19縛 普通じゃない
「あれ、泣いてるんですか?もしかして、さっきのがショックだったんですか?」
「おい」
「まさか、同棲しているのにキスすらしていなかったんですか?」
「やめろ、桔梗」
「よく、我慢出来ますね。時生って、凄くいい体をして――」
「やめろって言ってんだ!」
多分、生まれて初めて、本気で女を怒鳴りつけた。しかし、古谷は気にも留めず、クスクスと笑い手のひらを見てから、ついてしまったであろう俺の汗を舐めた。
……お前もなのか、古谷。
「どういう、意味ですか?」
怒りや憎しみとは違う、純粋な疑問。それが、締め付けられた俺の心臓を更に苦しめる。
「どういう意味って……。あぁ、矢箕さん。もしかして、そういう感じなんですか」
首を傾げる京を見て、古谷は確信を得たようだ。
「へぇ、そうなんですか。まぁ、優月学園に通う生徒は、家柄のせいか浮世離れしている方が多いですから、特に驚くような話でもありませんが」
「……何が言いたいのか、さっぱり分かりません」
「いえ、それなら今日のところは結構です。取るに足らない相手と、分かりましたから」
きっと、古谷が考えるよりも酷いだろうけどな。
ともあれ、挑発は京の心を著しく逆撫でしたに違いない。それは、無表情でない彼女を見ればすぐに分かった。
しかし、どういう意味で自分が相手にされていないのかが分からない。だから、京は何も言う事が出来なかった。
ただ、涙を流して、俯く事しか出来なかった。
「時生、また学校でね。今度は、私が待ってるから」
そう言って、古谷は後ろで手を組み、軽い足取りで暗い路地の中へ向かった。勝ち誇ったような笑顔で、散歩でも楽しむように。
……普通のヤツなら、諦めて古谷を見送るのだろうか。その後になって、京に言い訳をして、キスからセックスまで一度にすべてを教えてやるのだろうか。その中で、自分も二人と同様に狂ってしまって、最後には三人で破滅する未来を、自覚も無しに享受するのだろうか。
「おい、待てよ」
だが、あいにく。
「勝手に話を終わらせるな」
俺は、こういう時に折れないんだ。
「あはっ。もう、返事を訊かせてくれるの?」
「あぁ、答えはノーだ」
京が顔を上げ、前を向いたまま古谷は立ち止まった。対象的な空気が、そっくりそのままひっくり返ったような雰囲気だ。
「聞き間違い、だよね。だって、時生は私のこと――」
「好きだった。でも、今は違う」
急速的に、古谷の温度が下がっていく。振り返らずとも、歯を食いしばっているのが分かる。
「確かに、俺はお前の事情を知らない。俺の見ていないところで、お前は苦しんでたのかもしれない。お前がおかしくなっちまったのは、俺がお前を傷付けてたからなのかもしれない。……でも」
だからこそ。
「俺は、お前の隣にはいられない」
桔梗。これは、互いの為だ。
悪いな。
「……あは。あははっ。あははははっ!」
聞いて、不気味に笑いながら、古谷はそのまま暗闇に消えていった。後に残ったのは、口をポカンと開けて惚けた京と、冷え切ってのっぴきならない俺の体だけだった。
疲れたよ、チクショウ。
「……それで、どうしてこんなに早く帰ってきたんだ?おまけに、ここはウチから5キロも離れてる」
「え、えっと……。あの、後処理はですね。実は、秋津が手伝ってくれまして。ですが、その後も別の仕事で手が離せないようだったので、私は電車で……」
「結果、乗る電車を間違えて、気が付いたのがそこの駅だったってワケか」
「は、はい。あの、急行電車は、時生さんの家の最寄りには、と、止まらないみたいでして。えっと……」
「……さっきから、何を我慢してるんだよ」
唇を噛み締めながらの、ぎこち無い喋り方だった。
「だって、私は……」
俺を、本気で疑っていた。だろうか。
「酷いヤツだな。俺ってば、こんなに頑張ってるのによ」
「いや、そうじゃなくてですね。ちょっと、気が動転してしまったといいますか。その……」
流石に、意地悪すぎただろうか。京は、腕を抱いて目線を逸らすと、徐々に背中を丸めて小さくなってしまった。
出来れば、普段からこれくらいしおらしく居て欲しかったから。
「しばらく気にしとけ、アホ」
笑って言って、額を指で突いてやったのだった。
……その後、京は俺と歩いて帰ってきた。よくもまぁ、革靴でそんなにテクテク歩けるものだ。上りの各停で三駅、先に電車で戻っておけばよかったのに。
「シャワー浴びてくる」
もはや、運動の汗なのか冷汗なのか分からないが、ともかく俺は熱い湯で体を流して、ガシガシと体を洗った。心の中にある不安を、少しでも和らげたかったからだ。
結論から言えば、俺は今日を乗り切ったワケではない。明日に、もっとデカい問題を作ってしまったのだ。
古谷に、京との同棲がバレた。
多分、俺が考えている以上にヘビーな問題だ。これをネタに、あいつに強請られる程度ならまだいい。しかし、学校に報告されれば、俺は優待制度を打ち切られるくらいはするだろう。
まぁ、俺はクビになってもまた働けばいいさ。だが、噂が立てば、京だって学校内での立場が脅かされるに違いない。
『暇潰し』には、もってこいのネタだ。これは、詰んだかもしれないな。
「……クソ」
突き放さないで、もう少し平和的な解決を目指すべきだった。多分、人に言われている程、俺は大人じゃないんだろう。評価を鵜呑みにして、自分を過大評価していたのかもしれない。
そんな事を、今になって思う。
湯を止めて、そのまま壁に手をついて考えた。冷静になった分だけ思考が回って、次々に問題が浮かび上がってくる。そして、そのすべての決定権を握っているのは、悲しいくらいに古谷だけだった。
参った。俺の心臓は、完全に彼女に握られているらしい。
アーメン。




