第四話 碧の棺 ④
久しぶりにきた大学は、僕の休学のなど気にしないように普段通りの青春の喧騒に包まれていた。
図書館棟に併設されたコーヒーショップで季節商品の新作を買い、学生証を入口の改札に当てる。どうやら大学の方は僕のことをまだ学生だと認めてくれるらしい。
できるだけ奥側の個室を探したが試験前なのかどこも埋まっており、仕方なく相席前提のオープン席を陣取った。
親に言われなぁなぁで入った大学生活は長くは続かなかった。目標も信念もなく、たまたまこの大学に入れる程度の学力があっただけの人間にとって、研究を目的にした高等教育機関は荷が重かった。なにより突然与えられた自由の扱い方を、僕は知らなかった。
周囲の眩しさに耐えられないまま明日が来ないことを祈る夜が何週間か続いた。愛理さんと出会ったのはそのころだ。ある村での病魔の調査、それと何件かの他愛もない依頼。それまで親の言いなりだった僕にとって初めての挑戦の連続で、それからはこの人のそばにずっといようと心に誓った。
大学を逃げ出した罪悪感、同期への劣等感や後ろめたさ。僕が今この場所にいるという事実そのものが心臓をぎゅうぎゅうと締め付けたが、愛理さんのためならばと考えてなんとか我慢できていた。
いくつか参考書や教本を手に取り席に戻ると、突然左から聞き慣れた声がした。
「すみません、隣いいでしょうか」
ええ、と答え振り向いた僕は目を疑った。グレーが基調の地味目のカーディガン、ベージュのサコッシュにボサっと整えられてない髪の毛、今回の依頼者の相羽みどりそのものがそこに立っていた。
「あっ、はい。どうぞどうぞ」
慌てて広げてた教本を寄せて、彼女のためにスペースを開ける。失礼します、と一礼してみどりさんも隣に座る。
「大学同じだったんだね」
彼女も驚いたように目を丸くしている。
「えっ……あ、うん、そうですね」
「……?」
彼女の返答はどれも生返事で、他の話題を出しても会話は長くは続かなかった。みどりさんはその間もチラチラと横目で見てくる。彼女の不思議そうな視線と沈黙に僕は耐えきれなくなっていた。
「その……みどりさん?」
「は、はいっ」
「僕の顔、なんかついてたりするかな……?」
「いえ、全然そんなことない、いつも通りですよ」
……これも要領を得ない返事で、僕は仕方なく調査に戻ることにした。大学の図書館ということもあり流石に専門書の量も質も違う。解離性同一性障害について具体的な症例や周辺環境などの記載を見つけるのも難しくはなかった。多くの場合で記憶の共有がされないのが理由でパニックを起こすようで、周囲は本人に病気を意識させないことが大事らしい。
さらにイマジナリーフレンドやタルパのような存在が交代人格化するケースも実際にあるらしい。どちらも主人格の精神状態を守るための症状だと考えれば納得できる。
みどりさんの方を見る。彼女はこの病気に苦しんで助けを求めてきたわけだ。そんな子ですら僕なんかと違いノートや教科書とにらめっこしながら大学生活を戦い抜こうとしている。
そうやって観察しているとみどりさんの姿に違和感を覚えた。背が妙に高く感じる。この前見た時よりも姿勢がいいんだ。それに気づくとほかのところも気になってくる。彼女の一挙手一投足から自信や気丈さが覗かせていて、なんというか男勝りな女性のように見える。あの子は片肘をつきながら考え事をするのだろうか。彼女の性格的にペンでくるくると手遊びするのだろうか。
しかしそういった姿勢から感じる気丈さや奇麗に整えられているレジュメとは裏腹に、教本のかなり序盤の方で悩んでいるように見える。
普段と異なる立ち振る舞いや表情。勉強で苦しんでいるのも記憶が連続していないとしたら?
