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エピローグ

 秋晴れの空。高校一年時の体育祭。六クラス対抗女子二百メートルリレー。ドミトリー・カバレフスキー『道化師のギャロップ』。

 第一走者。二位で帰ってくるも第二走者へのバトンミス。一気に六位へ転落。

 第二走者。五位と差を縮めるも六位のまま第三走者へ。

 第三走者。転倒。直ぐに立ち上がるも全力で走れず。それでもバトンは第四走者へ。

 第四走者(アンカー)。五位との差は半周(百メートル)以上。トップは既にゴール直前。先を行く走者は最高速に至る。一方、彼女は今からギアを上げて加速しなければならない。お手上げだ。足を前に出した瞬間から負けが確定しているレース。だって人間はそんなに早く走れない。如何に彼女であろうと無理なものは無理なのだ。これは仕方がないと諦めるべきだ。バトンミスもあった。転倒もあった。彼女に残された選択肢(みち)は友達や保護者から生暖かい視線と声援を貰いつつ、頑張っている(ふう)の姿を見せることのみ。誰しもがそう思っていた。僕も、そう思っていた。

 ———シャラン。

 馬のしっぽが大きく揺れる。

 その予想を彼女は蹴散らした。

 と言っても、特段結果が変わったわけではない。前方の走者が転んだわけでもなければ、彼女が肉薄したわけでもない。僕たちのクラスは圧倒的にビリだった。だけど彼女のレースには、その走りには、生暖かい視線も声援も存在しなかった。そんな憐れみの空気なんて一切流れやしなかった。誰もが固唾を飲んで見守った。リレーの実況をする運営委員すらその仕事を放棄して魅せられていた。まるで世界陸上決勝を観ている気分。金色のメダルを求めているかのような妄執。人類の記録を塗り替えてしまいそうな予感。そんな幻想を抱いてしまうほどに、彼女は懸命に走っていたのだ。一位の走者よりも全力で、前だけを向いて。その姿に誰が憐憫の情を抱くだろう。誰が頑張れと声を掛けるだろうか。

 つまりは、みんな正しいものに目が眩んでいたと言う話だ。

 ただ、一瞬、その直前。

 僕の目に、とても気持ち良さそうな彼女の笑顔が映ってしまった。

 ゴーーーール!


    ◆


 そして今。部活を終え、飢えた後輩からの奢れコールを華麗に躱した僕は追撃を避けるために下駄箱への迂回ルートを歩いている。通常、美術室から下駄箱へと向かうのであれば北校舎一階まで降りてから南校舎へと歩くのだけど、迂回ルートは北校舎二階と南校舎二階を結ぶ渡り廊下を使う。その渡り廊下には職員室と事務室が配置されているため、生徒達はその渡り廊下を使うのを何となく避けてしまうわけだ。せっかくの夏休みなので、僕だって極力は先生と顔を合わせたくないのだが背に腹は変えられない。

 北校舎二階の階段前を通る。すると、

「ね、来週のお祭りどうする?」

「それ! みんな予定どう? 私は空いてる!」

「ウチもー」

「私もいけるよ」

「なんだ、みんな空いてるじゃん。男いないのかよ。干からびてんねぇ」

「アンタもでしょ!」

「へへ……。それよりさ、あの噂ほんとかな?」

「噂?」

「ほら、屋台でさ、不思議なお面が売られてるとかって。何でも被ると思ってる事と逆の事を言っちゃうらしいよ。題して『天邪鬼(あまのじゃく)のお面』」

「……ほんっと都市伝説が好きだよね」

「えー! 面白くない? だって———」

 突き当たりの渡り廊下へ差し掛かる。楽しそうな声が遠ざかり、内容も聞き取れなくなってしまった。

 おそらくは三階音楽室で活動している吹奏楽部の生徒達が休憩中だったのだろう。

 けど『天邪鬼のお面』か。最近の都市伝説はバリエーションに富んでいるなあ。

「ま、もしかしたら本当にあるかもしれないけどね。なーんて」

 そうだ。あながち眉唾な話も馬鹿にできないと学んだ、十六歳の夏の入口があったのだから。


 角を曲がって渡り廊下を進む。右手には事務室と職員室の扉が続いており、左手一面の窓からは陽の光が差し込んでいる。直射日光に当たるとより一層暑い。ジリジリと肌が焼けている。汗が首筋から背中へと垂れてきた。気持ちが悪いな。

 項垂れながら、ヘロヘロと歩いていると目の前の職員室の扉がガラリと開いた。

 ———うわ。

 中からは、それはもう真っ金金の髪の毛をした……うーん、ヤンキー? が出てきた。肩に掛かるほどに伸ばした、陽光を反射する金髪。左耳には厚みのある黒のフープピアスがくっついている。一応、鳥高の制服を着ているけど、やはりといった感じで着崩していた。

