プロローグ
七月二日 二十三時頃だったと思う。
街灯もまばらな田舎道。僕は夜食を調達するために、家から自転車で十分ほどの所にあるコンビニへと向かっていた。肌へと優しく纏わり付く生温い風に夏の訪れを感じながらやや重たくなったペダルを漕いでいく。
そんな心地が良いのか悪いのかわからないが、何だかワクワクする感覚。夏の魔物が近づいているせいだろうか、などと誰かに聞かれたら死にたくなる科白を頭に思い浮かべて自転車を走らせる。
バレたら確実に補導される時間。そんな背徳感もこの気持ちの高揚に一役買っているのかもしれない。
そうして風を受けながら最近お気に入りの曲を口ずさむ十六歳。
その日、僕は本当に夏の魔物に出逢ったのだ。
〝あの人の本心が知りたい〟
これは本気でそんな事を思ってしまった平凡な高校生の自分語りだ。
◆
七月八日 期末試験の八日前。
僕の通う鳥淡高等学校、通称鳥高は進学校を名乗っているため期末試験の一週間前から全ての部活動が休みとなる。
実際のところ、鳥高は地元の中で偏差値が一番高い。しかし、僕らが住んでいる地域は〝ど〟を付けるか迷うぐらいの田舎であり、鳥高はそんな〝ど〟田舎(結局付けることにした)の〝ど〟真ん中に鎮座していた。ど田舎の高校受験とは分かり易いもので、中学校で成績が上半分なら鳥高、下半分なら実業高校、たまに現れる天才や秀才は地元を出て外の高校へと進学する。そんな大雑把な高校受験を経験してしまうがために、こんな田舎で偏差値どうこうを比べたってしょうがない、というのが鳥高に通う生徒の共通認識となっているのだ。だから僕たち生徒一同は愛を込めて鳥高を自称進学校と呼んでいた。
期末試験の八日前、という事で一応は部活動を行なっても構わないのだけど、大体の部活は普段よりも軽めの内容で終わるか、すでに休みになっている所もある。どこも最後のミーティングで顧問の先生から勉強しろよと強めの檄をいただくらしい。
曰く「学生の本文は勉強だ」
曰く「文武両道を目指せ」
なんてったって赤点を頂いたら夏休みに補習が待っているのだ。補習になったら部活への参加も制限されるし夏休みも少なくなってしまう。だから顧問の先生も生徒のことを思って泣く泣く鬼になるのだろう。
ああ、あと余談ではあるが、自分が受け持つ部活の生徒に赤点が多いと職員室で小言を言われるとか何とかぶっちゃけていたのを聞いたことがある。先生ってのは大変な職業らしい。
この時期の生徒たちの心中は様々である。あまり部活に積極的でない者は喜ばし気にスキップなんてしながら教室を出ていくし(鳥高は半強制的にどこかの部活に入らなければならない)、部活動を頑張っている者は溜息が増える。
僕はと言うと、特にどっちの気持ちにもなることはなかった。確かにテストが近い事には鬱屈を覚えるのだけど。部活に関してはどちらでも良いのだ。
何故って僕は美術部だから。
イヤイヤ、誤解なきよう言わせてもらうと、別に幽霊部員というわけではない。強制的に入っている部員が過半数を占めている中で、僕は割と真面目に部活動に取り組んでいる。熱血とまではいかないが、人肌ぐらいの温度はあるつもりだ。とどのつまり、絵は家でも描けるから部活が休みでもそこまで気にしないと言うだけの話。体裁ではなく中身の話だな。
六限が終わり、ショートホームルームの後、僕はそそくさと美術室へ向かっていた。教室では部活動がすでに休みになっている生徒達が駄弁っていたり、何処そこに寄って帰ろうなんて話し合っていたりとまさに学生としての春を謳歌しているのだったが、僕は勤勉な美術部員なので速やかに部活に行かなければならない。ちなみに美術部の活動は七月一日から自由参加になっているわけだが。
……別に友達がいないとかじゃない。普通に友達いるし。す、数人だけど。
念の為指折り数えてみる。あゝ無情。片手で事足りてしまった。
ほろ苦い青春の味を噛み締めながら歩いているといつの間にか美術室に到着していた。頭の中から漠然とした不安を振り払い、目の前のごく一般的なスライド式ドアを開ける。
ガタッ。引っかかった音がした。
