第三話 碧の棺 ③
「コールを受けてから結構経ちましたけど、なかなか出てきませんね」
「レディの支度ってのは時間がかかるものだよ」
そう話しながら彼女は朝食の総菜パンを頬張り、車内にほのかな甘い香りが広がる。みどりさんはまだ現れない。
「でもこんな遠くから見ただけでみどりさんか蒼さんか区別できるって本当なんです?」
「絶対じゃないけど、区別がつく可能性はあると思うよ。この前みどりくんが蒼さんに乗っ取られたときに何してるのかわからないって言ってたでしょ。つまりそれだけ性格や行動基準が違うってこと。裏を返せば姿勢や服のコーデにもその差が現れると思うんだよね」
「まぁ確かに……」
少し腑に落ちないが、気を取り直してミニバンの後部座席からみどりさんの家の玄関を見張る。毎朝通学のために外出するみどりさんの様子を確認、いつもと違えば乗っ取りの可能性ありと見て追跡調査する算段だ。ちなみにミニバンは明美さんに無理を言って貸してもらった物だ。
調査としてはあまりシッカリしたものではないがいかんせん予算からするとこのぐらいが限界で、現実はそこまで優しくはない。
「でもさ、久しぶりにちゃんと探偵の仕事してる感じワクワクするよね」
「……探偵っていうよりストーカーや不審者な感じですけどね、これ」
「尾行と見張りは探偵の基本だろー」
調査初日だからか愛理さんはかなり気合を入れているようで、スーツの型もぴっちりと直っている。彼女のまんまるな目がいつもより大きく見えるのも、いつも以上に化粧に気を使ったからだろうか。
「……なにじろじろ見てるんだい」
「なんか、いつもより綺麗だなと思って」
「仕事に集中したまえっ」
ぷいっとそっぽを向かれてしまった。声に出すのに結構勇気を出したんだけど、からかっていると思われたようだ。
僕もしっかりせねばと気合を入れなおし双眼鏡を覗く。ちょうどドアがゆっくりと動き出すところで。猫背でボサボサの女性が現れた。
「あれ、みどりさんじゃないですか?」
ベージュのサコッシュの紐を両手でつかみ頼りなくよたよた歩く姿は、先週見た彼女の姿そのものだった。それを見て愛理さんは小さくため息をついた。
「……そうみたいだねー」
「なに残念そうにしてるんですか」
「一応電話もかけてみよっか」
愛理さんにスマホを渡し、電話をかけてもらう。それに連動してみどりさんがビクッと跳ね、サコッシュからスマホを取り出す。
「おはよ~~~突然だけどみどりくんであってる?」
『―――はい、えっと、愛理さんですか?』
「うん。もしかして、理人くんじゃなくてガッカリした?」
『いえ、その…初めてだったもので』
ロクでもないことを言い出しそうな表情の探偵からスマホを引きはがす。
「初日だから念のため確かめようってだけで普段はこんなことしないから、安心してね」
「あっ、はいっ。全然問題ないです」
わたしもわたしも、と子供のようにスマートフォンを取り返そうとする愛理さんの頭を押さえつけ、みどりさんとの会話を続ける。
「突然電話かけてごめんね、そろそろ学校?」
「はい、ちょうど登校するところです」
「了解。気を付けていってらっしゃい」
「はい。いってきます!」
不満げな愛理さんを片手であやしながら通話を切る。
「ちょっとくらい話させてくれてもいいのに、いけず」
「んで、次は何するんですか」
「みどりくんの病気について調べよう。なんとなく多重人格って言葉は知ってるけど、私たちは医学の専門家ではないからね」
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―――解離性障害。本来一続きであるはずの人格が様々な要因で途切れてしまう病気。途切れている間に他の人格が入れ替わる形で行動しているケースを、解離性同一性障害という。
原因は生まれつきそういう傾向があるものと、幼いころの経験によって後天的に乖離してしまうものがあるようだ。つらい経験を肩代わりするために人格を入れ替える、みたいなケースもあるらしい。
「なにか良さそうな本は見つけたかい?」
本を両手いっぱいに抱えた愛理さんが隣に座る。
「うーん、症状に関する本はいくつか目星は付けましたけど、区の図書館じゃすこし限界ある感じです」
「たしかに。専門書あたりになると難しそうだねぇ」
彼女が持ってきた本も多重人格をあつかったドキュメンタリーやそういった人のケアについて書かれたもので、専門書とはほど遠そうだ。
「でも僕らは別に医学の専門家ってわけじゃないですし、このぐらいがちょうど良いですよ」
「理人くんは確か医学部だったし、専門家の卵みたいなもんだろ?」
「まだ教養課程と基礎医学ですし、そもそも休学中です」
ぺりぺりとページをめくる音が2人の間で静かに音を奏でる。やわらかい紙同士がこすれる音、糊付けされていたページがはがれる音。たまに聞こえる手帳にメモする鉛筆の音も心地よい。図書館特有の香りに包まれながら、僕らは紙とペンのデュエットを奏でた。
しかし次のページをめくる僕の手は愛理さんに制止された。驚いて顔を見ると、申し訳なさそうな眼差しで愛理さんが僕を見つめていた。
「ねぇ理人くん。ほんとに良かったのかい。私なんかの所より……」
僕が大学を休学して探偵業を手伝っていることをまだ気にしているようだった。
「それより、薬物治療は根本解決できなさそうですね」
「……みたいだね。カウンセリングや精神治療、ストレスを極力受けないような環境で自然に解消するのがよさそうって話みたいだ」
治療が確立されているわけではなく、個人個人に寄り添うことが重要との補足も記載されている。
「そうなるとまずはみどりさんのストレスの原因を調べるところからですね。本人に直接聞かないようそれとなく調べるのと、友人関係も洗う方がよさそうですね。それと今の環境でストレスになりそうなところがあれば、僕らが裏で根回しして取り除いていく感じで。あとは交代人格が現れた時は」
僕の次の言葉を遮るように愛理さんが口を開く。
「理人くん、やはり君は……」
「愛理さん、僕は今の生活に満足してますから」
「……わかった、この話はもうしない」
諦めたように愛理さんが手をひっこめる。
「すみません、ありがとうございます。それともうちょっと専門知識というか、ちゃんとした資料も当たってみたいので、明日大学の図書館にでも行ってみます」
「うん、頼むよ」
そうやって確かな収穫は何も得られないまま、久しぶりの仕事の一日目は終わった。