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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

新婚じれじれ短編集

新婚なのに、言葉が通じません!

 十六歳のルーシーは、ビーズが散りばめられた豪奢なドレスを着せられ、婚姻の儀に臨んでいた。


 ルーシーはトレイユ国の第四王女である。彼女は本日、セマ王国の第一王子であるアミルと政略結婚する。トレイユから船旅一ヵ月。着いたその日に婚姻の儀が行われ、彼女は疲弊し切っていた。


 彼女の嫁入りするセマ国では、女は髪を結い上げないものらしい。トレイユ国で船出前に結ったルーシーの金髪は婚姻の儀に際してほどかれ、肩に落ちていた。


 隣には、十八歳の青年アミルがいる。


 夫のアミルは華のある顔立ちの、背の高い精悍な青年だった。彼は顔立ちこそルーシーのいた国の人々に似ているが、黒い髪、緑の瞳で、やや褐色の肌をしていた。


 今日初めて会ったが、彼の第一印象は悪くない。セマ国特有の気質なのか、国民全員極端に表情が硬く、滅多なことで笑顔は見せない。が、彼らの根がとても真面目で平和主義者であることは、その物腰から何となく伝わって来る。


 というのも、アミルは微笑まない代わりに、しきりにルーシーに何事か話しかけて来たからだ。


 気を遣ってくれているのか、召使に言い付け、色んな食べ物を勧めてくれる。


 婚姻の儀の間、ルーシーの目の前は食べ物でいっぱいになった。


 分かっている。その親切心は分かっているのだが──


(どうしよう……アミルが何を話しているのか……全然分からない!)




 結婚の一年前。


 ルーシーはセマ国の文化や言語について事前学習を行っていた。


 セマ国は海に面した貿易の中継地点であり、人種と宗教のるつぼであること。地震が多い土地であること。


 第一公用語はセマ語、第二公用語がバルニエ語であること。


「セマ国の第二公用語はバルニエ語なので、王族相手ならばそれで通じるはずです」


 王女付きの家庭教師はそう言った。


 バルニエ語とは、バルニエ帝国の主言語であり、トレイユ国でも普段から使われている第二外国語であった。


 バルニエ帝国は世界各地に植民地を持つ強大国なので、周辺国の王侯貴族ならば必ずこの言語も喋れるのが一般的だったのである。特に貿易においては、一般市民もバルニエ語で取引を行っていた。


「じゃあ、私の夫になるアミル王子も、その言語で話してくれるのですね?」

「そのはずです」

「バルニエ語が通じるなら安心だわ。現地の言葉は、向こうに行ってから覚えようかしら」

「それがいいでしょう。セマ語は発音が独特ですから」


 言葉も文化も違う国への嫁入り。ルーシーはそれなりの覚悟で臨んだはずだった。




 だが、その覚悟など甘いものだったのだ。ルーシーは一年前を思い出し、深くため息をついた。


 実は何度か、彼女はバルニエ語での会話をアミルに試みていた。あちらもそれに気づき、バルニエ語で返してはくれるのだが──


(訛りが凄すぎて、何を言ってるのか全然分からない!)


 これは盲点であった。ルーシーの喋るバルニエ語もどうやら訛っているらしく、アミルはルーシーが話に応じるたびに怪訝な顔をする。


 トレイユ訛りと、セマ訛りの仁義なき闘い。


 婚姻の儀の高砂は混沌を極めていた。


(こうなったら……セマ語を喋るしかないわ。不測の事態も予想して、持ち物の中にアレがある……!)


 ルーシーは気を取り直した。


(トレイユ国から持って来た、バルニエ語訳のセマ語辞典があるわ。そこから単語をかいつまんで話せばいいのよ)


 第一王子のアミルと結婚したからには、ゆくゆくはルーシーも王妃になるのだ。常に紙とペンでも持ち歩けばバルニエ語で彼と筆談出来るのだろうが、煩わしいし、何しろエレガントではない。王妃らしく振る舞うためにも、今後セマ語は必須だ。今から勉強しておかなければならない。


(それに……)


 ルーシーはアミルをちらと見る。


(この人とも、一生一緒にやって行かなければならないし……)


 すると、何かに勘づいたアミルがルーシーの空いている手をそっと握った。


 それからじっと探るように、こちらを見つめて来る。


 ルーシーはそんなアミルをじいっと見つめてから、首を傾げた。


(この人、今、笑ったのかしら……?)