 目を伏せる。本能でわかる。あの手のタイプは目があったら絡んでくる輩に違いない。

 可能な限り存在感を薄くして、廊下の端っこを小さな歩幅で進む。ヤンキーの足音が近づいてくる。北校舎に向かってるみたいだ。くそ。確実にすれ違うタイミングが発生してしまう。

 目線は下に。ヤンキーのたおやかな脚が見えてきた。あと三歩……。二歩……。一歩……。

 ———交錯。

 何事もなくすれ違う。安堵の息を吐く。

「おい」

 後ろから威圧的な声が聞こえた。束の間の安息は崩れ去ったみたいだ。

 ……いや、まだ僕に呼びかけていると決まったわけでは、

「お前さ、あのマグロ女……真に何した?」

「ま、マグロ女って。な、何それ」

 焦って振り返る。ヤンキーの小さな背中が見える。

「ベッドの上の話じゃねえよ。何勘違いしてんだ気持ち悪い。走ってないと死んじまうからマグロ女。他意はねえよ。それよりもいいからさっさと答えろよ」

 ヤンキーも苛立たしげに振り返ってこちらを睨みつけてきた。

 僕は以前の経験から鳥高生の改造制服や校則違反はオシャレのためにしているのだと考えていたのだが、何事にも例外はあるらしい。それが目の前にいる。この生徒は明らかに〝威嚇〟のための格好をしているように感じる。ナニに対しての〝威嚇〟かは知らないけど。

 何はともあれ質問に答えることにする。……けどやっぱりムカついたので、

「何って、まあそうだな……。新免くんに倣っただけだよ、佐々木さん」

 つい皮肉混じりの返答をしてしまった。

 僕の答えを聞くと、佐々木さんは不満気に舌を鳴らして北校舎へと足を向けた。

「ねえ、なんでそんなこと訊くん?」

 僕の問いかけに反応せず佐々木さんは歩いて行く。どうやら答えてくれないらしい。

 まあいいか、と僕も身を翻そうとしたところで、気怠そうな、だけれども透き通った涼し気な声が聞こえてきた。

「……切れ味鋭い、ナイフみたいな得物を隠し持っているくせして、それを自傷にしか使ってこなかった女が他人(ひと)を斬る事を覚えやがった。まあ、その時には御丁寧にウレタン製の模造刀に持ち替えて相手に傷ひとつ残っていないってオチだが、本人がそう思っているなら確かに斬っているんだろうさ。私は気に食わないけどな」

 何の話をしているのだろうか。僕の質問へのアンサーなのだろうけど、比喩表現が多すぎて要領を得ない。見た目によらず、もしかしたら佐々木さんは文学少女の一面があるのかもしれないな。そして、見た目通りに何やら危なっかしいものが好みみたいだ。

「うーん……。すげぇ鋭いジャックナイフを使う後輩がいるんだけど、紹介しようか?」

「はっ! 下らない」

 佐々木さんは吐き捨てて北校舎へと歩き始めた。

 慌てて声をかける。

「ちょっと待ってって。意味わからないんだけど」

「はあ? 何だよ。お前も(なまくら)かよ」

 大きな溜息と共に顔だけをこちらに向けて、

「つまり、乙女ってこと」

 それだけ残して去っていった。



 下駄箱でスニーカーに履き替えた後、自転車を取りに駐輪場へと向かう。

 外は地獄の温度だった。

 直射日光に加えて地面からの照り返しも加算される。いや、もはや乗算と言っても過言ではない。

「あっづ……。今年の暑さは異常だろ」

 何だか毎年同じ文句を言っている気がするけれど、毎年そう感じるのだから仕方がない。小学生の頃は地球温暖化なんて教科書の話で、自分たちの住む場所には関係のない問題だと思っていた。けど近年の暑さを鑑みるに、ペンギンとシロクマだけの問題ではないと悟り始めた今日この頃。かといって、僕にできることはクーラーの温度を二十八度に設定するぐらいのもんなのであるが。

 自転車に跨ってペダルを漕ぐ。校庭を横断し北門を越えようとしたその時、

「可児くん! ちょっと待って!」

「ん?」

 遠くから聞き馴染みのある声が聞こえてきた。

 声に向かって振り返ると、グラウンドから綺麗なフォームの長距離走者(ステイヤー)、一条真が駆け寄って来る姿が見えた。

 一条さんは、どこぞのお調子者のテニス部ほどではないにしても、こんがりと日焼けをしていた。そりゃあ、こんな炎天下の中ずっと走り回っていたら日焼けもするよな。体質による程度の差はあれど、屋外競技に励んでいる者は幾らスキンケアをしても日焼けしてしまうのが現実なのだろう。

 太陽に灼かれながらそんなことを考えていると、一条さんが目の前にいた。いつの間にか傍までやってきていたらしい。その彼女の視線は僕の足元に注がれている。

 ん? 足元……?

