スタート
瞬間、その音を聞いた。
耳元で悪魔に囁かれたと錯覚するほど恐ろしい音だった。背筋は凍りつき、足がすくんだ。鼓膜はヘヴィーメタル歌手(テレビで一回見たぐらいだけど)に弄ばれるギターのストリングのようにビリビリと震えていて、しばらくは使い物にならないみたい。視覚はどうだろうか? 真っ赤っかに染まっている。嗅覚は? むせかえるような匂いが鼻腔に突き刺さる。シーキューシーキュー! エマージェンシーです! 至急応答して下さい。身体から警報が鳴り響く。……いいえ、できません。だって身体どころじゃないのです。
でも、その音はスタートの合図だったらしい。
すこし時間が経って、状況を理解して、そうやって気づくと足は自然と前に出た。
目的地はわからない。だったら真っ直ぐに走ろう。
ゴールは見えない。だったら全力で走ろう。
とにかく遠くへと。
休むこともなく、転ぶこともなく。
自分はとても価値あるものを託されたのだから、その価値に見合う行いを。
————————走る走る走る走る。
キュルルルるる。
少女はハッと目を覚ました。
「んぅ。……ここは?」
知らない天井。どころかみたこともない空間。
先程まで自分は薄氷のような希薄な壁に囲まれた部屋、その中心で蹲りながら悪夢を嗜んでいたはずなのだ。奇妙な声に呼ばれて目を開けた瞬間、辺りは黒一色。真っ暗なトンネルと思しき場所に立っている。
「えぇっと……」
少女は訝しげにぐるりと周りを見渡した。
光は見えない。方向がわからない。
少女は口元に人差し指を当てて一瞬だけ考え込む仕草をした。けれど少女は実際のところ立ち止まって考える性分ではなかった。すぐに口元に当てていた指を前に突き出して「こっちね」と直感で歩き始める。……残念な事に、子供の身ながら足を前に出すという動作に関しては彼女に〝一日の長〟というものがあったらしい。
「ええ。本当に残念」
少女は呆れ果て、独りごちた。
ひたひた。ぺたぺた。
しかしながら、いくら歩いても疲れないし喉も乾かない。絶え間なくケモノの熱い寝息が聞こえてくるが、それ以外は何もない不可思議な空間だった。
どれほどの時間が経っただろうか。小さな足で遮二無二歩いていると徐々に青白い光が見えてきた。あれが出口だ。そう確信しながら、それでも走らず緩やかに歩みを進める。
暗闇を抜ける。そこは相も変わらず薄暗かったが、先程の空間よりはよっぽど光があった。廃墟のようだった。古びた機械が無造作に転がっている。窓から覗く月と、数メートルほど離れたテーブルに置かれた安っぽいランタン。優しげな灯りに照らされる、その影を見た。
大きくなった自分がいた。
ああ。成る程。
少女は嗤う。
それでは一つ問いましょう。
————————私はどうして走っているの?