蚊を助けた少年
「お母さん……痒いよお……」
「みせてごらん。ケンちゃん。……あら、蚊に刺されたみたいね。お休み前にベープマッドつけときましょうね」
「ありがとうお母さん。でも、不思議だね。どうしてベープマッドを付けたら蚊さんが刺さなくなるの?」
「それは……えっと……そう……! 蚊さん来ないでーっていう蚊さんへのメッセージなの」
「へぇ……すごいねえベープマッド。でも、蚊さんは嫌だったりしないかな? 寂しくなったりしないかな?」
「大丈夫よ。ケンちゃんは優しい子ね……」
お母さんは、お布団に寝そべる僕を優しく抱きしめてくれた。
「お母さん……熱いよ……」
「あら。ごめんなさい。じゃあそろそろ電気消すわね」
「うん……」
カチッと電気の消える音がして、何も見えなくなった。
そして僕はゆっくりまぶたを閉じる。
眠ろうとしたけど、考え事があったのでうまく眠れなかった。
……お母さんは多分嘘をついている。
『蚊さん来ないでーっていう蚊さんへのメッセージなの』
お母さんがそう言った時、声が少し上ずっていたし、俯くように僕から目を逸らしていた。
テレビで嘘の見抜き方とかいうのをやっていて、それに出て来た嘘をついている人の特徴そのものだった。
お母さんが僕に嘘をついているとしたら……本当は、蚊さんはベープマッドが苦手という事なのかもしれない。
だとしたら、蚊さんが可哀そうだ。
ぼくは真っ暗な中で緑色に光るベープマッドの光へと手を伸ばし、手探りでスイッチを切った。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「クソプンプン野郎が……」
不気味なほど低い女の人の声で、僕は目を覚ました。
何故か部屋の電気がついていて眩しかった。
ぼーっと目をこすっていると、
「チクショウ! どこに隠れやがった? ……絶対に殺す……殺してやる……! この手で!」
殺人鬼かと思ってびっくりして跳び起きると、怖い顔の女の人が立っていた。
あまりにも怖い顔だったので、その女の人がお母さんだと僕は信じられなかった。
「お母さん?」
「あ……ケンちゃん。何でもないのよ。ごめんね起こしちゃって」
「お母さん……さっきすごく怖い顔してたよ……」
「なっ……何でもないのよ」
「殺すとか、いけない事も言ってたよ」
「……そんな事言ってないわ」
「嘘だ! 絶対言ってたもん!」
「言ってません」
「言ってたもん! 絶対言ってた!」
「――うっせーんだよダボが。ガキは大人しく寝とけ」
そう言ってのけたのは、確かにお母さんだった。
「お母さん……どうしてそんな酷い事言うの?」
「……あら、ごめんなさい……そんなつもりじゃ……ごめんねケンちゃん。もう遅いから早く寝ましょうね」
「…………」
優しく抱きしめて来るお母さんの腕も胸も、いつものような温もりは全く感じられなかった。
その代わり背中に寒気がして堪らなかった。
「お母さん。離れてよ。まだ僕の話は終わってないよ」
「どうしたのケンちゃん……」
「お母さんは、僕に嘘をついているよね?」
「嘘なんてついてないわよ……」
「じゃあ何であんな怖い顔してたの? 誰を殺そうとしてたの? 教えてよ!」
「えっと……」
「もしかしたらだけど……お母さんは、蚊さんを殺そうとしていたんじゃない?」
「…………」
お母さんは俯いたまま何も言わなくなってしまった。
「やっぱり……どうして……? 蚊さんだって、小さいけど命があるんだよ? どうして殺そうとするの?」
「…………」
「ねぇ答えてよ! どうして?」
