まどろみの世界の話
序章
雲一つない青空。太陽がこれでもかというほどに草原を照りつける。ただ暑いというわけではなく、むしろ蝶々がヒラヒラと舞うように優雅で心地がいい。
どこからともなく桜の花びらが舞い散る。
草むらで眠りこけていた高校生くらいの青年は鈍い思考でそんなことを考えていた。
中肉中背で健康的な白い肌。髪の色素が薄く日本人にしては茶色い。くせが少しついているので比較的ボリューミーな印象を与える。
「ん、んん~っ」
生い茂る草っぱらから体を起こし伸びをした。
ひゅうっと吹き抜ける北風が眠気をさらっていく。
目じりから一筋の涙がこぼれた。目をこすって視界を明瞭にする。
「ここが彼女の…………」
ゆっくりと腰を上げあたりを見回してみた。
とそこで、数メートル離れた位置に一人の女の子が寝そべっているのを見つける。
「おっと、こんなことしてるヒマじゃなかった」
ここにいる目的を思い出しそそくさと女の子のもとに歩み寄る。
肩を揺さぶると寝ぼけた可愛らしい声で、
「あふぅ……あと五分」
うつろな声が返ってきた。
「ちょっ、天瀬さん。寝てる場合じゃないってば!」
「……ふぇっ!? 源くん!」
青年の顔を見るや否や、彼女がまどろみから一気に覚醒する。
肩のあたりで切りそろえられた絹のような黒髪が揺れた。
色っぽい端正な顔立ちながらも不思議なことに大人っぽくは見えない。女子大生のような大人になる寸前のお姉さんの中に子供っぽい純粋さを入り交えたような顔つき。
ぴょこっと跳ねた寝癖を隠そうとする彼女に青年は急ぎたてるよう催促した。
「行こう、天瀬さん。“この世界”に存在できる時間は限られてるんだから」
「う、うん。急がないと間に合わないよね」
彼女が立ち上がったのを確認してすぐに一歩踏み出し始める。
道標として青年が見据えているのは一キロほど離れたところにある場所だ。そこに彼らの求めるものがある。
桜が雪のように散るのを目にしながらどんどん先へと進んでいった。
進んで、進んで、進んでいく。
するとどこからか、楽しそうに謳う子供たちの声が流れてきた。
『さくら、さくら、こぼれおちゆく、さくら』
声色は明るいのに、その歌はどこか悲しみに満ちていて。
思わず足をとめ耳をすませた。
そして————————それは突然、訪れる。
「危ない天瀬さんッ!」
「きゃっ!」
覆いかぶさるような形で青年は彼女に飛びかかった。
それから一瞬遅れて彼女のいた頭の位置に空気を切り裂いて何かが通り過ぎる。
「いたた……っ。だ、大丈夫?」
「私は平気だよ。それよりも……」
「うん。警備が発動したらしい」
青年が地面につき刺さったそれを引っこ抜いてつぶやく。
プラスチックで作られた矢。一方の端には弦に引っ掛けるための矢筈がついている。
異様なのは、その逆側。
矢尻にあたる部分が桃色のハートの形をかたどっているのだ。
さながらキューピットが用いるような矢ではあったが殺傷能力に関していえば申し分ない。突き刺さっていた地面は見事なまでに抉られていて、これが彼女の頭でなくてよかったと心の底から安堵する。
「どこから打ってるんだ?」
「源くん、あそこ見て!」
彼女が指さすほうに視線をやった。
そこにはしょうべん小僧に似た石像がこちらに向かって弓を構えていた。背中からは天使のような小さな羽が生えていて、まさにキューピットの石像である。
キューピットは左右にそれぞれ二体ずつ設置されていた。まるで門番のようだ。
なぜそのような門番がいるのか。
答えは単純明快。
「……なるほどね」
目の前にそびえたつ建造物を見上げた。高さはそれほどなく四階建ての学校に匹敵するくらい。木造で飾り気のないそれはお城を連想させる。
この最上階に、彼らの求めるものがある。
ここの入り口を守るキューピットの石像がそれを物語っていた。
「ここを登り切れば、今回の依頼は達成ってことだな」
「うん。『鏡』があればの話だけど」
「さっさと確かめにいこうか」