開け……。
「ぐっ!」
相変わらず固ってぇ。
取手に両の指をかけて力を込める。建て付けの悪いドアがガタガタと唸りながら右へ小刻みにスライドする。鳥高は割と歴史のある高校らしく、校舎は老朽化が目立っていた。何が素晴らしいか全く理解できないが、劣化の一途を辿っているだけのこの校舎を校長先生は誇りに思っているらしく全校集会のタイミングで暇を見つけては、やれ歴史が、やれ伝統がと壊れた玩具のように繰り返すのだ。しかし、実際に在学している生徒の一人として言わせて貰えば、そんな伝統などかなぐり捨ててどうかコイツを自動ドアにしてくれないだろうか。文化部だと言うのに、ここのところ前腕筋が太くなってきた気がするのです。
ようし。明日にでも生徒会の目安箱に書いておこう。
下らない決心をしつつ家に持ち帰る道具をリュックへと詰めていく。美術部も明日からは強制で休みとなり美術室には鍵が掛けられてしまう。今日も鍵は開いているのだが、顧問から活動は十六時までと言われているので荷物の回収にだけ立ち寄った次第だ。
最終日ということもあって美術室には僕以外に人が見当たらなかった。
「美術部もほとんど幽霊部員だからなぁ……」
周りを見渡しながら独り言を呟く。壁際には作品群が飾られている。ちゃんと閉め切られていないカーテンの隙間からは一条の光が差し込んで宙に舞う埃をチラチラと照らしていた。誰もいない美術室っていうのもなかなかに雰囲気があるのかもしれない。
しばし感慨に耽っていると、
「こんにちはー! 今日も楽しく頑張りましょう」
運動部もびっくりの声量と共に勢いよく美術室のドアが開けられ、パーカーを羽織った癖っ毛栗色ボブヘアの女子が入ってきた。思わず「うわっ!」なんて情けない声が漏れてしまう。
「———っくりしたぁ。なあさ、雲母。もうちょっと静かに入って来れないのか」
「あれ、可児先輩だけですか? 他の人は?」
僕の小言は彼女の耳には届いていないみたいだった。
このとにかく声のでかい女子は美術部一年生の雲母だ。なぜ文化部にいるのかわからないぐらい元気がいい。ホント外を一生走り回っていたらいいのに、と思う。そしてお前はどうやってそのドアを開けているんだ?
…………きっと雲母のことだからマジカルでリリカルなパワーを使って開けているんだろうな、と自分自身を納得させた。つまりは筋力だ。
無視されたことは腹立たしいが親切な先輩として後輩の質問に答えてやる事にする
「明日で期末の一週間前だからな。美術部も例に漏れず明日から強制で休み。今日は十六時まで。中間テストの前もこんな感じだっただろ」
「あー、そっか! 高校にも期末テストがあるのかー。忘れてました。こんなテストばっかりだと嫌になっちゃいますね。時間がもったいないなぁ」
「いや忘れてたって、雲母、お前成績大丈夫なのか? 赤点だったら夏休み補習だぜ、補習。こんな田舎に住んでいると忘れちゃうけどさ。信号機と同じで赤だったら止まらなきゃならない」
「えーでも信号機でいうなら私は赤の方が好きです」
うん! きっとコイツは赤がつくぞー! うちの顧問も今年から職員室でお小言を貰う立場になるのだ。可哀想に。南無南無。
心の中で念仏を唱えていると雲母が尋ねてきた。
「でもなー。夏休みがなくなるのは困るしなー。それでレッドのボーダーは?」
「基本は三十点。テストが難しくて平均点が低かったら先生の気分次第、もとい温情次第。今のうちに媚び売っといた方がいいんじゃない?」
「あ、じゃあ大丈夫ですね。九十五点とか言われたら少しは勉強しないとなぁって感じでしたけど。もちろんお世辞の勉強を、ですよ」
「……は?」
このトンチキ生物は一体何を言っているのだろうか? 無自覚系最強主人公みたいな発言をしやがって。
僕は雲母の発言が一切理解できなかった。いや言語としては理解しているのだが脳みそがその意味を受け付けてくれない。
『可愛い顔に朗らかな雰囲気。しかも頭が少し悪そうな感じがすごくいい!』なんてウチのクラスの男子どもが雲母を評しているのを聞いたことがある。
「つまり誰が見てもコイツを馬鹿だと判断するっていうこと……」