 とにかくセマ国の人々は表情が読めないが、彼の手の感触は少し機嫌がよさそうだった。


「よろしくね、アミル」


 とりあえずルーシーは微笑み、バルニエ語でそう彼に声をかけた。


 多分言葉は通じていないが、アミルは少し嬉しそうに頷いた。




 王宮内に自分の寝室を与えられたルーシーは、早速辞典を開いた。


 ルーシーが現在知っているセマ語は、これだけ。


『おはよう』『こんにちは』『おやすみ』『はい』『いいえ』『大丈夫』『わかりました』『ありがとう』『ごめんなさい』


 なんとも心細いラインナップだ。


「うーん、アミルとうまくやって行くには、ほかにどんな言葉が必要なんだろう」


 ルーシーは辞典を開き、書き出して行く。


『~が好きです』『~が嫌いです』『~は出来ません』『疲れています』『~が痛いです』『~はどこですか?』『~して欲しいです』


 この辺りは、生活する上で欠かせない言葉になるであろう。


「あと、そうだわ……」


 ルーシーは虚空に呟く。


「……愛しています」


 その言葉を本心から彼に言う日など、果たして来るのだろうか。


 と、ノックと共に扉が開き、アミルがひょいと部屋に入って来た。


 何の予兆もなかったのでルーシーは驚き、辞典で紙を隠す。アミルは妻に尋ねた。


「疲れてる?」


 ルーシーは頬を染め、頷いた。辞典で先程引いたところだったので、すぐに意味が分かった。


「はい。疲れています」


 すると、彼女がセマ語を使えると踏んだアミルが、こう続けた。


「ルーシー、*#@$%……して欲しいんだけど」


 言葉が聞き取れない。ルーシーは困ったが、とりあえずもう一度言った。


「ごめんなさい、疲れてます」

「そう。……おやすみ、ルーシー」


 アミルは彼女が同じ言葉を繰り返したので、遠慮して退散したようだ。ルーシーはほっとしたが、はっと我に返る。


(ちょっと待って。今のって、疲れを理由に断っていいことだったの?)


 アミルが怒ってない様子だったのが幸いだが、今後もこの調子でやっていては、トラブルが起こらないとも限らない。


(どうしよう……やはり、セマ語を頑張らないとだめだわ)


 ルーシーは彼との間にある言葉の壁をひしひしと感じながら、ベッドに横たわった。




 次の日。


 朝食後、ルーシーはセマ国の国王でありアミルの父である、ハムザに呼ばれた。


 アミルはルーシーを連れ、王の寝室にやって来た。そこには様々な宝飾品が置いてある。


 ハムザが訛りの強いバルニエ語でそれらを指さして色々と言うが、まるで聞き取れない。


 ルーシーが困っていると、急にハムザが怒り始めた。


 ルーシーは青くなり、察したアミルが二人の間に割って入る。急に父と子の喧嘩が始まり、彼女は目を白黒させた。何か、失礼にあたることをしてしまったのだろうか。


 アミルは父に何か言い募ると、妻の手を取って部屋を出た。


 召使が数人追って来る。ルーシーは何が何だか分からぬまま、そのまま裏庭へと連れ出された。


 言葉が分からないと、何も状況が掴めない。ルーシーは肩を落とした。


(どうしよう……私、お義父様を怒らせてしまった。私の語学力が至らなかったせいで)


 ルーシーは自分を責めた。


(結婚前に、もっとセマ国のことを知っていれば、こんなことには……)