「――んなもん決まってんだろ! 痒いからだよ! ムカつくからだよ! あの野郎チクチクチクチク刺しやがって! ……人様の気高い血をチューチュー啜るとか何様のつもりだよテメー! その上耳プンだぁ!!??? ――耳プンだとおおおおおおぉ!!??? 『お前の血を吸ってやったぜー! バーカ!』とでも抜かしてんのかぁ!? そんなに殺されてーならよぉ……お望み通りペシャンコに叩いて、グリグリとティッシュに引き伸ばして、ダンツバぶっ掛けて惨殺処刑してやるっつってんだよ! てめーの大事な大事なガキ共と一緒によぉ……! ハハハッハ! ざまーみやがれ! フッフッフッフッフ……! …………チッ……! ……あー……イライラする……! どこに隠れやがったあの野郎……! 見てろよ……! あの雑魚ゴミ野郎……! 絶対に殺す……殺してやる……!」
「お母さん……」
「テメーは寝てろ!」
「嫌だよ! 可哀そうだよ! 蚊さんを殺さないで! 蚊さんだって、一生懸命生きてるんだよ?」
「うるせーなダボ! てめーだって昨日サラダチキンムシャムシャ喰いながらうめーっつってたじゃねえかよお! てめーに喰われた鶏は一生懸命生きてねーっつーのかよ!? ガキの癖に偉そうな事ぬかしてんじゃねえ!」
「確かにそうだけど……鶏さんは死んじゃったけど、僕の中で生きてるじゃないか! お母さんは、腹が立つとかそういう理由で蚊さんを殺そうとしてるじゃないか! そんな事やっちゃダメだ!」
「うるせーなー! 殺される方には関係ねーんだよ! 同じなんだよ! どっちも! 鶏だって『散々卵産んでやったのに用済みになった途端勝手に殺しやがって! クソ人間の分際で調子乗ってんじゃねーぞクソ!! 呪ってやるゴミ人類共!』とか思いながら死んでんだよ! 納得して喰われる馬鹿なんてこの地球上に存在しねえよ!」
「でも……」
「あーもういいから黙ってろ。てかテメーだろベープマッド勝手に切った馬鹿はよぉ……あれ付けてれば今頃じわじわと嬲り殺しにできたのによぉ……まあいい……イライラしてるからこの手で叩き潰してやる! どこだぁ? 出て来いよクソアマがよぉ……!」
「やめてよ! お母さん! もうやめてよ!」
「邪魔だクソガキ! お前はさっきから! 寝ろ!」
泣いても、縋っても、お母さんは鋭い目線で部屋の隅々を睨みつけて、蚊さんを殺そうとするのを止めてくれなかった。
そして……
「あっ……いた! そのままじっとしてやがれよ……今からブッ殺してやるからよぉ!!!!!」
そしてお母さんの手が、蚊さんの止まっている壁に叩きつけられようとするその瞬間、
「……あ……が……ぎ……」
僕は超能力を使った。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
強すぎて、僕にもうまく制御できない力。
お母さんに絶対使ってはいけないと言われていた力。
そんな力を僕は使った。それしか方法が無かった。
「ごめん。お母さん。でもお母さんが悪いんだよ。お母さんは、僕が止めてって言っているのに蚊さんを殺そうとするのを止めてくれなかったよね?」
「イッ……ッギイイイ……ケン……ちゃん……?!」
「僕が知らないだけで、今までも沢山の蚊さんが、人間によって殺されて来たんだよね? 痒い思いをしたくないとか、ぐっすり眠りたいとか、そんな下らない理由で。僕は絶対にそんな事許せない!」
「アッガア……アア……」
「大丈夫。僕は誰も殺さない。お母さんの事も殺したりしないよ。ただ、光合成と水だけで生きられるように、誰も殺したくなくなるように、体を作り変えているだけだよ。もちろんお母さんだけじゃなくて、他の人達もみんな体を作り変えている所だから、お母さんだけじゃないよ。安心してね。……本当はずっと前からこうしようって思ってたんだ。世界中で飢餓や貧困や戦争や孤独に苦しむ人を助ける為には、こうするのが……人類を植物にしちゃうのが一番なんじゃないかって。お母さんのお陰で決心がついたよ。ありがとう」
「…………ア」
