20縛 キス
「……時生さん」
急に、扉の外で京が呟いた。
「どうした」
「ずっと出てこないので、何かあったのかと」
「何でもない、気にしないでくれ」
いや、それはないだろう。危険なのは、京も同じだ。彼女だって、そんな事はわかっている。なら――。
「古谷さんは、誰にも言いませんよ」
「なに?」
やはり、同じ事を考えていたみたいだ。しかし、今の意見はなんだ?まるで、俺の希望的観測をそのまま口にしただけじゃないか。
「どうしてそう思う?」
「だって、古谷さんは時生さんの事を、本気で好きになっています。そして、時生さんが学校から消えれば、悲しむのは彼女ですから」
それは、とても彼女だとは思えない、落ち着いた口調だった。おまけに、あいつの心の内を明かすだなんて。俺の知ってる矢箕京という女は、絶対にそんな事をしないハズだった。
「……初めてなんです。心の底から、勝ちたいって思ったのは」
意識が目覚めたような、声だった。
「これまでは、みなさんが私の事を慕ってくれました。それでなくても、私の家柄を恐れてくれました。それに、勉強も、スポーツも、文化も。使命感でこなしていた私にとって、それらは少しも興味のない事でした」
思わず振り返ると、摺りガラスに京の背中が映っている。
「だから、本当の意味で競争をした事って無かったんです。それが、今日になってやっと分かりました」
きっと、今までのどの瞬間より、強い意味を込めた言葉だ。
「私は、時生さんが大好きです。私を見つけてくれて。優しくしてくれて。教えてくれて。励ましてくれて。助けてくれて。怒ってくれて。私の人生で、たくさんの初めてをくれました。だから、大好きです」
……そうか。
「でも、私は時生さんとは戦えません。戦いは、同じ立場にいないと起こりませんから」
初めて、京の明確な『敵』が生まれたのだ。一般社会では、必ず起こる競争。古谷は、それを経験してこなかった京の、歪を歪に埋めたんだ。
「なら、私は古谷さんと戦います。私の力で戦います。そして、必ず時生さんを勝ち取ります」
不意に、古谷の『事情』が頭にチラついた。
「……バカだな、俺は」
「え?なんですか?」
「いや、何でもない」
密かに、奇妙な感謝を抱くその一方で、実を言うと俺はむず痒くて仕方がなかった。
俺を取り合って、二人の女子が戦うだなんて。ましてや、『同じ立場』という言葉を使って確認の有無も無く信用させられて、更に宣戦布告を直接されるだなんて。
顔が熱い。何も、考えられない。
「一つだけ、時生さんにお願いがあります」
そんな俺の気持ちなどつゆ知らず、京は扉から背中を離した。そして。
「キス、してください。私を、古谷さんと同じ立場へ連れて行ってください」
ポタリ。蛇口から、太い水滴が落ちた。
「時生さん、言いましたよね。コウノトリさんが来るのは、20歳以上の恋人同士のキスだって」
「……あぁ」
「なら、17歳の私と、16歳の時生さんがキスをしたって、子供は来ません」
「いや、あのな。京。その話なんだけど……」
「めちゃくちゃにしても、責任取らなくていいんですよ?」
……間違いなく、あの時と違う。今の京は、その意味を知っている。まるで、思い出したかのような、唐突な変化だ。
「だから、キスをしてください。そして、古谷さんよりも、一回だけ多くしてください」
俺は、京の事が分からない。今まで、ずっと。
「なぁ、京」
「はい、なんですか?」
「どうして、あのクリスマス・イヴに、お前は泣いてたんだ?」
虚を突かれたのか、少しの間、聞こえるのは換気扇の回る音だけだった。
「……何一つ、覚えてないんです」
最大の違和、知識自体の欠落。恐らく、その原因となった記憶を、京は喪失していた。
「あの日、気が付いたら目の前に時生さんが居たんです。ですから、それよりも前に、どこで、何をしていたのかも。どうやって、あそこに行ったのかも。どうして、私は泣いていたのかも。私には、分からないんです」
言い終えて、最後に小さく「ごめんなさい」と呟いた。
果たしてそれは、何も伝えられないことに対する言葉なのか。それとも、暴かないで欲しいという深層心理に眠る断片の願い事なのか。
……俺は、その正体が知りたかった。
「最初のキスは、一つしかない大切なモノだぞ」
「例え百あろうと、すべて時生さんにあげたいです」
扉を開けると、京はハッとして俺を見た。真っ黒に淀んでいて、感情はなくて。だけど、真っ直ぐな目だった。
「好きです」
改めて見た京は、前に抱きしめた夜よりも随分と大人びて見えた。人としての、痛みを知ったからなのだろうか。
もしも、大人の階段があるというのなら、その正体はきっと悲しみと苦しみなのだろう。立ち止まって下を向き、やがて何か喜ぶ理由を見つけた時、人はそれを登ることが出来るのだろう。
前に進む彼女は、弱々しくて、切なくて、綺麗だった。
「……ん……っ」
水滴の付いた体で、俺は京の顎を優しく持ち上げ、目を閉じて唇を弱く押し付ける、少しだけ長いキスをした。
京は、きっと腕を垂らしたまま、小さく声を漏らして。真似するように、触れている感覚を集中させるように、目を閉じただろうか。その瞬間の京の、それだけが分からなかった。
やがて、目を開けてほんの1ミリの隙間を作った。唇が吸い付き合って、離れようとしたその瞬間。
「……っ?」
それまで動かなかった京が、突然俺の首に手を回し引き寄せて、余韻が訪れる事を嫌った。離れないように求めて、俺の唇を閉じ込めるように挟み、強引に、下手くそに、ただ初めての感触を、初めてのまま感じ続けていた。
……離れてから目を逸らすと、京は俺を壁に押し付けた。身長の差は、俺の引けた腰と、彼女の背伸びで縮まった。
章で区切るなら、多分ここまで。
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