「源くん、周囲には気をつけて」
「もちろん」
お互いに頷いて先へと進む。
しかしそう簡単に門番たるキューピットが彼らを通すわけもなかった。左右からハート型の矢を放ち、人の多いスクランブル交差点のように矢が四方八方に飛び交う。
常識の範囲で考えればこの道を突破することは不可能に近い。無理やりにでも突っ込めば頭蓋骨は砕け散り、身体のいたるところに穴が開いて、まさにハチの巣状態になるだろう。
安全を考慮して城に侵入しようと試みるのが一般的な作戦であり、唯一の解答でもある。
――――ただし、この世界は普通ではない。
「天瀬さん、俺につかまって」
「わ、わかった!」
彼がそう言うと彼女は少しためらいを見せてから彼の右腕にしがみついた。
こんな状況だとはいえドキドキと鼓動が高まる。
腕に当たるやわらかな感触が脳幹を刺激した。
彼女からも鼓動を感じるのは気のせいだろうか。今の彼に確かめるすべはない。
ぎゅっと捕まったのを確認して宣言する。
「跳ぶよ」
ぐぐっと足に力を込めた。縮まったバネが爆発するように彼のふとももからつま先にかけて生まれたベクトルが一点に集中する。
現実的ではない、夢の中のような出来事が起こった。
バッ!! と勢いよく飛び跳ねる。
ドライヤーを浴びたように、猛烈な風が彼らの前髪をいたずらにかきあげた。
キューピットたちが守護するテリトリーを跳び越え、城の入り口前で着地することに成功する。流れるままに城内へと足を踏み入れた。
扉をしめ切って一息つく。
「……ふうっ。なんとかなったね」
「すごかった……っ」
しかし、彼らは休む間もなく先を急いだ。
――――この世界にいられるのは残りわずかだ、と。
最上階を目指すための階段を探した。
だが、それらしきものはどこにも見当たらない。
それどころか辺り一面、想像していた光景とは全く異なっていた。
「…………女の子の、部屋?」
周りの状況を把握した彼女がポツリともらす。
城の入り口から先は世界観が嘘のように変わり果てていた。後ろを振り返っても質素な城の玄関はどこにもない。ごくごく一般的な家庭の、ごくごくありふれた木製の扉がそこにあるだけだ。
女の子の部屋らしき中はファンタジーに溢れていた。部屋の四隅にそれぞれベッド、机、タンス、本棚が配置されていて、どれも白色と桃色で統一されている。壁面も薄いピンク一色で白を基調としたじゅうたんにはハート模様が描かれてあった。
唖然とする二人であったが、青年の視線がとある物に行きつく。
「見つけたっ! 天瀬さん、あったよ!」
彼の指さす先には机の上にはそぐわないノートパソコンサイズの木箱があった。海賊がもつ宝箱のようなそれを目にして二人は歓喜する。
「これで一安心だね」
「うん。あとは中身を覗くだけだ」
高まる興奮をおさえつつ、彼らはつい浮足立ちながら机に寄っていった。
青年が木箱に手を添えてごくりと喉を鳴らす。
「じゃあ…………開けるね?」
返答はなく代わりに首肯が送られた。
ゆっくりと、そのパンドラの箱たる秘密を解き明かす。
浦島太郎のように煙が噴き出し歳をとることはなかった。
バネ仕掛けのドッキリグッズが飛び出すことも、また然り。
中に入っていたのは一枚の鏡だ。
金の淵で装飾されたそれは白雪姫に登場する魔法の鏡を彷彿とさせる。
実のところ、彼らの目的はこの鏡を手に入れることではなかった。
用があるのはその中身。
鏡の中身といえばなんのか。
答えは明白。
鏡に映る、その光景。
青年は裏返しになっている鏡を表にひっくり返した。
一瞬光の反射で目がくらむが気にしない。
鏡の中をのぞき込み、息を呑む。
――――鏡の中では、ツインテールの少女が抱き枕をかかえて眠り込んでいた。
抱き枕には同級生であろう男子の絵がプリントされている。それと、眠る少女を取り囲むようにギターが並べられていた。
「……これが」
「……あの子の心の中なんだ」
ここはとある少女の、心の中の世界。
そしてまた、少女の夢の中でもある。