 気になって足元、いや自転車のタイヤを見てみると、前輪は学校の敷地外に出ている。後輪は敷地内に残っている。そして僕は今現在、自転車に跨っている。校則によると校内では———

「……うん。これはセーフでしょ」

「可児くん。降りなさい」

「……はい」

 一条さんは夏休みとて相変わらずの委員長だった。

「部活は終わり?」

 自転車から降りて尋ねてみる。

「ううん。今日は夕方まで練習。今は小休憩中なんだけど可児くんの姿が見えたから」

「えー。やっぱ運動部はスパルタだよな。文化部でホント良かったよ。それで、どうしたん?」

「え?」

「ん? 何か用事とかあったんじゃないの?」

「あ、ああ、うん。そう。……えっと、今日の帰りに陸上部のみんなで買い食いをして帰ることになって。アイスクリームを」

「へえ、いいじゃん! なんかそういうの、青春っぽい」

「うん。あ、でも毎日そんな事はしてないから。今日はたまたま」

 別に買い食いの宣言など普通の女子高生ならする必要もないだろうし、そんな犯罪予告じみた宣言をしてしまう一条さんはやっぱり少しズレているのだと思う。それでも何だか僕はその宣言に嬉しくなったりしてしまう。

「あと……あ! そうだ。メールアドレス! だよね。交換するの忘れてた」

「ああ、確かに」

 一条さんが急いで帰ったあの日から、じっくりと話す機会がなかったので(まあ実際には一度だけあったんだけど思い出すのも恥ずかしいので割愛)すっかり忘れていた。

「あぁ……でもケータイ部室だ。何か書くものないかな?」

「書くもの? んー、じゃあ」

 リュックを漁る。スケッチブックとペンを取り出す。

 あれ? でも別に書いてもらわなくても僕のスマホに直接打ち込んで貰えばいいのか。……まあいっか。一条さんなりのプライバシーへの配慮かもしれないし。

 そんな葛藤をしつつ、スケッチブックを白紙ページまでめくっている最中に、とある黒い生物の落書きが目に留まった。ヘタクソな落書きだ。小さい頃に描いていたみたいに、自分が描きたいものを好き勝手に描いている。改めて見ると結構恥ずかしい。

 ……ああでも。そういえば、見たそうにしていたしな。

 僕は一条さんにペンとスケッチブックを差し出した。

「じゃあ、ここら辺にお願い」

「えっ……。これ、いいの?」

 どういう意味での「いいの?」かわからないけれど、

「いいよ。大胆に描いちゃって」

 一条さんはペンを受け取ると、まじまじと落書きを眺めて、小さく微笑んだ後にペンを動かし始めた。右下の隅にこぢんまりとした整った字でメールアドレスが記される。

「はい。ありがとう」

 ペンとスケッチブックを受け取る。

「いいや、こちらこそ。最初にメアド交換しようって言い出したのは僕だし。帰ったら登録しとくよ」

「うん……」

 会話が終わる。

 ……。それにしても暑い。立っているだけで汗が噴き出している。まるで太陽が目の前にあるみたいだ。

 そういえば小休憩って言っていたけど時間は大丈夫なのだろうか。

 思って切り上げようとした時、

「あ、あの!」

「う、うん?」

 一条さんが大きな声を発した。

「……あの時の、返事。まだ、だったから……」

 あの時の……。

 自分の顔が瞬く間に熱くなるのがわかった。くそっ。ああ、ホント太陽が近すぎる。そのせいだ。きっと。だってこんなに熱いんだ。そうでなきゃオカシイ。

「あの……私、そういう付き合うとか、彼氏とかって今まで考えた事なくて、でも可児くんがイヤかって言うとそんな事は絶対になくて、だから、あの、もしよければっていうか、可児くんさえよければ友達から、でよろしくお願いできないでしょう、か?」

 彼女の日焼けした頬が、それでもハッキリとわかるぐらいに紅潮しているように見えるのは、流石に都合が良すぎるだろうか。いや、きっと彼女も夏の太陽に浮か(うな)されているのだろう。そう日射病だ。違いない。

「……は、い。こちらこそ、よろしくお願いします」

 それだけしか言えなかった。本当はもっと色々言った方がいいのだろうけど、無理だ。

 グラウンドから集合の合図が聞こえる。「……それじゃ」と笑顔と共に太陽が走り去っていく。

 おかしい。熱が冷めてくれない。湯気が出るほどに思考がぼやける。大丈夫、日射病。これは日射病だから。浮かれるな。妄想するな。頭を冷やせ。冷静になれ。友達って言われただけだろ!

