烏賊の馳走
召集令状が届いた、あの日の烏賊を忘れることはなかった。
思い返すと、どうしてあれほど新鮮な烏賊が用意できたのかはよく分からない。ともかく、あの烏賊は戦争が始まって以来唯一の贅沢であった。人間魚雷の乗組員にならなければ、こんな贅沢は有り得なかったであろう。
僅か数日の訓練の後、正式に実戦作戦へと任命された。
戦地へ向かう輸送船にて、一人が甲板から飛び降りた。少し前から気が狂っていたことは明らかであったので、驚く者はいなかった。皆で彼を嗤った。
戦地にて待機中、不快な警報音が船内に響き渡る。その意味を知る者として、躊躇は無かった。
魚雷の中へ入り、潜望鏡から外を眺める。
遠くの方で戦艦が停泊している。手順の通り射角を設定し、予測時間を測定する。潜望鏡をしまうと推進機を起動させた。
発射からしばらくは順調に潜行していたが、海溝の上を通過する際に計器が異常を知らせた。魚雷が制御不能な急降下を始めている。僅か数日の訓練しか行っていないが故に、また乗っているのが魚雷であるが故に、何の抵抗もできないまま海溝へと引きずり込まれていった。
数分経って急降下から解放されたときには、深海に一人ぽつんと浮かんでいた。
推進機を一度止め、潜望鏡から外を眺めたが、何も見えない。浮上するために推進機をかけ直したが、かからない。想定を超える水圧によって故障したのか、急降下に抗っている間に燃料を殆ど使い果たしていたのか。
計器さえも沈黙している。
灯油の臭いが鼻を突く。息が苦しい。空気はもう残されていないらしい。
国の為でも、家族の為でも、自分の為でもない無意義な死。潜望鏡から望む世界にも意義は見当たらない。
ぼうっと潜望鏡から深海を眺めていたとき、一匹の発光海月が見えた。海月は泳ぐように、流されている。まるでこの魚雷のようだ、と思った。
海月を眺めて、私は思い出した。海には潮流がある。
計器をもう一度見ると、この魚雷も僅かに動いているのがわかった。操舵輪に触れる。舵は動かせる。
この潮流は陸地まで流れているのかもしれない。生きて帰れるとは思わない。しかし死ぬまでは生きていたい。
もはや故郷への愛などなかった。家族の顔は浮かばない。自分自身にすら興味はなかった。
私は力の限り舵を動かし、潮流に魚雷を乗せた。
少しずつ浮上しているのか、潜望鏡の視界はさっきよりも僅かに明るく見える。気付けば辺りには奇怪な海月たちが漂っていた。
海月に囲まれながら流されていると、進行方向の先に、一つの影が見えた。影は徐々に大きくなり、その輪郭が定まっていく。
「烏賊だ。」
この魚雷と同じ程の巨大な烏賊が、脚を広げ構えている。潮の流れは烏賊へと向かう。
脚が魚雷に絡みつき、潜望鏡に嘴が触れたとき、信管は音も無く爆ぜた。
私はあの烏賊の馳走を、思い出していた。