「僕もみんなと同じように植物になりたい所だけど、僕のこの力は普通の人間の時にしか使えないみたいなんだ。もし地球に隕石が落ちてきたら大変だし、寂しいけど僕は普通の人間のまま生きていくことにするよ」
「……ケンチャン」
「なに? お母さん」
「ゴメンナサイ……」
「謝るなら蚊さんに謝って」
「ハイ……蚊サン……悪口イッテ……ゴメンナサイ……殺ソウトシテ……ゴメンナサイ……」
「うん。蚊さんもきっと許してくれると思うよ」
緑色になったお母さんは、目を閉じたまま静かに微笑んでいた。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
僕が作った新しい世界では、今日も沢山の蚊さんが幸せそうに飛んでいる。
戦争も犯罪も自殺もなくなり、蚊さんが無意味に殺される事もなくなり、世界は平和になった。
「蚊サン……モットイッパイ吸ッテイイヨ……」
お母さんも蚊さんを殺そうとしたりしなくなった。
むしろ蚊さんに自分から血を吸わせてくれている。
肌が緑色だし、声がちょっと変わっちゃったし、体温も無くなっちゃったけど、それ以外は元の優しいお母さんに戻ってくれていた。
「お母さん。僕は外の様子を見て来るね」
「イッテラッシャイ……ケンチャン……」
外に出ると、道路のアスファルトの割れ目から草が生い茂っており、遠くには鹿の姿も見えた。
お母さんから蚊さんを守ったあの日から10年。
人々の痕跡は自然に埋め尽くされつつあった。
そんな世界を歩いていると、
「あっ」
ふと手首に痒みがあった。
ピンクに小さく膨らんでいる。蚊さんに刺されてしまったのかも知れない。
「……最近多いなあ」
新人類が蚊さんにいつも血を吸わせているせいか、崩れかけた建物に水が溜まっているせいか知らないけど、最近蚊さんを沢山見かける。
「あっ……また……」
今度は太ももだった。
掻いても掻いても、どんどん痒くなる。
首筋を掻いた時、耳元にプーンと音がした。
「蚊さん! もうやめてよ! 痒いよ!」
首を振りながら叫んでも、痒い所が増えていく。
「何で? 僕は蚊さんの為に、沢山頑張ったんだよ? 蚊さんを守るために、世界を作り変えたりしたんだよ? なのになんで……。もうやめてよ!」
蚊さんに自分の気持ちをテレパシーで伝えた。
それでも、伝わっていないのか、無視されてしまったのか、蚊さんは僕を刺し続けた。
「もうやめて! やめてよ!」
全身の痒い場所を掻きながら、どこへともなく逃げていると、僕はギョッとした。
水が溜まった側溝の傍に、蚊さんが沢山集まって飛んでいた。
「いやだ! もうやめてよ!」
止めてと言っているのに、痒い場所はまだ増えていく。
腕を見ると、蚊さんがお腹を赤く膨らませて、僕の血を吸っていた。
「ひっ!」
思わず手で払いのけてしまった。
手の平には、蚊さんが吸った僕の血に包まれて、蚊さんが小さく潰れてしまっていた。
「違う……僕は……わざとじゃないんだ……!」
プーンと、耳元で怒ったような音がした。
また全身が痒くて、掻いた。掻いた。
狂ったように掻きまくった。
それでも痒みは全く収まらない。
怖くなって全速力で走って、息切れして歩く。
その時、また腕に蚊が止まっていた。
「ああ……! もう……!!」
痒い! 痒い! 痒い!!
「何で……」
耳元でプーンと音がした時、僕の中で何かが弾けた。
「もうやめろおおおおおおお!!!」
僕は暴走した力のままに、燃え盛る炎を放出してしまった。
周囲の蚊さんが消し炭になって、粉雪みたいにパラパラと舞い落ちていった。
◇ ◇ ◆ ◇ ◇
「お母さん」
「ケンチャン……最近……蚊サン……イナイネ……」
「お母さん……ごめんなさい……」
「何デ謝ルノ? ケンチャン……」
「ごめんなさい……」
今でも時々考える。
僕は本当に正しかったのだろうか。
緑色になったお母さんが、目を閉じたまま僕を抱きしめてくれた。