17縛 擦り傷
「別に、好きじゃなかった」
「あははっ、下手っぴ」
そりゃそうだ。俺は、告白をしたんだから。
「……あのね。昼に話した、夢の事」
また、電車の音が聞こえた。
「薬師がね、私に『好きだった』って言ったの」
「……へぇ」
「うん。他の出来事は、全部忘れちゃったんだけど。すっごく怖い夢だった事と、『好きだった』って言われた事だけは、なんでか覚えてた」
「そりゃ、変な話だな」
「うん。でも、だからさ――」
その先は、聞きたくなかった。
「古谷。夢の中の話なんて持ち出して、今さら関わってくるな」
……黙るなんて、ズルい女だ。
「分かるだろ?俺たちは、友達でも何でもないんだ。そういう『暇潰し』の話は、お前と仲がいいヤツに喋りなよ」
自分でも驚くくらい、俺は冷静だった。何となく、京を裏切っている自覚でもあったのかもしれない。彼女でもない女の、勝手に決められたルールなのに。
俺って、本当に愚かだ。
「……冷たいね」
「お前よりは、よっぽど血が通ってる」
「ううん、そんな事ないよ」
古谷の吐息が、少しだけ荒く聞こえる。
「だって、時生は私の事情なんて何も知らないじゃん」
「……なに?」
その時、再びラジオから音が流れた。聞いたことのない、甘くてベタなラブソングだった。そうやって歌詞が分かるくらい、沈黙は長かった。
「もういい、バイバイ」
「おい、待て古谷。お前の事情って――」
「古谷って呼ばないで、バカ」
吐き捨てるように言って、古谷は電話を切ってしまった。耳に入ってくるのは、無機質な不通音だけ。
「何だってんだよ」
別に、こっちから電話を掛けて、最後の言葉の意味を問うつもりはなかった。ただ、モヤモヤとした感情は胸の中から消えてくれず、暇を持て余している俺の脳内を侵食するように、余計な疑問を這い巡らせていく。
「チクショウ」
呟いて、すぐにランニングウェアに着替えた。イライラした気持ちを押し殺せなくて、遥にそれをぶつける気にもなれなくて。
だから、走りたかった。疲れて寝る為にこなしているロードワークを、すぐに始めたかったから。
アパートの外に出て、ストレッチをする。お気に入りのシューズは、底がすり減っている。それでも使い続けるのは、俺がこいつを一途に愛しているからだ。まぁ、貧乏性なだけだけど。
「……よし」
少し息が上がるくらい入念に体をほぐして、普段は徐々に上げていくペースを、今日は最初から全開で飛ばした。
すれ違う車のテールランプの残光と、遠くの方で赤く変わる信号機。排気ガスの匂い。酔っぱらったサラリーマンの声。それらを全て置き去りにして、ただひたすらに走った。
走って、走って。気が付けば、いつの間にかコースの折り返し地点。海まで続く川の途中の、少し広いベンチのあるスペース。そこに立って膝に手をつき、下を向いて息を整える。
シャツが肌に張り付くくらいに汗をかいたが、季節は春も終盤。まぁ、これくらいは――。
「分かってたよ。だって、いつもこの時間だったもんね。ロードワークに出るの」
……果たして、俺の目は、取り入れた情報を正しく脳に伝えているのだろうか。
「懐かしいね。時生が私に告白してくれたのも、今日みたいに月が明るい日だった」
奥二重の猫目に、薄い唇。シャープな輪郭と、筋の通った鼻。ウェーブ掛かっている京とは違う、ストレートで前髪をナチュラルにした、肩より下のロングヘア。俺の首より下の身長。その体のシルエットは、服装のせいか昨日よりも更に細く見えた。
「緊張してたから、走ってきたって言ってたよね」
後ろの線路を、電車が走っていく。窓から漏れる断続的な光が、彼女を不規則に照らしていった。
「本当に、何も変わってないんだから」
見間違いだと、願っていた。しかし、近づいて俺の頭上で笑う彼女は。
「私は、ちゃんと覚えてるよ」
疑いようもなく、古谷桔梗その人だった。
「……何で、こんなところにいるんだよ」
「後に来たのは、時生の方だよ」
クスクスと、口元に手を当てて笑う古谷。細身の白いパーカーと青いジーンズが、あの日と同じ服であることは、見た瞬間に気が付いていた。
「そうだな、邪魔して悪かった」
一刻も早く、この場所から離れた方がいい。なでしこを出た後の三年間、危機に晒され続けた俺の第六感が、激しく主張をしている。
「邪魔じゃないよ。だって、時生ならここに来るって思ってたから」
やめろ、言葉を返すな。
「それも、夢のせいか」
「うん。そうだよ、夢のせい」
関わるな、今すぐに引き返せ。
「そこまで夢に拘るなんて、お前らしくない」
「私らしい事って何?優しくしてくれた人を騙して、みんなで笑う事?」
……俺は、忠告したぞ。
「まぁ、そうだな」
「あはは、そっかそっか。……まぁ、そうだよね。私らしくないよね」
後は、自分でなんとかしろ。愚か者。
「でも、私は思っちゃってるんだ。もしかすると、あれが現実だったんじゃないかって」
そして、古谷はジーンズの脚を捲った。そこには。
「見てよ、これ。私、いつ転んじゃったんだろ」
絆創膏も貼らず剥き出しにしたままの、血が滲んでいる擦り傷が残っていた。