――――蒼。一つの可能性が頭に浮かんだ時、彼女と目が合った。
「いま、あおって言った……?」
失敗した、無意識にに出ていたらしい。
「き、聞き間違いじゃないかな」
この返答はだめだ。誤魔化しにすらなっていない。
「聞き間違いなんかじゃない。君はいま確かに蒼と言った」
彼女が僕のほうに身を乗り出す。目は真剣そのものだ。
「…………はい、言いました」
諦めて白状するや否や、正面からがっと両肩を掴まれる。
「僕のことは、みどりから聞いたのかな」
正直に話すほかなかった。下手に誤魔化して印象を悪くするよりかは、ずっといい。僕は探偵に向いてないのだと改めて自覚させられる。というか今、自分のことを蒼だって認めなかったか?
「そう、です」
そう僕が口にした途端、彼女の表情が花開いた……ような気がした。うまく言い表せないけど、ふわっと毛が逆立ったような、そんな様子だった。
彼女はそのまま僕の肩を引き寄せた。彼女の息遣いが感じられるぐらいの、そんな距離。
「ほ、本当に聞いたんだね。みどりが僕のことを君に話したんだね」
肩をつかむ彼女の手の震えが伝わってくる。やはり普段のみどりさんではない、彼女であればこんな反応はしないはずだ。
「だから、そうですって」
彼女の目が大きく開き、今度は肩を引き離される。彼女と目が合う。驚きと期待と疑いが混じった、そんなような目だ。
「ねぇ、これから予定って空いてるかな」
彼女の熱のこもった吐息が僕の上唇をなぞる。
「大事な予定は無いです。空いてます」
「じゃあさ……僕とデートしようよ」
今思うと断れる雰囲気では無かったと思う。心の中で愛理さんに謝りながら頷くことしかできなかった。そういう意味では、この瞬間から僕の決意は揺らいでいたのかもしれない。
もしくは結局は蒼さんの調査をするという名目なだけで、ただ彼女の目が失意に曇るような姿を見たくなかっただけなのだろうか。
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それから僕らは本当に、ただのデートをした。アミューズメント施設でエアホッケーやボウリングをして、休憩がてらビリヤードをした。
蒼さんはその間ずっとみどりさんの話をし続けた。彼女の好きな本や映画の話、たまに一人でカラオケに行くこと。みんなの前では大人しいけど2人になると凄くおしゃべりなこと。
蒼さん自身の話と言えば、普段は迷惑をかけ無いようにみどりさんのフリをしていたことぐらいだ。
羽を伸ばせることがたまらなく嬉しいと話しながら目を細める彼女の姿はまるで初めて歩くことを覚えた子供のように純粋で、触るとすぐに崩れてしまいそうな危なさを秘めていた。
僕の要望を聞きたいとごねるので美術館に向かうも開館時間を逃して笑いあい、そばの公園で話をすることにした。その時も変わらず彼女の話す内容はみどりさんについてばかりだった。みどりならこうする、みどりはこれが好き、みどりなら、みどりにも……会話の端々には常にみどりさんがいた。
日が落ちかけたころ、これで最後だからとせびられて大衆居酒屋に入った。彼女曰く、一度こういう場所に行ってみたかったらしい。
「じゃああらためて、かんぱい」
彼女の掛けでカチャン、とグラスをぶつかる音が鳴る。個室が売りのテーブル席、蒼さんは僕の隣に座っている。このグラスもかれこれ三杯目になる。
「今日は本当に楽しかったよ。阿形くんみたいな人がみどりの近くにいてくれて本当によかった」
「買いかぶりすぎですって」
恥ずかしさと罪悪感を誤魔化すように酒をあおる。
「それで阿形くんは、『わたし』とどこまで行ったんだい?」
「いやいやいや、だからそういう感じじゃなくって、本当にただの友人です」
「そんなことないさ。僕のことを話すのは本当に信頼できる人だけだって、みどりはそう言ってたんだ。きっと彼女の中ではもう特別な人になってるはずだよ」
「そうですかね……」
