死んじまう。仕事なんかより自分の体の方が大事じゃないか。仕事なんかよりお金なんかより。生徒……なんかより?
うぅ。———ああ。そうだ。なぁそうだろ? 俺、悪くないよな? だってちゃんと期末テストの範囲まで頑張ったじゃないか。ここが一番いいタイミングだろ?』
宇田先生はそれだけ言うとスーッと暗闇に消えていった。最後の問いかけは誰に対してのものだったのだろうか。
残されたのは呆気に取られる僕と一条さん。そして欠伸をしながら起き上がった狸かワンちゃんかよくわからない生物だけだった。その不思議な生物の額の輝きはすでに消えてしまっていて、今日の仕事は終わりと言わんばかりにとっとと何処かにいってしまった。
「ね、ねぇ可児くん。今のって宇田先生……だよね?」
「……さぁ? 何かの影を見間違えただけなんじゃない? だってどこにもいないじゃないか」
「そんなはず———」
「きっと疲れてるんだって、一条さんも。ほら、僕はもう帰るから」
机の上に置いたものを片付けていく。せっかく買ったポテチとメロンソーダも意味がなかったな。
「……わかった。私も帰る」
「うん。そうした方がいい」
僕たちは足元に気をつけながら階段を降りていき、廃墟の外へと出た。見つからないように隠しておいた自転車を取ってくる。
「一条さんの家はどの辺?」
「えっ、えーと第二小学校を超えてちょっと行ったらスイミングスクールがあるの、わかる? 高速のインターがあるところ。あの辺」
彼女はこともなげに宣った。ここからだと結構距離がある。六、七キロぐらいだろうか。さすがは陸上部だ。
そして、見事にうちとは逆方向だった。
「……夜道は危ないし送って行こうか? ちょうどうちもそっちの方向だし」
「ううん大丈夫。ありがとう」
「そっか。補導されないように気をつけて」
「可児くんも寄り道したらダメだよ」
そう言って彼女は走り去っていった。家まで距離があるというのに、なかなかのスピードだった。
「体力お化けってやつかな」
その呟きに答えてくれる人はもういない。
「僕も帰るかぁ」
今日はとんだハプニングがあって疲れてしまった。明日は平穏に過ごせるといいなぁ。
次の日、朝のショートホームルームにて宇田先生の休職が僕たちに伝えられた。