 目をこすり始めた彼女を見て、アミルはそうっとその肩を抱いて言った。


「*#@$%……だから、父が悪い」


 聞き取れない部分もあったが、夫が訛りながらもバルニエ語でゆっくりとそう言ったのが、ようやく聞き取れた。


 彼は慰めてくれているのだ。そして、ルーシーの味方もしてくれている。


 ルーシーは少し救われた気がして、頷いた。


「ごめんなさい。大丈夫よ」


 そのセマ語を聞くと、アミルはルーシーの肩を抱きながら歩き始めた。


 一度ルーシーの部屋に戻り、アミルは彼女の辞典を手に取った。それをパラパラとめくると、アミルは辞典のある部分を指でつついて見せた。


〝どうにかする〟


 ルーシーはそれを見て、こくりと頷いた。アミルは真面目な顔で、その言葉を口にした。


「私がどうにかするから、大丈夫」


 知った言葉の羅列に、ルーシーは心を救われる。


「ありがとう、アミル」


 ルーシーがそう言うと、アミルはうんうんと何度か頷いた。




 そんなことがあってから、二週間後。


 ルーシーはアミルに連れられ、客間にやって来た。


 事前に何の説明もなく急に客間に連れて行かれたので、客人の相手をさせられるかとルーシーは不安だった。が、そこにいた客人を見て彼女は目を見張った。


 牧師の格好をした、白い肌に青い目の女性がいる。ルーシーがぽかんとしていると、彼女は言った。


「初めましてルーシー様。私、トレイユ国からやって参りました宣教師、モリーと申します。現在、セマ国とその周辺国に学校を建てる活動をしておりますの」


 ルーシーはみるみる目を潤ませた。


 久々の、言葉の通じる相手だ。ルーシーが感激に黙っていると、モリーは続けた。


「アミル様に呼ばれて、やって参りました。王子は私に、ルーシー様の話し相手になってあげて欲しいと」


 ルーシーがアミルを見やると、彼は珍しく破顔した。ルーシーは気が塞ぎがちな自分のために彼がトレイユ人を探し出して来てくれたことを、素直に有り難く思う。


「……ということは、モリーさんは通訳なんか出来たりします?」

「はい、出来ますよ」

「じゃあちょっと今、アミルと私との橋渡しをして貰ってもいいかしら」

「はい。ならば、まずはアミル様のセマ語を通訳させていただきましょう」


 アミルがモリーに、何かを一生懸命喋っている。モリーは頷いてから、こう告げた。


「父は、癇癪を起こしやすい。セマ国では珍しいタイプの暴君だ。彼が苛立ったり、怒ったりしても、いちいち真に受けないで欲しい」


 ルーシーは二週間前の出来事を思い出した。


「それを聞いて安心したわ。私の態度が殊更悪いわけではなかったのね」


 モリーがそれを通訳し、アミルが少し弱ったように笑った。


「ルーシーは、いい子だよ。私は君が頑張っているのをありがたいと思ってるけど、申し訳なくも思っている。至らない夫で済まない」


 アミルの吐露を訳され、ルーシーは頬を染めた。


「そんなことを考えてたの?」


 モリーは二人を交互に見て言った。


「……お二人は、余り意思疎通が出来ていないのですか?」

「はい。どちらもバルニエ語が出来るはずなんですが、お互い訛りがひどく、よく聞き取れないのです。筆談を公の場でするのも憚られますし……」

「それならば、ルーシー様の方がセマ語を覚えて行った方が早いですね。ルーシー様は、ゆくゆくは王妃になるお立場なのですから」


 ルーシーの背筋が伸びる。


「王妃……」

「王族はバルニエ語を話せますが、臣下と民衆はセマ語しか話せません。王妃になれば彼らと話す機会も増えますから、セマ語を習得しておけば間違いないでしょう」

「そうね」

「外国から来た王妃は、どこの国でも国民からは余り歓迎されません。そんな時、現地語を話せれば国民に親近感を抱かせることが出来ます。私はいろんな国へ行きましたが、慕われる王妃というのは国内出身か、現地語に堪能であるかのどちらかです」