依頼の中で知っただけで絶対にそんなことはない。ただ、依頼のことは伝えることはできない。
「そうだよ!図書館棟であった時も僕たちの病気のことを調べてくれたんだろう?」
僕は罪悪感に胸が締め付けられた。蒼さんが期待するような信頼関係を、僕はみどりさんとは築けいたわけではない。ただの探偵の助手と依頼人なだけ。
そんなことも露知らず彼女は飲み放題のハイボールが注がれたジョッキを宝石を愛でるかのような瞳で見つめている。その姿をみると胃がキリキリと痛む。調査のためだという言い分だけが、今の僕をなんとか取り繕わせていた。
「ねえ、阿形くん。みどりと付き合うときは、犬は見せちゃだめだからね」
「苦手なんですか?」
「苦手っていうかー……ちょっと嫌な思い出ある感じで」
「とりあえず、気を付けます」
「ふふっ、とりあえずってのもなんか阿形くんらしいね。じゃあ約束の一杯」
彼女が新品のジョッキを手に乾杯を誘い、流されるまま乾杯をする。みどりさんも意外と酒豪なのかもしれない。ハイボールをすらすらと飲み干すと、ぐっと顔を近づけてきた。
「ねえ阿形くん。下の名前で呼んでもいいかな?」
「えっと、まぁ、別にいいですけど」
「良かった。僕の事も蒼って呼んでくれないかな」
「蒼、さん」
ふふっ、と彼女がほほ笑む。アルコールが回ってきたのか、とろんとした目の蒼さんが僕の方に身を寄せる。
「理人くん」
「はい」
「今日のこと、みどりには秘密にしてね」
「別に良いですけど、なんでですか?」
「ダメかな?」
『この人を殺すのに?』
「うん」と答えようとする直前、後ろから声がした。背中から僕らを客観視しているもう一人の僕がそこにいた。それは愛理さんに会う前のころの濁った瞳で、汚いものを見るような視線を僕に送っていた。
途端、自分が今日ともに時間を過ごしたのが誰か、みどりさんの依頼はどんなものだったか、頭に反響する。頭ではわかっていた。でも彼女の無垢な笑顔を見て見ないふりをしていただけだ。
――――勘違いされたのをいいことに、女と遊んだ時間は楽しかったか?
うるさい、と声を出そうとしたら、喉から息のかわりに吐き気がこみ上げてきた。蒼さんの不安そうな視線を振り切るように、慌てて僕はトイレに駆け込む。
僕は蒼さんを殺すために仕事をしているのに、蒼さんは僕のことを信頼してくれている。そういった罪悪感が僕の内臓を絞り上げてげぇげぇと固形物を押し上げる。喉が焼けるように熱くなり、涙が止まらない。
「大丈夫っ!?」
男子トイレなのもかまわず蒼さんが飛び込んで来て僕の背中をさする。
「ごめんね、こういうこと初めてで、ペースとか分かんなくて、その……」
違う、悪いのは僕なんだ、そう答えたいのに、その声は咳と嗚咽でかき消されてしまった。
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症状が落ち着いてから一緒に片づけをして、店員さんに謝りながら店を後にした。
夜風が優しく頬を撫で、僕らを帰路へと促す。アスファルトが湿ってい、居酒屋にいる間に小雨が降っていたようだった。
「今日はありがとうね。初めてのことばっかりで、本当に楽しかった」
「僕も楽しかったです。最後はちょっとはしゃぎ過ぎちゃいましたけど」
「場の空気に酔っちゃってたし、あれは僕も悪かったよ。でも本当に帰れそうかい?終電はまだまだだし、家まで送ろうか?」
「いやいやいや、ただでさえ看病してもらったのに、これ以上借りは作れませんって」
すっかり暗くなった空を見ながら、彼女が口を開く。
「じゃあ……一つだけお願い、聞いてもらっていいかな」
「全然いいですけど、どんな内容?」
「内容は秘密」
「えぇ……」
「次いつ僕になるか予想がつかないからね。次あった時のお楽しみ、で」
駅が近づき、蒼さんが立ち止まる。
「それじゃ、僕こっちだから」
「はい、お気をつけて」
「理人くん」
「はい?」
「……またね」
空では半分にかけた月が西に沈もうとしていた。