「あのう可児先輩、そう言うことは心の中に留めておいてください。聞こえてますし、ふつうにムカつきます。ちなみにですけど、可児先輩は私の中間テストの成績を知っていますか?」
「い、いや知らないけど」
「ふふん。じゃあ他の一年生に聞いてみるといいですね。もしも先輩が私の成績を心配してくれるのなら」
雲母は何やら意味深な言葉を残して、鼻歌交じりに美術室に置いてある自身の荷物をまとめていく。
「けど、そっか。中間テストの前と同じならもうすぐ閉め出されますよね。しょうがない。今日は素直に帰ります」
そんな雲母の姿を数秒見つめていた、が。
…………ま、雲母の成績が良かろうが悪かろうが僕には関係ないことか。
先輩らしからぬ結論を出して荷物の整理に戻る事にした。
手を動かしながら、そういえば、と雲母に今一番気になっている疑問を投げかける。
「これはただの雑談なんだけどさ」
「はい! 色恋話でも恋愛相談でも告白練習でもバッチ恋です!」
「残念ながら世間話だ、この恋愛脳」
「ぶー、面白くないなぁ」
「期待に添えず申し訳ないね。で、雲母はさ、幽霊を見せる狸って聞いたことある?」
「何それ? 狸、なんでしょ? 化けるんじゃなくて幽霊を見せるの?」
雲母が形のいい目を丸くしてキョトンとした顔で聞いてくる。本当に表情が豊かなやつだ。男子たちの間で人気になるのも頷ける。今年の一年にも雲母目当てで美術部に入ったであろう男子生徒が数人いたくらいだ。
「化けてるんじゃないと思うんだよなぁ。しかもその幽霊が心の内をペラペラと喋ってくるというか」
「あはは! それ先輩の体験談? 大丈夫? 頭とか打った?」
「……だよなぁ。雲母ですらそんな反応になるよな。この話をしたのが雲母でよかったよ。普通の奴に話したらもっとドン引かれていたところだ」
「む! 私をなんだと思っているんですか! 失礼しちゃう」
雲母はプリプリと怒りながら続けた。
「うーん、真実を映すって意味なら浄玻璃鏡とか? でも鏡だしなぁ。生き物って言うのなら『さとり』とかになるのかな」
「さとり?」
「はい。民話に登場する妖怪です。相手の本音を読むってだけで幽霊を見せたり、晒したりするわけではなかったと思いますけど……」
民話。民衆の中から生まれ伝承されてきた説話。伝承、昔話、果ては世間話まで。今時の言葉で言うと都市伝説や七不思議なんかになるのだろうか。なんで雲母がそんな話を知っているのかと不思議に思ったが、そう考えると華の女子高生が民話に詳しいこともあり……なのか?
「けど妖怪なあ」
「何? 先輩は信じてない?」
「だって今は平成だぜ。昔はよくわからなかった現象だって次々に科学で解明されてるだろ」
雲母は「はい」と頷いた。
「おっしゃるとおりです。そういうモノを仮怪って言ったりもしますね」
「かかい?」
「仮の怪で仮怪。人間の科学の前に敗れ去った不可思議。まあ、あくまでそういう分類を作った学者がいるだけですよ。造語みたいなもんです」
ふーん。どんな分野にも専門家ってのはいるものみたいだな。でも、なるほど。言いたい事はなんとなくわかる。仮の怪っていう分類があるってことは、
「ホンモノもいるってことか?」
雲母はクスッと笑った。
「さあ、どうでしょう。でも科学で解明できていない不可思議なんて数え切れない程あるんじゃないでしょうか。ただ、少なくとも『さとり』に関しては別枠ですよ。だって民話だもん。おとぎ話。ニセモノです。元になった体験や怪現象はあるかもしれないけど、あくまで人間の想像によって創られた妖怪ですからね」
「結局、雲母はどっちなんだよ。信じてないの?」
「いないとは言いませんよ。いてくれたらいいなぁ、とも思います。そっちの方が面白そうだしね。もし仮に私が妖怪に出遭ったのなら。常識では考えられない存在を認識してしまったら。それを他の人に話しても馬鹿みたいだと思われるだけでしょうけど、私は私を信じてあげます。だって私は他の人の景色が見えるわけでもない。私だけに見えて、他の人には見えないモノはどっちが私にとってのリアルなのでしょうか?