「へー、そうなの」


 このモリーという女性宣教師は、様々な国の事情を知っているらしい。ルーシーは心強い味方が出来て嬉しかった。


「さてと。他に今、お伝えしたいことはありますか?」


 ルーシーはアミルを見ると、もじもじしながらこう告げた。


「あの……この国の人は、アミルも含めて表情が余りないの。だから私、言葉は上手じゃないからせめて、アミルに表情があると安心するわ。言葉以外のコミュニケーションも、色々取れたらいいなと思ってるの」


 モリーがアミルにそう告げると、彼は意外という顔をした。そして、何事か呟く。モリーはくすくす笑って、アミルの言葉を訳した。


「もう、言葉以外でコミュニケーションを取ってもいいのか?ですって」


 ルーシーは首を傾げる。モリーは言った。


「つまり、アミル様はルーシー様に、夫婦らしい触れ合いを求めていらっしゃるようです」


 ルーシーは急に緊張し出した。そういえば言葉の勉強ばかり頭にあったが、相手と親密になるにはそれ以外の方法がもっとあるはずなのだ。自分は言葉に固執し過ぎていたのかもしれない、とルーシーは反省した。




 夜になった。


 ソファで辞典を開いて単語を熱心に読み込んでいると、アミルがやって来て隣に座る。


 ふと、ルーシーが辞典をめくる手を、アミルの手が止めた。


 ルーシーはどきりとして夫に顔を向ける。


 アミルの手がルーシーの頬に触れ、彼はセマ語で小さく呟く。


「お前は美しい」


 辞典を読み込んでいただけに急に意味の分かる言葉が出て来て、ルーシーはどぎまぎする。


「……本当?」


 アミルは頷いた。そして微笑むと、満を持すように顔を近づけて来る──


 と、次の瞬間。


 ぐらりと地面が揺れ、ルーシーははっしとソファのひじ掛けにしがみついた。


「……地震だわ!」


 長い地響きの後、建物が大きく揺れた。横揺れの強さに抗えず、ルーシーは床に投げ出される。アミルも床に転がったが、強い揺れの中、這って妻の元まで辿り着く。


 アミルはルーシーを抱き締めると、天井から降って来る様々な装飾品から彼女を守った。ルーシーは覆い被さったアミルの腕の中、揺れが収まるのを天に祈るような気持ちで待つ。燭台が倒れ、辺りは真っ暗になった。


 揺れが収まった。


「アミル、助かったわ。ありがとう……」


 アミルがそっと体を離して立ち上がり、ルーシーは仰向けになったまま呆然と彼を見上げる。


「……頬を切ったの?大丈夫?」


 アミルが頬をこすると、手の甲に赤い血がべっとりとついた。ルーシーも立ち上がる。


「早く手当てを……」


 アミルは彼女を避けるようにして立ち上がると、壊れたシャンデリアを踏みしめ、月明かりを頼りに部屋の窓をぎしぎしと開けた。


 その向こう側に広がる風景を眺め、彼は深刻な表情で踵を返す。


「ちょっとアミル……」


 アミルは彼女を無視し、そのまま部屋を無言で出て行った。


 ルーシーは怪訝な顔で、同じくシャンデリアを踏みしめ窓の外を眺めた。


 その光景に、彼女は総毛立つ。


 窓の外には炎が立ち、瓦礫が累々と積み重なっていた。


「これは……!」


 所々で泣き叫ぶ声。必死に瓦礫を持ち上げようとする大人たちの姿。道を惑う犬や猫、家畜たち。ルーシーは、この国が大災害に見舞われたことを悟った。


 ルーシーは地階へ駆け下りる。すると、既に兵士が集まって隊列ごとに並ばされていた。


 指揮を執るのはアミルだ。何かを隊ごとに命令しながら、隊長に地図を指し示している。


(きっと、市民の救助に向かうんだわ)


 アミルが行ってしまえば、ルーシーは何も言葉がわからないまま、ここにひとりぼっちだ。


 不安で仕方がなかった。けれど。


(王太子妃が、不安を顔に出しては駄目だわ。ええっと……)