 ……。けど、うん。何だか青春っぽい。

「はあぁ。あっっち〜〜〜〜」

 ああ、ほんと今年の夏は異常だ。

 見上げると真っ青なキャンバスには真っ白の綿菓子みたいな雲とカンカン照りの太陽が浮かんでいた。


 ちょっと不思議な夏の入り口を抜ける。そこには茹だるような普通の夏が待っていた———

 少しだけ青春の匂いがした。



    ◇


 ————————走る走る走る走る。

 心臓がダンダンと拍動する。

 空気を求める。が、その通り路は細すぎた。

 肺は酸素と二酸化炭素で大渋滞。往路も復路も停滞中。交通整備が追いついていない。

 全身の細胞から酸素を寄越せとクレームが届く。プルルルルル。

 全ての臓器が走るのをやめろと訴える。カンカンカンカン。

 脳みそが今すぐ停止するように命令を下す。ピーポーピーポー。

 ……うん。そうだよね。ごめん。でも、もうちょっとだけ走らせて。

 身体からの警報が鳴り止んだ気がした。


 ————————走る走る走る走る。

 筋肉が張って思う様に動かない。無理したせいで筋繊維が損傷している。エネルギーの供給バランスはとっくに破綻していて、乳酸が蓄積する。

 足が棒みたいに固まる。腕は鉛みたいに重い。

 喉が渇いた。頭がぼんやりとして、目が霞む。

 もう。脱水には注意が必要だってわかっていたはずなのに。

 口の中いっぱいに血の匂いが広がる。

 嫌な匂いだ。

 無理している時の匂いだ。

 私の肺が頑張っている時の匂いだ。

 私が、走っている時の匂いだった。

 減速する。減速する。

 限界だった。

 それでも自分の意思で進んでいく。

 周りの風景がハッキリとわかるほどにスピードは落ちていた。

 ランニングからジョギングへ、そしてウォーキングへ。今やノロノロと歩いてしまっていることだろう。

 ぼんやりと、今までの思い出が蘇る。

 いつもの問いを繰り返す。



 アレ? 私はなんで走っているんだろう?

 それは、きっと————



 私はついに、つんのめって前へと転んでしまった。一瞬だけ火花が散ったみたいに目の前がパッと瞬いた後、真っ暗になって、土の匂いがした。地面の冷たさを感じる。膝小僧からヒリヒリとした痛みが体を駆け上がってくる。きっと擦りむいてしまっているのだろう。うん。痛い。転ぶのは、やっぱり痛い。

 ゼエゼエと喘鳴が聞こえる。自分のものとは思えないくらいに荒い息遣い。私は今、命を吸って吐くだけの物体になっていた。

 本当は、こんな停止の仕方はあり得ないのだけど。激しい運動後の虚脱症状を防ぐためにも急停止なんてしてはいけないのだ。そう。これはいけないことだ。いけない、のだけれど。でも……。

 まあ、いっか。偶にはね。そもそも最後の方は歩いていた様なものだし。

 私がしばらくうつ伏せのまま呼吸を整えていると、後ろから土をふむ音が聞こえた。

 好きだった匂い。懐かしい雰囲気。

 泣きそうになる。きっと痛みのせいだろう。

「あら? ふふ、盛大に転けちゃったね。 大丈夫? 痛い?」

「……うん。痛い。でも大丈夫。もうちょっとだけ、待って。少し休憩したら、また走れるから」

「うーん。そう? 真のペースでいいから、無理はしないでね」

 優しい声に元気をもらう。

 その荷物を大切にしまった。

 けれど。

 やっぱり私はこれからも全力で走るのだと思う。私はそういう生き物みたいだ。少しは休憩をとってもいいかなって思う様にはなったんだけどね。

 腕に力を込める。ぐいっと上半身を起こす。

 膝を前に出し、つま先に体重を乗せて、立ち上がる。

 土埃を払う。膝は擦り切れて赤黒かった。

「そっか。……行ってらっしゃい」

 振り向かない。ただ一言。

「行ってきます」

 スタートを———

「ああ、そうだ。忘れてた。ちゃんと回答しておかないと」

 目を瞑る。

 あの夜の事を思い出す。



 私は何で走っているんだろう。

 それは、きっと———走ることが好きだからだ。

 ……ふふ。知らないけどね。


『えー。うーん……。ふふっ。はい。よくできました!』









〝ジャンクフードに真心(まごころ)を込めて 了〟


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