ふふ。だから今回の私はその他大勢の側ですよ。可児先輩の話を聞いただけじゃ、ねえ。そんなの先輩の頭がおかしくなったに一票する方が現実的じゃないですか。出逢ったのはアナタ、その話を聞いてバカみたいだと笑うのが私です」
雲母は持ち帰る荷物を鞄に詰め込み終わったらしく「よしっ」と小さく呟いて、その鞄を背負った。
「釈然としないけど、まあいいや。それで、その『さとり』ってのは狸みたいな見た目なのか? 民話ってこの地域の? あと浄玻璃鏡ってやつについても詳しく」
「はぁ……。先輩ってスマートフォン持ってますか? 持ってますよね。メアド交換したし。つまり———」
雲母は美術室のドアの前まで猫を思わせるような軽やかさで歩いて行き、こちらを振り向いた。そうして不意に満面の笑みを浮かべる。並の男子高校生ならコロっと恋に落ちてしまう威力だった。その言葉を聞くまでは。
「グ・グ・レ・カ・ス」
◆
七月八日 二十二時五十五分
僕は自転車に跨って家から十分ほど離れたコンビニへと向かっていた。夜食を仕入れるため、と言うのもあるのだが本当の目的はその後にあった。七月二日にあの生物に出会ってからというもの、二十三時から二十四時にかけてのこの行動が習慣となっていた。
コンビニに着くと、お菓子コーナーへと向かい、目についたポテトチップス(コンソメ味)を手に取る。さらにドリンクコーナーで缶のメロンソーダを掴んでレジへと並び支払いを終えた。
コンビニを後にすると帰路に着く———わけではなく、そのままさらに自転車を走らせる。住宅街を抜けて街明かりも薄くなっていく。時間にして約五分。
街外れにあるパチンコ店『いたりあ』。そこが僕の目的地だった。
そのパチンコ店は十年以上前に潰れてしまったのだが、解体されることもなく放置され続け、今では誰も寄りつかない廃墟となっていた。何故解体されないのかとか、管理者は誰なのかとかはよくわからない。当時は騒音を撒き散らしながら大人たちの鉄火場となっていたであろう、その娯楽施設も今やしめやかに佇むのみであった。
到着。もう一週間も同じ行為をすれば慣れたもので、僕は裏扉から中へと忍び込む。裏扉の建て付けはすこぶる悪くなっているのだが、鍵は掛かっておらず、力を込めてノブを引くと開けることができた。
ギ、ギ、ギーという嫌な音が静寂に包まれている廃墟に響き渡った。
足元に気をつけながら二階へと続くコンクリートの階段を上がっていく。光源は開け放たれた窓から入ってくる月明かりのみ。暗闇に目が慣れるまでは転ばないように注意する必要がある。
二階は当時スロットコーナーだったみたいだが、置かれていたスロット達はすでに撤去されており、今は椅子が無造作に転がっているのみだ。そして二階の中心には景品交換所としてのカウンターが設置されている。
皆が勝った時にはホクホクの笑顔で向かうその場所に黒い毛むくじゃらの塊が置かれていた。いや、その表現は正確じゃない。だってそれは、おそらく生き物ではあるのだろうから置かれていたのではなく、そこに居たのである。
その生き物は僕の気配を感じると丸っこくなっていた体を起こし、一度大きく伸びをした後こちらを見つめてきた。
こう見るとやっぱり狸っぽいんだよな。
僕は挨拶をする。
「よ、こんばんは」
それは何も答えない。当たり前だ。ここで挨拶が返ってくるようであれば、いよいよ自分の頭を疑うフェーズに移行しないといけなくなる。
その生物は数秒間僕の目を見た後に、くわっと大きなあくびを一つ。そうしてさっきとは違って顔が見える体勢で瞼を閉じ眠りについた。すると———。その生物の額から大きな眼のようなアザが浮かび上がってきた。青白く妖しげに輝くその眼はどこか遠いところを見つめているようで。見たままで言えば、一つ目ダヌキである。
僕にとってはそれも既に見慣れた光景だ。
近くに転がっていた椅子に座る。さっき買ったポテチと缶のメロンソーダをテーブルに置く。家にあった電池式のランタンを鞄から取り出して明るさ『弱』でつける。スケッチブックも取り出す。準備完了だ。
そうして後は事が起こるのを待つだけであった僕の耳に聞き馴染みのあるような、ないような澄んだ声が届いた。それも僕の後方から。
「やっぱり可児……くん……? こんなところで何してるの?」
「えっ?」
想定外の位置から声が聞こえてきて咄嗟に振り返る。その声の主は、スポーティな服に身を包み、ふんわりとした黒髪を小さくポニーテールに結んで、先ほどまで走っていたであろう事を予想させるように肩を上下に動かしている。
彼女の上気した頬を伝う汗に不覚にも艶かしさを感じてしまった。
隣のクラスの陸上部。成績優秀、品行方正。みんなの頼れる委員長。男子達の密かな憧れ。
一条真がそこにいた。