 ルーシーは頭の中に、あらん限りのセマ語を総動員した。


 ふとこちらを振り返ったアミルに歩み寄り、彼女はセマ語でこう語りかける。


「私なら、大丈夫だから」


 アミルはぽかんと口を開けていたが、努めて笑ってこう応えた。


「……強がり」

「本当ですってば」


 兵士らが、静かに二人の会話を聞いている。


 ルーシーはアミルの両頬に手を添えると、いつか言おうと考えていた言葉を口にする。


「愛しています」


 アミルはぽかんとしていたが、真っ赤になっているルーシーを見下ろすと顔を近づけた。


「私もだ」


 唇と唇が軽く触れ合う。


「……行って来る」

「無事を祈ります」


 簡単な言葉。


 それらを躊躇なく言い切って、ルーシーは高鳴る胸を抑えた。


 本心から言ったのかどうかは、今のルーシーにはまだよく分からない。けれど、この言葉を今言わなければ、彼に何かあった時にきっと一生後悔する、と思ったのだ。


 ──言葉。


 母国にいる時は何気なく母国語を使い、時には持て余していたけれど、外国に嫁ぐとその言葉ひとつひとつがとても重い。


 ましてや、言葉の通じない相手を愛すとなれば、尚更だ。


 ルーシーは二階から、炎立つ瓦礫の町へ向かう夫の隊列を見送った。




 一方、アミルは隊列を率いながら、後続兵士の私語を聞くともなく聞いていた。


「ルーシー様ってセマ語が話せるんだな」

「意外と流暢だったな。勉強してからこっちに来たのかな?」

「トレイユ国は弱小国のくせに、かつて古代文明が栄えてたってだけのことで国民のプライドだけは異常に高いから、王太子妃もいけすかない奴だと思ってた」

「さっきの見たか?あんな短期間でアミル様を手玉に取るとは大したもんだな」


 アミルは顔を上げた。


 女だてらに、もう人心掌握が出来ている。


 最低限の言葉で。


(父など、いくら言葉を並べ立てても、誰にも信頼されぬのにな……)


 案外、口数を少なくした方が人の心を掴むことがある。


 アミルも、ルーシーに心掴まれたひとりだった。


 互いの言語が通じないという不測の事態が起こったが、こちらを責めるでも誰かに頼り切るでもなく、ルーシーは自分で何とかしようと努力してくれた。


 彼女が口を開く瞬間、どんな言葉が出て来るのかと期待する。


 それが例え短い言葉であっても、辞典を手につたなく話しかけられては耳を傾けざるを得ない。


 慣れない言葉を喋る手前の、もどかしいようなくすぐったいような緊張感。


 アミルは、ルーシーが喋り出す前の、独特の間を愛しつつあった。


 現地語で自分とコミュニケーションを取ろうと必死な様子の新妻を、可愛く思わないわけがない。


 アミルは、必ず無事に帰って再びルーシーを抱き締めようと心に誓う。


(言葉も分からないのに、独りにされて不安だろう……待っていてくれ、ルーシー)




