18縛 眩暈
「……寝ぼけて、ぶつけたんだろ」
「そうかな。なんか、引き摺られて出来た傷って感じがしない?」
古谷は、カマをかけているのだろうか。俺がボロを出して、なにかヒントを言う事を期待してるのだろうか。それだけ、昨日の事実の存在を疑っているのだろうか。
かなり、厄介だ。
「分からん」
「そっか。まぁ、時生ならそう言うって思ってたよ」
俺は、ダッシュして切れたハズの呼吸を整えて、ようやく真っ直ぐ立ち上がった。それを見た古谷は、ジーンズを戻し微笑むと、一歩だけ俺に近付いた。
「でも、私はこう思うんだ」
そう呟いた時、俺にはほんの一瞬だけ、古谷の目の色が真っ黒に塗りつぶされたようなに思えた。
「時生が、本当に私を好きだと言ってくれた証拠だって」
「何が言いたいんだよ」
訊くと、古谷はクスクスと笑い、不意に俺の手を取った。
「好きになっちゃったの。時生の事」
……新しい『暇潰し』。誰だって、そう思うハズだ。古谷は、二人の時に嘘をつかない。あの頃の記憶を疑わなければいけない状況である事は、火を見るより明らかだった。
それだけは、綺麗な思い出のままでいさせて欲しかったよ。
「お前、バカなのか?夢に出てきただけの、昔の男に。しかも、お前が散々おもちゃにした相手だぞ」
「だって、夢でも現実でも関係ないくらい、カッコよく見えちゃったんだもん。もう、私の事情なんて、自分でもどうでも良くなっちゃうくらい」
「勘違いだ、この手を離せ」
「それに……」
また一歩、距離を詰められた。手は、まだ離れていない。
「こんなにバカげてるのに、時生は笑ったりしないでしょ?」
そう言って見上げられ、拒否を忘れるくらいに、俺は言葉を失っていた。
「勘違いしないで。別に、私は時生にやった事を許して欲しいワケじゃない」
言いながら、古谷は俺を手繰り寄せて。
「今から始めたい、そう言ってるんだよ」
目を閉じると、そっと背伸びをした。
……狂ってやがる。
「ふざけるな。お前、どういうつもりなんだよ」
突き放すと、古谷が後ろへ二歩蹌踉めいて、繋がれた手の長さで止まった。ゆっくり目を開き、触れてもいない唇を拭う俺の姿を見て、何を思ったのか妖しく笑った。
そして、一瞬どこかへ飛んでいた俺の意識が戻って、視界が広がったその瞬間。ちょうど、電車が通り過ぎて行った。
断続的な光が、暗い夜道を照らしたのだ。
「……時生さん?」
もしも、俺ではないのなら、おかしくなってしまったのは世界の方だ。こんな偶然を引き起こして、一体あなたに何の得があるというのか。もしも叶うなら、理由を教えて欲しい。
「どうして、こんなところにいるんですか?」
ユラリ。揺れながら、ゆっくりと近付いてくる。獣のように、赤子のように。その目に映る感情は、怒りか、悲しみか。判断は、つかなかった。
「私、そんなに寂しい思いをさせてしまったんですか?」
「ねぇ、時生。もう一回、好きって言ってよ」
彼女たちは、本当に互いの存在を認識していないんだと思った。あまりにも自然に、二人で肩を並べて、俺を見上げている。長い髪が、風に靡いて。夜よりも暗いその黒が、今の俺には深い闇に見えた。
どうして、こうなった。
「……挨拶くらい、したらどうだ」
気が付いた仕草は、二人ともわざとじゃなかった。それが、更に俺の正気を逆撫でしていく。
「あら、古谷さん。気が付きませんでした、こんばんは」
「こんばんは、矢箕さん。こんな時間に外出とは、不良ですね」
「あなた程ではありませんよ。それで、こんな時間に何を?」
「時生が会いに来てくれたので、お話をしていたんです」
「そんなワケがありません。ちゃんと考えてモノを言っていますか?」
「少なくとも、あなたよりは綿密に考えています。だから――」
俺が、ここにいる。そんなの、ハッタリに決まってる。
「帰りましょう、時生さん」
「一人で帰ればいいじゃないですか。なぜ、時生を巻き込むんですか?」
「私たちが、同じ場所へ帰るからです」
ふと、古谷の目から光が消えた。今度は、気のせいじゃなかった。
「どういう意味?時生」
「そのままの意味です。私は、時生さんと同棲しているんです」
「勘違いしてしまったんですか?矢箕さん。私は、あなたと口を利いてるワケじゃありません」
「どうもすみません。ただ、時生さんはとても迷惑しているようでしたので。ねぇ、時生さん」
どうして、彼女たちは俺の目を見ながら会話をしているのだろうか。
「それと、なぜ古谷さんは時生さんの手を握っているのですか?」
「いや、待て京。これは――」
「……京?時生。どうして、矢箕さんを名前で呼んでるの?矢箕さんと、どういう関係なの?」
京との関係。倉庫で気を失う前にも、そんな事を口走っていた。なんで、古谷はそんな事が気になってるんだ。
それも、お前の『事情』が関係してるのか?
「なぁ、古谷」
しかし、彼女は何の返事もしない。それどころか、掴んでいた手を両手で握り込んでしまった。
「……き、桔梗」
そう呼んだ時、京は手に持っていた鞄を地面に落とした。
「なに?時生」
「手を、離してくれ。俺は――」
「仕方ないなぁ、もう。大人っぽいのに、照れ屋なところは変わってない」
言って、古谷は俺の手を離した。それはきっと、言葉を遮るためだった。彼女は、俺が何を言うのかを、分かっていただろうから。
「……酷いです」
違う、そうじゃないんだ。
偶然に、偶然が重なったんだ。きっと、あの時お前を止める為に吐いた言葉が、外道になり切れない古谷の弱い心を刺激してしまったんだよ。ここに来たのだって、見えない力に導かれてるんじゃないかってくらい、細い可能性をすり抜けてしまっただけなんだ。間違っても、捜してなんていなかったさ。
「遠ざけたって、巡り合う。きっと、運命だったんだよ。時生」
そんなワケがない。それに、京。俺は、決してお前を裏切ったワケじゃないんだ。それだけは、本当だ。名前を呼ばなきゃ、古谷は手を離そうとしなかった。それだけなんだ。
でも、怒っていい。今は、信じなくてもいい。何か、俺が考えもしない悪口でも、目を背けたくなるような拷問でも、変態的なスキンシップでも。何でもいい。明日になったら、山ほどある言い訳をするから。今日だけは、何だって受け入れるから。
「私だけじゃ、無かったんですか?」
だから、お願いだ。そんなに悲しそうに泣かないでくれ。