 次の朝も、その次の朝もアミルは帰って来なかった。


 城の人員は大方救助に充てられ、ルーシーは驚くほど放っておかれた。彼女は毎日窓の外を眺めては、夫の帰りを待った。


 余震が続いている。ルーシーもじっとしていられず、城の近くで細々と救助活動を手伝う。


 ある時、モリーが孤児たちを連れて王宮までやって来た。


「ちょっと食料がなくなってしまって。少しでもいいので、食べ物を分けてもらえませんか」


 ルーシーは人数分のパンを用立てて貰った。それを配っていると、遠くから隊列が帰って来る。


 ルーシーは目を輝かせ、立ち上がった。


「アミル!」


 彼女が大きく手を振ると、アミルも大きく手を振って歩いて来る。


 アミルの片腕には、添え木がしてあった。ルーシーは駆け寄ってそれをまじまじと見て、心配そうに尋ねた。


「大丈夫?」

「大丈夫。*#@$%したけど*#@$%したから」


 またしてもよく分からない単語が飛び出したが、とにかく無事に夫が帰って来たのでルーシーはほっと息を吐く。


 こちらを愛おしそうに見下ろす彼を見て、自分の中に新しい感情が芽生え始めたことを彼女は直感した。


 ルーシーは例の言葉を繰り返す。


「愛してるわ、アミル」


 アミルはくっくと笑って妻を抱き寄せる。


「もっとたくさんの言葉を覚えたルーシーと、腹を割って話がしてみたいものだな」

「?何て言いましたか?もっとゆっくり……」

「私も君を愛してる」

「……何か誤魔化しましたね?」


 モリーがそれを聞き、くすくすと笑っている。


 兵士たちもさざめくように笑う。


 アミルの肩越しから見る町は、たとえ瓦礫の中にあっても、前より明るくルーシーの瞳には映ったのだった。




 セマ国は地震の多い国なので、復興も早い。


 モリーは王宮の庭の空いたスペースを借り、子どもたちを集め青空学級を始めていた。


「では、この単語はどう書きますか?はい、ルーシー様」


 そこには、子どもたちに混じって授業に参加するルーシーの姿がある。


 子どもたちの笑い声の中彼女は立ち上がり、黒板にチョークでセマ語を書いた。


「正解です!」


 子どもたちに拍手され、ルーシーは肩をすくめて笑う。


 教室の最後尾では、まだ腕の添木の痛々しいアミルが微笑ましく授業を眺めている。


 王太子妃は、子どもたちに混じってセマ語を習うことにしたのだ。


 アミルと暮らす内、ルーシーの語彙は確実に増えた。いつも二人の間には辞典があるが、アミルがルーシーに構いたくなった時は、辞典を勝手に閉じて来る。この学級ではそれがないので、言語習得に集中出来る。


 今日も、ルーシーは色んな単語を覚えた。


 授業が終わると、アミルもついて来る。


 怪我をしてしまい公務がないので、彼はルーシーにべったりになっているのだ。


「もう、もっと勉強したいからひとりにして」

「私が教えてやろうか」

「何を?」

「色々」

「いいです。モリーさんの方が教え方が上手いから」


 ルーシーは自室に戻り、再び辞典と睨み合う。


 アミルは隣で、その様子を見ながら言う。


「君は国民から人気がある」

「そうなの?」

「セマ語で話そうとし、子どもに混じってまで言語習得に励む健気な様子が、街まで漏れ伝わっているようだ。どの国の王妃も外国から来た場合、現地に馴染もうとしないのが普通だ。私の亡き母もそうだった。だから、母は国民からの支持をまるで得られなかった。その状態を放置し続けた父も同様だ」

「ちょっと待って……早口で、何言ってるのか分からない」

「まあいい。要はみんな、君が好きなんだよ」

「アミルがそう言うなら信じるわ」


 愛があれば言葉はいらない……わけはない。


 愛があるからこそ、言葉が必要なのだ。


 アミルは背後からルーシーを抱き締めた。


「ルーシー、そろそろ休んだらどうだ?」

「いいえ。私、早くアミルとお喋りしたいし、みんなの話を聞けるようになりたい」


 ルーシーの辞典は既にボロボロだ。アミルはそれを眺めながら呟いた。


「多分、君は近い内、私の助けになるだろう……勤勉な妻よ」

「?だから、全然分からないってば。もっとゆっくり……」




 それからしばらくして教皇派のクーデターが起こるが、勤勉なルーシーを国母にと願う国民の支持によって再び王政が巻き返すことになる未来など、彼らはまだ知る由もない。

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― 新着の感想 ―
[一言] ルーシーの元の性格もあるのでしょうが、アミルの優しさや忍耐力(疲れてると言われて初夜を諦めたところなど)もあったからルーシーも頑張れたのでしょうね。 アミルが父王のようであれば、ルーシーも辛…
[一言] サボり気味になっている英語の勉強をもうちょっと頑張ろうかと、この作品を読んで思いました! 
[一言] あぁーーー可愛かった!癒されました。ありがとうございます!
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